信仰講話「内に響く呼び声」
私たちは、インターネットやSNSなどを通して、多くの情報に接して暮らしています。その中で、時に不確かな情報や周囲の意見に惑わされて、思い悩んでしまうことがあります。
そのような時に大切なことは何か。時代を超えて偉大な人物は、心の内に響く声に従って、多くの困難を乗り越えてきました。
内に語りかける神の声を聴いて、世間の荒波をも越えてゆく信仰を語る、手島郁郎の講話です。(編集部)
私たちはこの世に生まれてきて、人間としての本来の性質を発揮し、生きがいのある人生を送りたいと思うのは、だれしも同様のことです。いったい自分は、何のために地上に生まれてきたのか、何をなすことが使命であるのか、どのように自己の完成を計画していったらよいのか、と思い巡らせます。
特に青年時代には、「自分の一生をどうやって完成しようか?」と、いろいろ考え、悩んだりします。しかし、いくら考えても、ほとんどの人が、自己の人格の偉大な完成ということをだれにも教えてもらえず、ついにあきらめて成り行きに任せて過ごし、「自分はつまらない人間だ」と思い込んで悩み、自分をごまかしてしまいがちです。
古(いにしえ)の一休禅師は、
本来の面目坊(めんもくぼう)の立ち姿 一目見しより恋とこそなれ
(人間には本来備わった尊い心性がある。それを発見した時に、真の自分の姿を追い求めるようになる)
と詠(よ)みましたが、多くの人は、自分で自分に恋するほど自分を誇って生きるような、自己の再発見をしないで終わるものです。
しかし、世の中には少数ですが、本来の自分の尊さを真に自覚して、自分は神の子である、神のものであると知って、悔いのない一生を送る人もあります。
若い人たちは、立派な、偉大な人間になりたいと願います。親たちも、せめて子供だけは偉大な人物に育てたい、と願っています。しかし、せっかく立派な大学に入れて教育してみたところで、かえって「卵を温め孵(かえ)してみたら、まむしの子だった」と、叶(かな)えがたい結果に嘆く親たちも多くあります。
戦前では、男の子に対して「末は博士か、大臣、大将か」と言って、大きな理想を指し示しながら育てたものです。だが現在では、博士や大臣になれと言ってもだれもがなれるものではないし、民主主義の教育ではむしろ、平凡な善き市民となることが目的だ、などと言われて教育がなされています。偉大な傑出した人物の育成ということを、学校ではもはや考えなくなっています。これが今の時勢というものです。
しかし、若い諸君は、このような時勢に抵抗して生きて、自分ぐらいは偉大になろう、と野心を起こさねばなりません。
実にイエス・キリストの宗教は、つまらぬ人間を偉大なる人間に、カリスマ的人物に作り変える道を教える宗教であります。
学歴偏重の教育からは、たくましい人物は育たない
長い歴史の中では、神のごとくに尊い人物、最高度の進化を遂げた人間というものが、稀(まれ)に出現しています。イエス・キリストがそうでした。神の人モーセや釈迦やソクラテスがそうでした。マホメットもそうでしょう。科学の世界においても、ニュートンやアインシュタイン、音楽でもモーツァルトやベートーヴェンなど、多くの優れた人々がいます。彼らを模範にし、そのような偉人を目指して教育するのが本当の教育だと私は思います。
一般の平凡な、くだらない人間の真似をしていたのでは、何ら、その子供に見るべき進歩、向上の芽生えがないのみか、周囲の平均的な人間を目安にしていると、かえって堕落するばかりです。
また、教育が十分でなかったからと、自分の学歴の不足について悩み悔やむ人がいます。教育ママたちは、幼い時から有名な幼稚園に通わせ、熱心に教育を心がけます。そして、小学校から大学まで、一流の学校ばかり選んで教育したら大人物ができるかのように考えているが、必ずしもそのようにはゆきません。
私は東京に住んでいますが、毎朝、ラッシュの時間帯に、雑踏の中にもまれながら、利口そうな小学生たち、男の子や女の子が何人も、大人たちに囲まれて呼吸も苦しいようすで、ふらふらと電車から降りてくるのを見ます。
ずいぶん遠い所から、家から2時間もかけて有名な附属小学校に通ったりしています。こんなことを子供たちにさせて、あどけない、おおらかな子供時代を大人がいじって、ただ学歴偏重の、偏った教育をしている。こんな人間を作っても、とても将来に期待はもてません。せいぜい有名企業に勤めるサラリーマン止まりでしょう。とても、この世界の危機、恐ろしい時勢に立ち向かうような、たくましい創造的精神をもつ人物に、このような子供たちがなれるとは思えません。
本当の自分に目覚めて、偉大な働きをする
大切なのは、人間は本来、神の子であるということです。神の霊の呼び声に育てられてのみ、「神の肖像(にすがた)」が浮き彫りのように表れ、自己本来の面目を完成できるのです。まず魂が目覚めて、神の霊の呼び声を聴くところに、偉人の生まれてくる秘密があります。
日蓮上人は千葉の清澄山(きよすみやま)の上で、朝の太陽を浴びて「大日如来(にょらい)」の呼び声に目覚めました。ナポレオンは、古代の偉大な人々の呼び声に霊感され、自分の中にむくむくとわき起こる力に立ち上がり、不滅の業績を歴史に残しました。
聖書の宗教では、4000年前、信仰の父・アブラハムが99歳の時に、「われは全能の神である。おまえは多くの民の父となるだろう」(創世記17章)との神の聖なる御声を聴きました。彼はそれを信じて歩きはじめ、そして実現しました。やがて、このアブラハムの霊的系統を嗣(つ)いで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、世界的な3つの宗教が生まれ、現在では地球人類の半数以上、十数億の人々がひとしく、アブラハムを「信仰の父」と仰いでいます。
私たちは、現在のつまらない自分を嘆いてはなりません。田舎娘であった、ジャンヌ・ダルクは12歳の時、「フランスのために立ち上がれ」との神の御声を聴きました。若い乙女の彼女が馬に乗って三軍を叱咤しますと、多くの荒くれた男の兵隊たちも従い、大将軍や皇太子も彼女の威厳に圧倒されて言うままになり、ついにオルレアンの孤城を救い、次々とイギリス軍を追い散らして、首都パリを奪還したではありませんか。そして、100年の間、イギリスに占領されて苦しんでいたフランスを救い、「フランス救国の女神」と称えられるようになりました。
なぜ、士官学校にも行かず、戦争の戦術の一つも知らない乙女が、大将軍のごとくに作戦を指揮できたのでしょうか。彼女に不思議な権威、大将軍といえども頭を下げさせるような何かがあったからです。それは普通の女性と違って、いつも神のお指図を受けていたからです。このような霊感、カリスマタ(賜物)を得させるのが、真のキリストの福音です。今の教育は、このようなカリスマ的人間の育成を何一つ知らず、不思議な内なる神の声を聴くことを教えてくれません。
周囲の力を恐れず、勇気をもって行動する
ただ世論を恐れ、集団の意思に従い、摩擦を避けて、楽な道、楽な道と選んでいる者は、ついに自己を活かしきることもなく、いよいよという重大な時になっても利己的に自らを偽り、本当の決戦ができません。できない性格になってしまっているのです。心が弱いのではなく、世論を恐れ、機械的に習わしに従うようにしか、心のからくりが働かないのです。こんな臆病な人々には、神は何も願うことができません。
多くの人は、心ならずも集団意思の力に屈服してしまう。それは、この内なる声を軽視するからです。
静岡の幕屋のM子さんは日赤病院の看護婦ですが、安保闘争の年に病院にも労働争議の波が押し寄せ、ストライキの騒ぎとなりました。だが病院は病の人を看病する所で、一時的にしても看護婦が大事な聖職を放棄することはたまらない、と思われた。そんな時、胸中に「ストに加わるな!」との内なる囁(ささや)きを聴いて、組合長に申し出て、300余名の行動に一人反対したので、周囲の人々の圧迫は大きく、ひどく罵倒されました。
しかし、彼女はキリストの御名を呼びつつ祈り、内心の平安を保っていたので、笑って耐えることができました。周囲もとうとう根負けして、今では患者も同僚もひとしく彼女の勇気に敬服しているそうです。
神の囁きは、私たちにたとえ十字架の道と見えても、それに従うときに十字架は栄光の王冠に一変します。M子さんはいつも迫害に耐えては、「イエスよ此(こ)の身を 行かせたまえ 愛のこぼるる 十字架さして……」と賛美歌をうたいつつ耐え忍びました。
その時、心から詠んだ和歌――
強きかな千波万波(せんぱばんぱ)の人波に迫りて救う主イエスの愛は
私は彼女の主体的な信仰が、いとおしくてたまりません。
神の囁きを聴く人は、力強い人生を歩む
内なる声を聴くなんておかしい、と言う人がいます。他から呼びかけられ、囁かれ、動かされて生きるようなことはしたくない。すべからく人間は自立すべし、と言う人があります。また、「自分の信念で生きるのが本当だ」と主張します。それはもっともな話です。しかし、いったい自分自身の信念や、独自の声などあるものだろうか?
すべて私たちがこうして生きているのは、他の多くの人の思想を聞き、教えられながら養われ、育っているのであって、本来、自分独自の思想なんていうものは、稀にしかないのです。ほとんどはほかからの借り物ばかりです。
私がこのように話をしているのも、ほとんどは聖書に教えられ、聖書に学んで語っているのです。聖書は神の霊感の結晶です。もしその人に独自の思想信念があるというならば、「内なる声」として聴いたものだけが、独自の強い力として、その人のものとなります。
私はつくづく思いますのに、人間は多くのものが外側に失われたとしても、そのような「内なるもの」を心に回復しさえすれば、傑出した偉大な人間となれます。人間は、内なる神の霊の囁きを聴かなければ、すぐこの世の輿論(よろん)に屈従し、文化的教養の声に引きずられて、自らを失ってしまいます。
多くの人が追われる家畜の群れのように、心ならずも集団の圧力に屈服して、言うべきことも言わずにいる時、神の声を聴く人は、内側から強い力と権威を帯びる者となります。
キリストは、「なんじらもしわれに居り、わが言(ことば)がなんじらの内に囁かるるならば、何にても望むままに求めよ、さらば成らん」(ヨハネ福音書15章7節 私訳)とお語りでした。
どうぞ、密室にあって、荒野にあって、ただ一人祈りつつ、あなたを呼んでいる声を聴いてください!
(1961年)
本記事は、月刊誌『生命の光』836月号 “Light of Life” に掲載されています。