聖書講話「さまよえるキリスト」ヨハネの黙示録3章20節
手島郁郎は1973年12月25日、贖い主イエス・キリストのご降誕を祝う日の朝、63年の地上の生涯を終えて召天しました。
この講話は、召天の3週間前にクリスマスを迎える集会で語られたものです。肝硬変の病が重く、座っておられず、横になったままでの講義でした。
そして、これが手島郁郎の最後の講話となりました。召天50年を記念して、掲載いたします。(編集部)
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
ヨハネの黙示録3章20節
私が20歳前後のころに読んだ本に『さまよえるキリスト』という題名の本がありますが、イエス・キリストほど不思議な、神秘な存在はないと思います。
イエス・キリストは、当時の宗教家たち、また特権階級の人々から恐れられ嫌われまして、エルサレムの城外、ゴルゴタの丘で十字架の刑に処されて死なれました。
その屍(しかばね)は、貴族アリマタヤのヨセフの、岩壁をくりぬいた立派な墓に葬られて、大きい石でふさがれて警備兵に固く守られていました。しかし、翌々日の朝早く、弟子のペテロやヨハネ、マグダラのマリヤなどがお墓に行きますと、墓の入り口をふさいでいた石が転がっていて、墓の中は空っぽで、イエス・キリストの遺骸(なきがら)を見ようにも見ることができませんでした。
弟子たちは落胆のあまり失望して帰りましたが、女のマリヤはあきらめきれず、泣きだしてしまいました。すると背後に、すっくと立つ人がいて、「マリヤよ、マリヤよ」という声に振り返って見ますと、その人こそは恩師イエス・キリストでした。
また、迫害を逃れて散り散りになってゆく弟子たちの中に、エルサレムからエマオヘの道を旅する2人の弟子がありました。そのそばにやって来ては、聖書を説き明かす人がいました。やがて彼らの目が開かれて見ると、それはイエス・キリストでした。その姿が見えなくなった時、彼らは互いに言いました、「道々お話しになった時、また聖書を説き明かしてくださった時、お互いの心が内に燃えたではないか」と。
ある時は、ガリラヤの海辺にお姿を現して、信仰を失い漁師になって働いている弟子たちに、魚を焼き、パンを用意して「さあ、朝の食事をしなさい」と言って、彼らを慰め、師を見捨てたことを何一つとがめることなく、愛の言葉をかけられるのでした。
また弟子たちが、エルサレムの二階家、マルコの家に閉じこもって迫害を恐れておびえていますと、固く閉ざされた一室に、どこからともなく、壁を透過してか、姿を現されて彼らと共に交わり、語らい、彼らを慰めて「自分の肉は死んだけれども霊は生きている。聖霊を受けよ」と言って、彼らに息を吹きかけられました。そして、十字架に釘付(くぎづ)けられた時の両手の血痕(けっこん)を見せたり、また、胸を開いてわき腹の槍(やり)で突かれた傷あとを示されたりするので、疑い深いトマスも「おお、わが主よ、わが神よ」と言ってひれ伏し、キリストが霊的に生きておられることを信ぜざるをえませんでした。
愛する民を求めてさまよう
またその後に、ステパノという弟子が、エルサレム城外で石打ちされて無惨な死を遂げようとすると、上空にイエス・キリストが御姿を現して、じっとごらんになりました。ステパノは天を見上げながら、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」と言って、眠りにつきました。
また、遠くシリアのダマスコに住む弟子たちが、サウロという男に迫害されて、捕縛されるのを知られると、サウロの行く手をさえぎるようにして、ダマスコ城外の路上に光まばゆい姿で立ち現れて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。トゲあるムチを蹴(け)ると、ケガをするぞ」と言われるので、「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、「わたしはおまえが迫害している、ナザレのイエスである」と言われました。
サウロはまばゆい光線にぶち当てられて、死んだ者のように打ち倒されました。ここで大死一番したサウロは真の信仰に目覚め、キリストの弟子となりました。その後、パウロと名乗って、アジア、ヨーロッパに大伝道を繰り広げ、目覚ましい働きをいたしました。
今も昔のように、全世界に苦しめる人々の魂を、また、愛する民を探し求めてさまよいつづけておられるのが、イエス・キリストの変わらない御姿です。
地上に在りし日に、イエスは、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言って、一所不住の漂泊(さすらい)を続けられましたが、人々に追われるままに、異邦の町ツロ、シドンに、ギリシア風の町デカポリスや、ヘルモン山の麓(ふもと)の山深いピリポ・カイザリヤにも身を隠しながら、弟子を教育し、選ばれた魂を祝福するために巡られました。
イエス・キリストは死んでもなお、地上に在りし時のように、次々と愛する御民を訪れたまいました。けれども、人々は気づかず、霊なるキリストに冷淡でした。それでもなお追いかけるようにしてご自身を現されました。さまざまな迫害を受け、意気阻喪しそうなパウロにも、幾たびも現れては励まし、伝道をおさせになりました。ヘブル人への手紙に「イエス・キリストは、昨日も今日も永遠に変わらない」(13章)とあるとおりです。
戦いのさなかにも
第一次世界大戦の時に、最も激しい攻防戦が続けられたのは、ドイツ・フランス間にあるヴェルダン要塞(ようさい)でしたが、戦争のさなか、夜になると、そこには一人の白い光の人影が見える。夜な夜な、敵も味方もその姿を見ると、何かしら神々しい気持ちに打たれたのですが、キリストであると知って、急に銃を捨てて祈りだした、という有名な話があります。
また、第二次世界大戦が終わって数年たった時のこと、ハンガリーの田舎道を一人の農夫が歩いていると、向こうから来る異様な人がいる。それは、やつれ果てた憂わしげな、イエス・キリストの姿でした。初めは人々はこんな話を聞いても、そんな馬鹿な話はないといって、だれも信じませんでした。しかし、あまりにもたくさんの人々が実見するに及んで、新聞まで「昨日はどこに現れた、今日はどうだった」と毎日書きたてましたので、大変な評判となりました。
それが単に一個の人間に出会ったというだけではなくて、人々は出会っただけで、神秘な不思議な経験をしたのでした。山奥に、ぶどう畑に、ドナウ河の川沿いに、何かしら悲しげに憂えるような眼差(まなざ)しで、何かを訴えて立っておられるのでした。
一人ひとりの言うところ、その姿は違い、格好も違っておりましたが、ただ一致していることは、姿を消される時にパッと消えるというのです。それが真実の報告でも、それを悟る人あり、悟らずに好奇心だけでうち過ごす人もありました。とにかく、不思議な話ではありませんか。私も終戦後に阿蘇の地獄高原で、これに似た経験をしたことがあります。(注1)
多くのご自分の民を探すようにしてさまよえるキリスト。これはキリストの特別のご生涯であります。お釈迦(しゃか)さんは涅槃(ねはん)に入る時、多くの弟子たちや動物たちに囲まれ、平安な中に、極楽に行かれたことでしょう。しかし、イエス・キリストは死んでもなお、愛する者のために、地上をさまよっておられるのです。
神は愛です。キリストは慈悲深い御霊です。人々を祝福しようとして近づかれるのに、人々は頑固に心の扉を閉ざして、容易にキリストを迎えまつろうとしません。人々を慰め、哀れな人たちを愛したいと、愛を求めて近づいても、愛して愛されずに、いつも無視され、扉の外に立たされている門外漢、これキリストであります。
なぜでしょう。それは人間の罪の然(しか)らしむるところというか、人間が神について、何か霊的な反発を感じるからのようです。
(注1)
手島郁郎は終戦後、米占領軍による小学校の廃校に反対したため、軍政官より捕縛命令が出る。その時、阿蘇山に逃れた。十数日祈りつつある間に、光まばゆいキリストに出会う経験をし、伝道者として立つ決心をする。
不遇だったイエスの生涯
ルカ福音書の2章には、イエスの誕生のありさまが記されています。ローマの皇帝アウグストは、占領地の国勢調査を行なうために各自、本籍地に帰るようにと、ひどい布告を出しました。それでナザレの村の大工ヨセフは、臨月に苦しむマリヤを伴って遠く本籍地のユダのベツレヘムまでやって来ました。マリヤもヨセフも、ダビデの故郷ベツレヘムの出だったからです。
しかし、田舎のことですし、人が泊まる旅館のような所は数多くありません。あっても満員でごった返しておりました。貧しいヨセフ夫婦が宿を求めても得られず、やっと臭い馬小屋の片隅に寝かされました。
マリヤは臨月の身で遠くナザレからやって来たのですから、その夜、すぐにお産をしてしまいました。おそらく助産婦もいなかったでしょう。汚い、うすら寒い場所で、有り合わせの布で包まれて、その子は馬草(まぐさ)の桶(おけ)に寝かされたのでした。そのような悲惨な生まれ方をしたのが、イエス・キリストでした。
しかも、生まれると間もなく、父のヨセフに神のお告げがありまして、「王様のヘロデが、幼な子を捜し出して、殺そうとしている。危ないから、エジプトに逃げよ」と言うのです。ベツレヘムのすぐ近くには、ヘロデ王の夏の離宮があります。危険が迫っている。ヨセフは産後で身体(からだ)の弱いマリヤと、生まれたばかりの新生児イエスを連れて、ネゲブの荒野や暑いシナイ砂漠を越えて、はるばるエジプトまで逃げました。
マリヤは産後すぐのことです。どんなに身体を傷めたかしれません。また、生まれたばかりで抵抗力のない新生児にとって、この長旅は、何かよほどの保護がなければできることではありません。
このように、イエス・キリストが生まれても、家に入れて歓迎してくれる人もなく、何一つ誕生祝いの宴会もなく、すぐに漂泊せねばならなかったイエスの一家。ほんとうにイエス・キリストは地上に在りたもうた時からお気の毒でした。そして、この悲しい運命は、今も変わりなく続いているようです。
扉の外にたたずんで
今は、全世界の人々が「クリスマス」といって、こんなみじめな誕生をされたイエスの出生を祝ってお祭りをいたします。欧米のキリスト教国はもちろんのこと、キリスト教国でない日本でも、デパートはごった返すように買い物客でにぎわい、キャバレーや食堂はごちそうを並べて、歌をうたい、酒を飲み、踊りはしゃいで夜を過ごす──それが今のクリスマスの前夜であります。昔も今も、変わりません。
このような、酒に酔いしれ、肉欲にただれて、享楽に精神をすり減らし、魂を腐らせている人々に対して、キリストの霊は今も近づき、嘆き憂えつつあるように思えます。
誕生日の宴会の真ん中で祝われるはずの主人公はそっちのけで、宴(うたげ)の騒ぎは続きます。キリストを信ぜぬ人は論外だとしても、クリスチャンと称する人々まで、欧米でも、日本でも、そうなのです。
心の奥底に、キリストの霊を迎えまつり、その聖霊を心の中に宿しまつり、斎(いつ)きまつったりすることは、だれ一人しようとしません。人々は皆、自己中心的で、自分のことばかり考えてやっています。
人々がクリスマスといって、忙しげにお祭り気分でいる時に、何一つ、そのもてなしに与(あずか)っておられないのがイエス・キリストではないでしょうか?
イエス・キリストの霊は、今も閉ざされた人家の扉の外にたたずんで、家の外の寒さに震えながら、愛する人々に対する慕情おさえがたく、こう言っておられるように思われます。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」と。食事を共にするというのは、最も親しく深い交わりを意味します。
私たちを祝福しにキリストは来たりたもう。そのことがクリスマスのいちばん大事な心です。プレゼントの交換や、おいしいものを食べること、もちろんそれもいいでしょう。けれども、訪れたもうキリストを寒い扉の外に立たせたまま、キリストをそっちのけにしてそのことばかり考えているなら、キリストはほかに愛する民を探しに、再びあてどもない旅に出かけられることでしょう。そう思うと、キリストの弟子たる私たちはたまりません。
「クリスマス」という日の意味を考え、そんなキリストのやつれた御姿を思い浮かべると、私の心は寂しく、やるせなくてなりません。
2人の天使が見守る中で
私は今年(1973年)の4月から、田園調布に移り住んで(注2)、ずっと養生をしておりますが、このごろになって私の病気は、肝硬変という死病であることがわかりました。それで、寝ているのがいちばん楽なんです。
その寝ている私を、イエス・キリストがじっとごらんになる。また、私の横には一人の黒い着物を着た天使が気遣ってくれています。また、白い衣を着た女の天使が付き添っておってくれます。
(突然、大声で)ああ、神様! 私の生涯、ほんとうにもったいのうございます! こんなやつのところに来たりたもう主様、ほんとうにもったいなくてなりません(泣きながら)。神様、いつも自分のことを考え、自分のことでいっぱいの時に、主様、あなたが私たち以上に一人ひとりを愛して、慮(おもんぱか)っておられることを知って、もったいなくてなりません。
そのことを抜きにしてクリスマスはありません。また、どうか、ここに集う兄弟姉妹たちが、今日だけじゃない、いつもキリストを真ん中に迎えまつってくださるように。いつも扉をたたいて入りたがっておられるキリストを、自分の心の中に、また家庭に迎えまつることができるように。これがクリスマスのいちばん深い意味です。いや、クリスマスだけではありません。毎日の信仰もそうでなければだめなんです。
(注2)
当時、手島郁郎は代々木からキリスト聖書塾が移転する先の大田区の家に住んでいた。そこは現在、区立公園になっている。(ページ冒頭写真参照)
最後のクリスマス
先ほど、司会者が「どんな艱難(かんなん)も、しのいでやっていきたい」などと言われましたが、君の考えと私の考えは違います。クリスマスにとっていちばん大事なことは、キリストを私たちの内に迎えまつることであって、何もここで悲壮な決意をする必要はない。
私が代々木に住んで8年、君にしてみればここでの生活はつらいことも多かったのでしょう。しかし、クリスマスは別のことです。そんな、「今後、悲しいこと、つらいことがあるが頑張ろう」などと、pessimistic(ペシミスティック 悲観的)なことを言われては、ほかの人を過たせます。私の主キリストはそうじゃありません。どうかもっと楽観的人生観をもって、どんな時にもお進みください。そうでないとクリスマスが泣きます。
この代々木での8年間、神様はほんとうに恵んでくださいました。祝してくださいました。こんなに祝された場所はほかにありませんでした。しかし、この家は来年4月になったら明け渡します。
みんなが、自分たちが面白ければよい。また、自分たちが何かであろう、自分たちが頑張ってしのいでゆこう、などと言います。けれども、聖霊は私たち以上に先立って案じて、訪れてくださいますからありがたくてなりません。
どうか、今晩、ここに集うた諸君がキリストを真ん中に迎えまつって生きられるように。キリストは霊ですから目に見えません。だが、キリストが私たちの中心に立ちたもうならば、立ちたもうような雰囲気なり、表情なりをみんながもつものです。
今日は、二度とない代々木のクリスマスです。どうか今日、私が申し上げたことを遺言のように思ってください。
(1973年)
本記事は、月刊誌『生命の光』850月号 “Light of Life” に掲載されています。