死の闇路を歩むとも
7月24日から28日まで(1973年)、4日間、北アルプスの白馬山の麓(ふもと)で、私たちのグループの人々4500人が集まって、霊的な集会をいたしました。
その主題歌を、モーツァルトの曲に合わせて私は作りましたが、モーツァルトは幼少の時から音楽の天才でして、3歳の時にピアノやオルガンを弾きはじめ、5つの時には作曲をやりだし、9つの時には交響曲(シンフォニー)を作曲するというほどの神童ぶりでした。
モーツァルトがわずか7歳の時に、その弾くオルガンを聴いて、14歳のゲーテはすっかり陶酔してしまい、「なんという驚くべき子供がいるんだろう」などと、日記に書き付けています。
ベートーベンは先輩のモーツァルトを「神の傑作だ」と褒め称えて、「もう一度生まれ直すことができたら、モーツァルトかハイドンのようでありたい」などと言っています。
私は若い時からモーツァルトが好きでして、その清く、華麗な曲に魅せられたものでした。
が、その反面、彼の生涯はまあなんと可哀そうで、貧しく、哀れな一生だろうか、と思いました。
父親はバイオリン弾きでして、早くから息子の才能を世に紹介しようと、親の名誉欲か、音楽の特訓をしはじめました。
モーツァルトがまだ6歳で、姉のマリアンナが10歳の時から、ウィーンに、パリに、ロンドンに、ローマにと、ヨーロッパの大都市を一家で巡業して回りました。素晴らしいクラビアの演奏をする神童として、至るところで有名になり、いつも王侯貴族の前に引っ張り出されて、まるで芸を仕込まれた猿のようにも見世物にされ、はやし立てられました。
父親は大得意になって、息子と娘を連れて回りましたが、幼い、遊び盛りの子供の身として、とても耐えられませんでした。
病気がちな彼には、いつも死の不安が付きまとっていました。
彼は父親に手紙を書いて、「ボクはまだ若いけれども、数年このかた、『おそらく明日はもう、この世にはいないだろう』と考えずに床に就いたことはありません」と書いたりしています。
天才モーツァルトは、子供の時から1日として、死におびえずに生きなかった日はない。この”死の意識”こそ、モーツァルトをして音楽の天才たらしめた秘密だったと言えるかもしれません。
体が病弱なうえに、ひどく貧乏に悩んだものでした。
ある時、友人がモーツァルトを訪ねていきますと、寒い、冷たい、火の消えたような部屋の中で、何やら夫婦がガタガタ踊っています。
「どうしたのか?」と尋ねると、「あんまり寒いが、囲炉裏をたく薪(たきぎ)を買う金もないし、一緒に2人で踊って、体を内側から温めているんだよ」と言って客を迎えたほど、貧乏なのでした。それほど、モーツァルトの生活は悲惨でした。
彼は35歳で若死にしていますが、その短い一生になんと六百幾十も、素晴らしい作曲をしています。
私が今回の主題歌に選んだ曲目は「ケッヘル596」と書いてありますから、死ぬ年に作ったものです。
「子供の雑誌に、春の歌を3曲作ってほしい」と頼まれたものの一つで、それも一切れのパン代と引き換えに書かされたものでした。
彼はこんな逆境の中でも心の豊かさを忘れず、いつも清らかで明朗な曲を作る心をもっていました。
死ぬ時が近づくにつれて、いよいよ彼は創作に没頭しようとしました。死ぬ3カ月前にモーツァルトが友人に宛てた手紙の中で、こんなことを言っています。
「休息するよりも、作曲しているほうが疲れないので、ずっと書きつづけている。最後の時が鳴っているのだと、ふとしたことに感じる。今や息も絶え絶えだ。自分の才能を楽しむ前にこの地上から去ってしまうだろうが、でも、自分の人生はなんと幸先よく咲いたものだったろう。この自分の運命を変えたくはない。それとても、神の摂理のままであるけれども」と。
音楽の力で、死の暗闇の真ん中をも楽しく進んでいける、とモーツァルトは言いました。私はこれにヒントを得て、今度の主題歌の4番を作詞してみました。
宵空冴ゆる 星影に 山のこだまが 夢ゆする
峯々つづく 尾根伝いも 主により添いて 歌いつ進まん
と。
北アルプスの白馬連山の厳しくそそり立つ峯々が、山並みにずっと続いています。嵐が吹いたり吹雪ともなると、尾根伝いに歩くことほど恐ろしく危険なことはありません。
同様に、モーツァルトにとって人生の冷たい暴風雨は、彼の心に刺激となって、外の嵐をふさぐためにも、内面の、心の中だけは輝かしい世界を作り出して、その原動力となったのが苦しい外の刺激でした。
人生、苦しみがあることは、決して不幸ではありません。神は、その人の魂を愛して、内面を錬磨させようと、普通の方法でない方法を取られることがあります。
モーツァルトの曲はどれをとっても、清く澄み渡って、明朗なメロディーをもっています。
神学者のカール・バルトはモーツァルトの崇拝者でして、「神学の研究に心が暗く沈んだ時に、モーツァルトの曲を聴くと勇気が出て立ち上がれる」と言いました。
モーツァルトにはあまりに悲惨な、暗い人生が続いた。その心の裏返しとして、朗らかで清純な音楽を生んだのだと言っていますが、モーツァルトにとって、死の陰の谷をも突破せしめる力は音楽でした。天の音楽を聴きつつ、どんな貧乏にも甘んじて、あらゆる苦労を忍ぶことも厭(いと)いませんでした。
外に失ったものを内に取り返して創造する、魂の大きな喜びがあったからです。
人生のどん底で苦しくとも、そのどん底からわき上がる別のリズムがあります。彼の心には、その清らかなメロディーをわかしてやみませんでした。
これこそ、宗教の境地です。私たちの求めているものです。つらい時に、よく私も賛美歌を口ずさみます。
雪嵐の荒れ狂う12月の真夜中に、モーツァルトは妻や数人の近親に見守られて死んでゆきました。教会では「モーツァルトの信仰は異端だ」といってミサを与えてくれず、葬式もしてくれません。
モーツァルトが、十字架上に屠(ほふ)られたもうた神の小羊、キリストの御血汐(おんちしお)の尊さを崇めていたからです。これ、私たち原始福音の信仰者と同一の信仰内容です。
死期が迫ると、彼は真夜中ですのに目をキッと見据えて、寝台にすっくと起き上がり、前の方をグッと睨みつけ、それから静かに頭を後ろの壁に寄りかかると、安らかに眠るように目を瞑りました。遠い天国を近くに望む不思議な光景でした。
「音楽の力で、死の暗闇の中をも楽しく突破して進もう」と言った言葉のとおり、大往生ぶりでした。
どうぞ、武蔵野音楽大学の長井充先生の伴奏で、松井濱子さん、私の作った主題歌をうたってください。