エッセイ「これも祈り」
池上妙子
私は7歳から1歳までの、4人の男児の母親です。一人っ子だった私にとって、男の子の活発さにはいまだについていけない面があります。たとえば、おやつを取り合うようすを見ても、「人間には、動物の本能がこんなに残っていたの?」と驚いてしまいます。
子育て奮闘中の、現在の私ですが、中学時代までは精神的に不安定で、言葉では説明できない心の不安を抱えていました。私だけほかの人とは何かが違う、もしかしたら私は宇宙人なのかもしれないと、本気で思っていました。
人と会うのが苦痛で、学校も休んでばかり。登校してもトイレに隠れてしまい、給食を暗いトイレの中で食べたこともあります。
そんな私が変わったのは、中学卒業の春に参加した、幕屋の全国中高生集会がきっかけでした。祈りの中で、「そのままの私でいい、ありのままの姿でキリストの御許(みもと)に近づけばいい」と神様から教えられたことは、小さいころから心の葛藤(かっとう)と闘ってきた私にとって、一番の救いとなりました。
その集会で回心して、自分が神様に愛されていることを知ってからは、別人のように元気になって、高校3年間は一度も学校を休まずに過ごすことができました。祈ることが大好きになり、進学して、就職してからも、どんなに忙しくっても毎日、聖書を読んで祈っていました。
静かに座って聖書を……
時間の使い方が一変したのは、結婚して子育てが始まってからです。静かに座って聖書を読むような、自分のための時間はなくなってしまい、「そんな時間があったら眠りたい」、それが正直な気持ちでした。
一時期、身も心も育児に疲れてしまったことがあります。叱る時につい手が出てしまい、後悔しては泣くことの繰り返しでした。
ある日のこと、目を離している隙に、いつの間にか子供たちが泥んこ遊びに夢中になって、信じられないほどに服が汚れています。普段の私なら、泣くか叱るかです。でも、なぜかその日は、私も一緒になって遊んでみたんです。泥だらけの手を子供に見せながら、「気持ちいいね」という思ってもみない言葉が、笑いと一緒に私の口から出ました。
長男が下の子の手を取って「ちょうちょだ、ちょうちょだ」と言って蝶々を追いかける姿を見ていたら、「ああ、きっと神様は私のことも、こんなふうに見守ってくださっているんだ」と心に感じて、うれしくなってその場で泣いてしまいました。
取り繕わないで
私が聖書を読んで祈ることが好きだったのは、神様の言葉と御愛に触れたかったからです。
以前の私にとって、神様の言葉は聖書の中にあるものでした。祈りの時間は、居ずまいを正して座るものだと思っていました。
ですが、普段の生活の中にだって神様の言葉と御愛はちりばめられている、座って祈ることだけが祈りじゃないんだ、と知ることができました。
どこで何をしていたって、祈ることができる。
「神様、私は少し疲れました。元気が欲しいです」と、取り繕わないで神様と会話するように過ごす。そんな時間の使い方が、今の私の目標です。
成長途中の子供はもちろん、私も未完成です。息子たちも私も、神様の御手の中で、粘土細工みたいにこねて揉まれて形づくられる、神様の作品なんだと、最近は思えてきました。
子供は今も泥んこ遊びが大好きで、時間を忘れてこねています。終わるのを待ちくたびれた時、ふと私という作品の完成を待っていてくださる神様の御愛を感じて、顔を上にあげる、これも私の祈りの時間です。
本記事は、月刊誌『生命の光』817号 “Light of Life” に掲載されています。