この人に聞く「伝記映像『手島郁郎の記録』を撮影して」

元テレビ局報道カメラマン 木内敏介
阿蘇山火口(伝記映像冒頭のシーンより)

伝記映像『手島郁郎の記録』は、2005年に制作されて以来、全国各地で上映されています。
月刊誌『生命の光』を創刊した手島郁郎の信仰の原点を伝えるこの映像に、カメラマンとして携わられた木内敏介氏から、制作当時の印象を伺いました。(聞き手 大塚素子)

木内敏介(80歳)
元テレビ局報道カメラマン。文化庁芸術祭賞をはじめ、ギャラクシー賞など、放送業界で作品が多数表彰されている。

大塚素子 東京都在住
以前、テレビ「生命之光」で案内役を担当。2男3女の母で孫は2人。埼玉生まれの山形育ち。


木内さんは、長年テレビ局報道カメラマンとして活躍され、昭和50年度の文化庁芸術祭ではドキュメンタリー部門で優秀賞を受賞しておられますね。

木内敏介 私はテレビ業界の黎明期(れいめいき)から、カメラマンとして主にニュース映像の撮影を担当してきました。
その中で、テレビ報道の先輩で今は亡き名ディレクター田島良郎(よしお)さんと出会い、共に長編ドキュメンタリー番組を手掛けることができたのは幸運でしたね。それが、ドキュメンタリーカメラマンとしての私の原点となりました。

その木内さんに、『手島郁郎の記録』制作の数年前、幕屋がテレビ番組「生命之光」を放映しはじめたころから、ご協力いただくようになりましたね。

木内 はい、そうです。先輩の田島良郎さんが縁あって先に番組制作にかかわっておられ、私はたまに幕屋のスタッフに撮影の手ほどきなどをしていました。
ある時、番組のカメラマンが運動会で転んだとかで、肩にけがをしましてね、沖縄のロケは数日後なのに、撮影ができなくなってしまったんです。
田島さんに急遽(きゅうきょ)呼ばれ、幕屋の信仰について知らない私でしたが撮影することになったんです。それがきっかけで、いつの間にか一緒に制作するようになり、全制作番組の約半分、121番組に携わりました。

幕屋はキリスト教のグループですが、木内さんは、制作現場ではどのように感じておられましたか。

木内 私は、幕屋が信仰者のグループだとか、あまり意識しなかったですね。田島さんも宗教には門外漢でしたし、私も自分の感性でカメラを回しました。とにかく皆さんとの制作は、私が働いていたテレビ局の開局当時の雰囲気に似て、番組作りに熱気があって楽しかったですよ。

映像制作においての難しさ

この伝記映像をまだ観ていない方が多くおられることでしょうが、この作品は手島郁郎を知らない人が観てもわかるように作られていると思います。宗教というと抽象的な話になりがちですが、それを映像で表現されるのは大変だったのではないでしょうか。

木内 確かに抽象的なことは、絵にしづらいですね。私が神経を使ったのは、手島さんの心情を表現するためのイメージ映像をどう撮るかでした。
この作品には、一流の脚本家で放送作家の毛利恒之さんが入られましたが、客観的な視点をもって制作されたことは、大きな意義があったと思います。
毛利さんやこの映像のディレクターをされた田島さんは、手島さんが歩んだ歴史を丹念に調べ、一つひとつ事実を積み重ねて、抽象的な表現になりがちな話を、史実をもって映像編集に反映させていったんですよ。
一般的な感覚で真実を伝えるために、制作チームでずいぶん話し合い、2年以上かかって完成しました。

田島良郎氏と木内氏(撮影現場にて)

伝記映像では手島郁郎の生い立ちや、敗戦後の日本で神様から召命を受ける、その半生が描かれています。
月刊誌『生命の光』創刊の経緯も表しているわけですが、木内さんは手島郁郎をどうとらえておられますか。

木内 この作品を改めて観て思い出しましたが、いちばん苦労したのは、手島さんの実像をぼくは見たことがないということです。話はいっぱい聞くし、資料写真は何枚か見ました。手島さんが動いているビデオもあって、音声も録音テープで聴きました。けれども、実像としてのイメージは、これだというものがすぐにはつかめなかったですね。 
でも、取材を進めていくうちにわかってきたことがありました。日本の敗戦後、あのような人物が現れたのには、個人の素質もものすごくあったと思いますが、それだけではなかった。やっぱり「時代」というものが大きくかかわっている人物だとわかったんですよ。
最初から伝道者ではなかったですし、軍の特務機関の経済班長として大陸に赴き、そこで参謀との軋轢(あつれき)で殺されかけた。その後、朝鮮に行って事業が成功しますが、敗戦で人生が狂ってしまいますね。
故郷・熊本に帰り、戦後の日本復興のため立ち上がろうとすると、アメリカ進駐軍がやって来て捕縛命令が出されるでしょう。もうめちゃくちゃです。でもそれによって阿蘇の山中に逃れ、神の召しに与(あずか)りますね。
手島さんという人物像は、戦前から戦後の時代背景なしには語れないと思いますよ。

報道カメラマンとしての視点

時代背景というと、木内さんは報道カメラマンとして、戦後の政治の世界を見てこられたと思います。その中で印象に残る人物は、どなたでしたでしょうか。

木内 私がいちばん最初に撮影した、日本を代表する人物は、岸信介首相でした。戦後の日本を復興させた岸首相には、哲学があったと思いますね。
それと、日本列島改造論などをぶち上げた田中角栄首相も印象が強い人物でした。彼は人心掌握術をもって官僚を従え、列島改造ブームを巻き起こしましたよ。
私は当時、田中首相を間近で撮影しましたが、オーラを放っていて、とても大きく見えました。でもロッキード事件で失脚し、退陣した後は、ずいぶん小さく見えましたね。あれは、何とも不思議な感覚でした。
手島さんは政治の世界と違って、人にとっていちばん大切な精神に光を当てた。心の豊かさと安らぎを多くの人に与えたという意味でも、敗戦後の日本のために生きようとする意識が強かったですね。
その時代、手島さんについて行く人もたくさんいたし、人々が求めていたんだと思うんです。手島さんは、日本の政治家とは次元の違う人物だといえますよ。

今回、改めてこの映像を観られて、木内さんの心にいちばん残ったのは、どのシーンでしょうか。

木内 手島さんが亡くなって32年後、長野県白馬村で開かれた、幕屋の夏期聖会のシーンですね。手島さんの奥さんの千代夫人が会の最後、ものすごい迫力でキリストの神を語られた時です。
終盤のシーンですが、この映像の撮影で心に残っただけではなく、私がそれまでの人生で感じたことがないほどのインパクトを受けたのが、この聖会でした。
私は撮影のため、会場中央の講壇のすぐ脇(わき)に行きましたが、邪魔になって怒られることを覚悟で、強引に前に出て撮りました。講壇を中心に、何かわからない「風圧」というか、言葉以上のものが渦巻いていて、「これを撮らないでどうするんだ」「これがメインじゃないか」と、私は心の中で叫んでいましたね。 
語る夫人も聴いている数千人の聴衆も、真剣そのものだし、手島郁郎のすごい気迫を千代夫人が再現していた、そんな聖会だったと思います。
後にも先にも、こんな撮影はしたことがなかったですし、こういう人たちが今もいるんだ、と驚きました。私の人生で初めての経験でしたね。

あの聖会では、ディレクターとして参加された田島さんも、聖なるものを感じたと言われていました。
最後になりますが、『手島郁郎の記録』を観られた人や、今後観る人に伝えたいことは何ですか。

木内 これはテレビ局で作るドキュメンタリー映像と違い、1回放映したら終わりというものではないですね。今後、何十年も観てもらえる作品だと思います。『手島郁郎の記録』 は3部作になっていますが、続編の『聖書の国から』や『日本よ、永遠なれ』と共に、今後の時代に残る映像だと思います。
そういう意味で、手島さんや日本の戦後を知らない世代の人々に、もっとこの伝記映像を観てもらい、その原点を知ってもらいたいですね。
これからを生きる若い人たちは、自分の意識をしっかりもつというのか、生き方の支えとなる本物をもつことが大事ですね。それを教えてくれるのが、この作品だと思います。
私も純粋に、何の邪心も、手抜き一つもなく、この映像の撮影をしました。編集を担当された田島さんもそうでしょう。田島さんと私との関係は、昔からそうでしたから。
まあ、私の普段の生活は、ほかの人と変わりないですがね。でも、撮影した映像は本物だと思っています。


伝記映像『手島郁郎の記録』3部作は幕屋ホームページで紹介しています。各地で上映がある場合、日時と会場の案内が掲載されます。観賞ご希望の方はこちらをご確認ください。


本記事は、月刊誌『生命の光』848号 “Light of Life” に掲載されています。