私の回心「悲しむ人は、慰められる」
丸谷竹次郎(まるや たけじろう)
札幌でデザイナーとして働き40年以上になる丸谷さんは、お姉さんの死という痛みから信仰で生きはじめられました。ご自身の体験を伺いました。(編集部)
デザインは、依頼主(クライアント)の気持ちに寄り添うことが大事なんです。どこまでその人の気持ちになって考えられるかが求められます。
ポスターでもパンフレットでも、デザインはアイデアが勝負です。しかし、何を願われているか、クライアントの要望がハッキリしないこともあります。考えてもわからない時は、私はよく事務所の近くの大通(おおどおり)公園に散歩に行きます。そして歩きながら祈るんです、「神様どうしましょう、教えてください」と。
たとえば以前、国勢調査を告知するための、チラシ製作のコンペがありました。総務省が行なった、大手印刷会社十数社も参加する、全国規模のコンペです。
こんな大きな仕事はそれまで経験したことがありませんでした。どうデザインしたらいいのか、行き詰まる思いで祈っていると、その時示されたのは、日の丸をベースにしたデザインでした。写真を使うなどいろんな選択肢がありましたが、単純ですが日の丸のイラストを使ったデザインが、私の頭に降ってきたのです。
それに従って作ってみると、最終選考まで残り、見事、採用が決定されました。
仕事といっても、天に心を向けて、神様から来る声に従うこと、突き詰めればそれが最善だと思うんです。
今でこそそういう私ですが、実は祈って仕事をするなんて、以前は想像もつかないことでした。
私は専門学校卒業後、あるデザイン会社に就職しました。仕事が面白く、働きはじめて10年たたずに、私は専務にまで昇進していました。
ある時、求人募集をしたところ、面接を受けに来た人が幕屋の方だったのです。私よりも年上でしたが、一緒に働きだして、仕事帰りはしょっちゅう居酒屋で語り合う仲になりました。
いつもは雑談で済む会話なんですが、その日はなぜか、私は自分の心の痛みを語っていました。それは、親族や友人にも言えない、姉の死についてでした。
宗教は大嫌い
姉は大学に入ったころ、統合失調症になりました。そして、長く入退院を繰り返していたある日、マンションから飛び降りて死にました。何の悪いこともしていないのに何でこんなことになるのかと、神も仏もないように思い、私は宗教に相当な反感をもっていました。
居酒屋で語り合いながら「宗教なんか大っ嫌いだ」と話していましたから、今思うと仲のよかったその方は、幕屋においでとは言いづらかったのだと思います。でもいつからか、「実は丸谷さん、ぼくは幕屋というところに行っているんだ」と言うようになりました。それでも決して、私を集会に誘いませんでした。
最初はただ話を聞いていただけでしたけれど、そのうち心が騒ぐというのか、なぜか、「ちょっと行ってみようかな」と思いはじめたんです。
初めて日曜集会に行った玄関先で、初対面なのに満面の笑みを浮かべて近づいてくるおばあちゃんがいました。「いらっしゃーい」と言われ、私は内心「あんたのことを知らないんだけど」って思ったんです。でも、笑顔で迎えてくれたおばあちゃんの内側からあふれてくる何かを、とても強く感じたんですね。
幕屋の集会はその印象だけで、その後しばらく行くことはありませんでした。でも、時間がたつうちにまた行きたくなって、数カ月に1回くらい顔を出すようになりました。
光の粒が降ってくる
幕屋に通うようになってから3~4年でしたか、聖地イスラエルへの巡礼があるから行かないか、と誘われました。でも当時、私はまともに聖書も読んでいなかったですし、実は、イエス・キリストは実在の人物とは思っていなかったんです。物語の中の人だと思っていたんですよ。それでも巡礼行きが決まり、それからは毎朝、早く起きて聖書を読み、備えました。
現地に着いて各地を巡り、しだいに感動と喜びがわいてきて、ガリラヤ湖が見える丘の上で集会をした時です。今でも忘れられないことが起きました。
思ってもいなかったのですが、祈っていると急に、亡くなった姉の笑顔が幻のように見えたんです。その次の瞬間、光の粒みたいなものがものすごい音を立てて、上からザーッと降ってきて、その後は自分がどうなったのか覚えていません。気がついたら、うれしくて、号泣して祈っていました。自分でも驚いて、どうしてそうなったのかわかりませんでした。
バスに乗ると、車窓から見る景色が違っていました。まるで木の枝から喜びと賛美の歌声が聞こえるよう、生命が噴出しているのが見えるようなんですね。
その喜びの中で知ったのは、忘れようとしていた心の深い痛みを本当の意味で解決してくださるのは神様しかおられない、ということです。天では地上とは違って、苦しみから解放されて喜んで生きている姉を、神様が巡礼を通して見せてくださったんだと思います。
キリストの言葉のとおりに
私は自分を責めてきました。あの時こうしてあげたらよかったのにと、ああいう形で身内を亡くした人は、そう自分を責めるんです。そして、同じような亡くなり方をした人のことを聞くと、自分もまたそんな最後になるのではと、ふと恐れがよぎったりもしました。
でもこの巡礼を通して、聖書に書いてあるイエス・キリストの言葉が心に響いてきました。マタイ福音書5章に「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」とありますが、まさにこの言葉そのものでした。「慰められる」とは気持ちが晴れる程度ではなく、憂いも恐れも一切、すっかり取り去られることなのだと、体験したんです。
その後、生きていく中で、困難は幾度もありました。リーマンショックで経営が行き詰まった時も、最近では脳梗塞(のうこうそく)や心臓疾患で生死にかかわる状況になった時も、どんな時もあの巡礼の喜びが私を支えました。
不如意なことが多いのが人生です。しかし、最悪と思われることでも、その一つひとつにキリストの神様はありありと働いてくださり、それを最善に変えてくださる事実を、私は体験してきました。
これからも、デザインの仕事をしながら信仰の喜びを証しすることが、私の最高の生きがいです。
本記事は、月刊誌『生命の光』839号 “Light of Life” に掲載されています。