聖書講話「新しい文明への礎」ヨハネ福音書17章6~14節
新年を迎え、希望をもって年を始める人がいる一方で、なお困難の中にある人たちもいることでしょう。しかし、人類の進化や歴史を考えると、そのような困難な状況から、新しい時代の礎となる者たちは生み出されてきました。それは、どのような人たちでしょうか。
今回も、ヨハネ福音書17章の、「キリストの最後の祈り」から学んでまいります。(編集部)
ヨハネ福音書17章は、イエス・キリストの最後の祈りです。もちろんその場で筆記したものではないでしょうが、弟子たち、わけてもヨハネの心には、いつまでもキリストが祈られた祈りが胸深く残っていた。それをヨハネなりに再現したものですから、キリストの言葉そのままとはいえないかもしれません。けれども、強い印象というものは再現できるもので、イエス・キリストがどういう態度、心境で祈っておられたかをうかがい知ることができます。そして、この祈りは私たちの理想、目標とすべき祈りであります。
今日は6節から読んでまいります。
「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです」
ヨハネ福音書17章6~8節
「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった」という箇所は、原文のギリシア語には「選んで」という語はありません。「世からわたしに賜わった」となっています。
また8節には、「わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り」とありますが、イエス・キリストの肉体の中に宿った永遠の生命は、この世から発生した生命ではない。永遠の世界、神の世界からやって来たものであることを知った、ということです。
神の御名によって護(まも)られる
「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです。わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。
ヨハネ福音書17章9~12節
聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」
11節に「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残る」とあります。天的な生命、神の生命が弟子たちには臨んでいるので、彼らはもう普通の人間ではない。この世にありながらこの世ならぬ生命に満たされ、不思議な生涯が始まったが、普通の人間の社会に合わぬため、ひどい迫害を受けました。イエス・キリストご自身も神の生命で生きたために、この世にあって大変苦労されました。しかし、それがどんなに光栄あることであり、神の世界、霊的な国を来たらせることとなるかを知っておられました。
12節に「御名によって彼らを守り」と言われています。神様は目に見えず、名づけられない説明しがたい存在です。だからといって存在しないのではない。神様が存在しておられるならば、御名を呼べば実在が現れてくるのです。「〇〇君!」と呼んだら「ハイ」と答えます。同様に、神の民を悪魔が奪おうとするようなとき、神様の御名を呼び求めると、神様がご自分の名にかけて保護なさるのです。
イエス・キリストの発生
「今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」
ヨハネ福音書17章13~14節
「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました」とあります。この「憎む」は「μισεω ミセオー 嫌う、捨てて顧みない」という語です。なぜ、キリストの弟子になると世から憎まれるのか。そしてなぜ、そのような者を通して神様は驚くべき霊的な民を作られるのだろうか。ここを読んで、私はイエス・キリストの発生ということを思います。
私たち人類がここまで進化するために、天地を創られた神様がどれほど長い時間をかけられたかと思うと驚嘆します。地球上に生命が誕生したのは、今から約40億年前といわれます。たった1つの細胞からなる原始的な生命が、やがて複雑なものへと進化しはじめ、苔や羊歯類(しだるい)の植物が生まれ、植物が進化していった。それとともに、背骨をもつ脊椎動物が出てきて、魚類や両生類、爬虫類などが発生し、さらに哺乳類が現れた。そしてついに、哺乳類の中から人類が発生した。人類はサルと同じ霊長類に分類されていますが、どうしてサルと違ってこんなに高度な精神的進化を遂げたのか。これは人類学の謎です。
ある学者は、「変わったサルがいて、ある時、森の中での樹上生活から野に出て、2本足で立ち、歩くことをしはじめた。それとともに脳も大きくなり、外敵の攻撃に身をさらされながらも、道具を使うようになり、牧畜や栽培などの知恵を得て、サルとは全く比較にならないほど進化したのだろう」と推論しています。また、「そのようなサルは、もともとサルの社会には容(い)れられず、ほったらかされて村八分になっていた。そんなサルが、人類の祖先となったのでは」と想像する学者もいます。
この人類の中から、イエス・キリストは発生した。イエスという人物は世に来たが、世に憎まれて十字架にかけられた。だがこの一人を通して、世界の歴史が変わり、地図が塗り替えられ、今に至るまで何億もの人々がイエス・キリストを尊んでいる。どうしてそのような驚くべき人物が発生したのか、これは私にとって大きな問題です。イエスの弟子たちも、世から憎まれるような状況から素晴らしい人物に変わった。それを考えた時、「私も世と一線を画し、毅然としてキリストの道を歩こう」と思いました。もし宗教がこの世の道連れになり、滅びる者と共に滅んでゆくなら、私には耐えがたいことです。
困難な環境に打ち勝つ者が
昭和7~8年のこと、私は夏に樺太(からふと)に行きました。樺太の東側にあるオホーツク海には海豹島(かいひょうとう)という孤島があり、そこに地理学者の先生たちと調査船で渡ったことがあります。
その島には、オットセイが何千頭と群がっていました。オットセイは一夫多妻でして、ある雄は5~6頭の雌を連れています。中でも、ひときわ体の大きいボスのような雄には、20頭ぐらい雌がついています。けれども、ぜんぜん雌を連れていないのもおります。
そんな結婚できない雄たちは、島から少し離れた岩の上に群れを成していて、こっちの島をうらめしそうに見ています。ところが、ハーレムを作っているボスも群れの雌を守るために気が気でないので、秋になって南の海へ帰る時には、やせ細ってしまいます。
そうすると、結婚できずに向こうの岩の上にいた雄たちはその間に力をつけ、ハーレムの覇権を奪おうとして戦いを挑む。大きな平べったい前脚で空手チョップのようにパーンとたたいて、ものすごい闘争をします。必ずしも挑戦した雄がその地位を奪うとは限りませんが、覇権を握って次の海豹島王国を形成する者もいるというのです。
なぜこんな話をするかというと、キリストが「幸いなるかな、悲しんでいる者たちは。彼らは慰められるであろう」と言われたように、いつまでも同じ状況が続くわけではない。否、つらく悲しい状況にいた者たちが魂を鍛錬されて、次の時代をリードする選手へと変わってゆく。それができない者は、ついに社会から脱落してゆきます。
ですから、ただじっとしておる者は取り残され、やがて滅んでゆきます。しかし、どのような悪い環境の中でも耐え抜き、しかも工夫して生きている者は違ってきます。同じ環境でも伸びる者は伸びるし、滅びる者は滅んでゆくのです。
聖書の宗教が生まれたイスラエルの周辺には、歴史的にエジプトやアッシリア、バビロニア、またギリシア、ローマといった大帝国がひしめいておりました。ちょうどイスラエルは交通の要衝にあったために、さまざまな刺激を受けました。人間というものは激しい刺激に遭いますと、そのために潰れてゆく者もいます。しかし、その刺激がきっかけとなって目覚まされ、滅ぼされても立ち上がる者もいます。それがイスラエル民族でした。
霊的人類が生まれるには
私たち人類は、進化して現代の社会を形成していますが、今の人間社会が進化の絶頂というわけではない。もう一つ高度な人間たちが生まれてくる。イエス・キリストはその初穂です。人間でありながら人間の域を超えた超人、スーパーマンでした。キリストだけではない、聖書に登場する神の人といわれた人々は、どのようにして生まれてくるのか。また、どんな状況に神の生命が内側から爆発するように芽生えてくるのか。
一つは先ほどのように外側からの刺激ですが、もう一つは、内側に眠っている神の性質、神の生命が花開くからです。その生命は、それまで人間が知らなかった天的なものです。
それは、旧約聖書の宗教の開祖ともいえる、神の人モーセの出現を考えるとわかります。
イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、モーセの母は「生まれた子を殺せ」という命令に背いて、わが子をパピルスのかごに入れてナイル川の葦(あし)の中に置きました。それがパロの王女に拾い上げられて、やがてエジプトの王宮において育てられました。
その後モーセは立身出世をしました。けれどもある時、同胞のイスラエル人をエジプト人が激しく打っているのを見て、そのエジプト人を打ち殺した。翌日、今度はイスラエル人同士が喧嘩しているのを見て、悪いほうの男を「おまえはなぜ、同胞を打つのか」ととがめると、「あなたはエジプト人を殺したように、私をも殺そうとするのか」と言われて、人殺しが知られたことを恐れてエジプトから逃げました。彼はミデヤンの荒野に逃れ、そこで地元の祭司の娘を娶(めと)ります。かつては、エジプトの王宮で恵まれた生活をしていたが、今はわびしく荒野の奥で羊を飼わねばならぬほど落ちぶれたモーセ。けれども、荒野の何もない所で、柴が火と燃ゆる中に顕現(あらわれ)たもうた神に出会いました。
それまでのモーセは、権力、財力、物力、これらが人間としての強みだと思っていたでしょう。けれども、それを失って寂しい孤独な中で見いだしたものは、生ける神でした。
モーセが神様の言われるとおりやってみると、不思議なことが次々に起こった。その時に彼は、人間の権力や物力以上の驚くべき力を発見したのです。そして彼が、この神の力、この世のものでない力によって立ったときに、エジプト王の奴隷となっていたイスラエル人をエジプトから脱出せしめたのです。それを記しているのが「出エジプト記」です。ここに描かれた信仰が基礎となって、旧約聖書の宗教が生まれたのです。
滅びゆく文明から脱出せよ
イエス・キリストは変貌(へんぼう)の山において御顔のさまが輝くような状況になり、この世からの脱出(原文ではエクソドス(※注))という問題についてモーセやエリヤと語り合われた、と福音書にあります。私たちは現状に甘んじている間は、この世の束縛から脱することができません。もし人類の祖先となったサルが、森の豊かな食物に満足していたなら、人類に進化することもなかったでしょう。同様に現状を維持することしか考えない者は、神が用意しておられる進化の次の段階が、どれほど栄光に満ちた状況であるかがわかりません。
今、人々が求めているのは、この世的な幸福です。この世的な地位や財産を得ることです。それを大事だと思っている者は、神の力ということを聞いても、それが何だろうと言うだけです。神の力に頼らずともやってゆけるからです。しかし、地位や財産を失ったり、自分の属している社会や時代が行き詰まったりするときには、皆が考えだします。
これまでルネサンスを通して、輝かしい文明を築き、世界を支配してきた西洋から、今は新しいものが生まれ出てきそうにない。しかも、自分たちが作った科学文明によって、人類は滅びようとしている。核戦争におびえながら、大変なことになると皆が感じています。
先年、ヨーロッパに行って感じたのは、皆の顔が暗いですね。希望がないです。このごろは、この白色人種の文明がいつまで続くのかと、皆が疑問に思っている。どうやって現状を維持してゆこうかということで精いっぱいです。今多くの人が、私たちが生きている文明は終わりが近づいているのではなかろうか、これからどうなるのか、という終末論的な不安を感じております。しかし歴史を繙(ひもと)いてみると、時代が行き詰まる時、滅びゆく文明は滅んでしまうけれども、次にまた新しい文明が起こってくる。何か異常な刺激があるときに、人間の魂が奮い立って新しい文明が生まれてきます。
それはギリシア文明を見ても、ヘブライ文明を見ましてもそうです。民族がひどい試練に遭ったときに、その悩みに耐えかねて降参する者は降参する。けれどもそこで、何! といって内側から奮い立つものがわき起こると、文明は起き上がってきます。
※「出エジプト記」のことを、ギリシア語では「エクソドス」という。
生きる喜びが満ちあふれるため
今、日本に美術や文芸の批評家であるハーバート・リードという人がイギリスから来ています。昨日の朝日新聞を見ますと、この人が「日本にがっかりした。せっかく日本民族特有の尊いものがあったにもかかわらず、なんでこんなに悪いところばかりアメリカ化されてしまったのか」といって嘆いています。
今や多くの人が物質の奴隷のようになって、よい地位に就いたり、金もうけをすることが最高の喜びのように思っています。けれども、日本人であることの喜び、人間であることの喜び、男として、女として生まれてよかったというような喜びを失ってしまっています。
しかし宗教は、何よりも人間であることの喜びを教えるものです。キリストはここで、「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります」(13節)と語っておられます。私たちも、このキリストの生命というものに触れると、自分自身に、もう喜びが満ちて満ちてたまらなくなります。
最後の祈りにおいてキリストは、弟子たちの中にこのような喜びが満ちあふれることを願われました。それは、この社会でちやほやされるからではなく、この世においては迫害され、軽蔑され、憎まれるだろう。だが、そのような状況にありながらも、何者にも奪うことのできない喜びが弟子たちに満ちあふれるように、と祈られたのです。
そのために、「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(11節)と祈られています。神様とキリストが一つであるように、どうか彼らも一つとなるように。人間とキリストと神とが一つであるように、という祈りです。そのような状況にこそ、喜びが満ちあふれ、生きるということはなんと素晴らしいだろうか、と言いだすのです。
新しい霊的時代の灯明台
「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました」(14節)、キリストの弟子がなぜ憎まれるのか。彼らがこの世から出た者ではないからです。神を愛し、人を愛し、神と人とが愛の中で一体となって生きる喜び。このような喜ばしい状況が私たちにも拡がってきたにもかかわらず、この世の人々はこの一団に始まった喜びを奪おうとします。
どうしてそのような悪魔的な力が働くのか。これは生命の謎です。事実としてそうなのであって、考えてもわかりません。
私たちはこの世から外れても、勇気をもって新しい時代を切り開かねばなりません。私たちの胸に始まった喜びを、ただ一個人の喜びにとどめてはいけない。この喜びをもった人は、貧しくともはち切れるような、活き活きとした生涯を始めています。すべて新しい時代はこういう、人間として熱く生きる、血液の沸騰するような喜びから始まります。
現代文明も行き詰まり、地球自体も恐ろしい時を迎えています。滅びの子は滅びるでしょう。しかし、残る者たちがある。神の歴史はそのような者を通して進んでゆきます。
全宇宙がイエス・キリストという霊的人物を発生させるために、産みの苦しみをしました。そして、イエス・キリストの霊的な生命も、西洋人には忘れ去られておりました。
けれども、このキリストの生命が東洋の一角、大和民族に芽生えだす時に、きっと日本は世界の灯明台になれると私は信じています。大和民族はわずか数十年で西洋文明に追いつき、頭角を現した民族です。今は欧米化して大和魂が麻痺(まひ)してしまっているけれど、こういう状況は長く続くものではない。また、続いたらたまらないと私は思う。
キリストの生命が一人ひとりに輝きわたり、日本人として、人間として生きることが喜ばしくてたまらない、と言わしめることを願います。
(1965年)
本記事は、月刊誌『生命の光』827号 “Light of Life” に掲載されています。