聖書講話「幼な子のこころ」マルコ福音書10章13~16節
イエス・キリストは福音書の中で、幼な子を抱いて祝福され、また幾度も「幼な子のように」と語られています。難しいことは言わず、純に受け止める幼な子のような心を喜ばれたのでしょう。
手島郁郎も、信仰において大切なこととして、「純情であれ、無邪気であれ」とよく語っています。この講話は、福岡県の英彦山(ひこさん)での聖書講筵会で語られたものです。(編集部)
昔から、この英彦山は霊験山といわれまして、盛んな時には3800の宿坊があり、1万数千名の人々が、この山で修行しておりました。何のためにそれほどたくさんの人が集まったのでしょうか。それは、ここで神の霊験に触れたいと願ったからです。
神は目に見えません。けれども、何か実際に体験することを通して、私たちは「霊的な実在があるな」ということを感ずるものです。そのように神秘なものを求めて、多くの人たちがこの山に集いました。今はこのような物質文明の時代になりまして、霊験によって生きる不思議な人間がいなくなりましたが、昔ここにおいて、不思議な霊感といいますか、超越的な生命に触れて生きることを喜んだのが、霊的な修験者たちです。
東洋人の使命
日本は今、世界の大国から物質文明においては、すっかり立ち後れつつあります。このように激しく変わってゆく現代において、もう日本は世界の歴史に寄与することができないのでしょうか。
私はそう思いません。西洋人にできないことがあります。それは、東洋人は極めて霊的な民族だということです。聖書を生んだユダヤ人がそうです。また、インド人がそうです。西洋人は科学的で理知的な民族でしょうが、東洋人は東洋人らしい素質を活かして、世界史に貢献しなければならない。今こそ日本人が実存的に目覚めて、もう一度、霊的文化の建設に取りかかる時です。日本人が、もっと人間の中心にある霊的な力の解放ということをやりだしたなら、どえらいことになります。
西洋ではルネサンス(文芸復興)を経て、中世の桎梏(しっこく)から解放されて、現代の素晴らしい科学文明が生まれました。けれども、それは人間生活の外側が変わっただけであって、人間の内側が、本質が変わったのではありません。もう一度、内なるルネサンスが起こる時にこそ、ほんとうに新しい文明が興ると思います。
2000年前、東洋の片隅のイスラエルに、イエス・キリストを中心とする少数の群れを通して新しい人間革命が内側から起きはじめると、やがて世界の地図も歴史も一変しました。そのように、神はここに集まった少数の群れを通して、何か神の歴史に寄与せしめようとなさっておられる。
私たちは、たとえ物質的に貧しくても、回心した誇りをもって、精神的には一流の国民であるという信仰に進んでゆけば、神は大いなることをなしたまいます。自分一個人の救いではない、日本の救いのために学び、信仰を深めたいのです。
先生ぶってはならない
イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
マルコ福音書10章13~16節
私たちは何のためにこの山にやって来たのですか。それは、天国に入りたい、地上において神の子となりたい、という切なる願いをもってお互いやって来たのです。
それならば、この期(ご)に至っていちばん大切なことは何か。然(しか)り! 主イエスの言われる、「幼な子のようになること」です。それですから、ここに来て何か賢くなろうと思うなら大間違いです。少しばかり宗教的知識やキリスト教の教理を知ったからとて、それが一体何になろうか。しかし幼な子のようになりたいと思う者は、みんな喜んでこの山を下りることができます。知ったかぶったり、先生ぶったりする人は駄目です。
主イエスは、聖書のある箇所では弟子たちに、「ラビ(先生)という称号を受けるな。師はただ一人、キリストだけである」と言われた。ここに、宗教を学ぶ者のいちばん大切な心得があります。
皆さんがここからお帰りになる時、「私は幼な子にせられた」と言われるならば、天国があなたに、もう臨んでいる。しかし、賢くなったと思う人は、およそ天国から遠い。ですから、今までの考え方をすっかり御破算にしなければ、信仰は脱皮、進歩しません。
幼な子のように純情であれ
哲人キェルケゴール(注1)は、「私は幼な子と語ることが大好きだ。何となれば、幼な子は、なお賢い者となるべき望みがあるからだ。しかし賢くなった大人は! ああ主よ」と言いました。賢くなった者は、教えてもたたいても、もう駄目だからです。
それで、「自分の信仰はもう一廉(ひとかど)だ」と思い上がっているような人を、私は相手にしたくない。熊本の私のところに信仰を学びに来ている人たちを、私は心から愛しております。どうしてかというと、実に彼らは幼な子のように純真です。かくも魂が柔軟、純真である間は向上の見込みがあります。私自身は、いつまでも大きな坊やであろうと思います。その限りは、私をも神が教えてくださるからです。
信仰にいちばん大事なのは、純真ということです。主イエスはガリラヤ湖畔で出会ったナタナエルをお賞(ほ)めになって、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われて弟子とされた(ヨハネ福音書1章)。赤裸々な人間、事実は事実、過ちは過ち、そのままボロを隠さずにさらけ出し、内側と外側の表現とが変わらない純情な人間でないならば、主イエスの弟子たる資格がない。また神の国もわからない。
(注1)セーレン・キェルケゴール(1813~1855年)
デンマークのキリスト教思想家、哲学者。抽象的な思弁より個々の人間の存在の問題に光を当てた、実存主義の先駆者といわれる。形式ばかりを重んじていたデンマーク国教会の改革を訴えた。
滑り台の心
主イエスが「幼な子のようにならなければ」と言われるのですから、何か幼な子を通して見いだされるところの性情、性格が、神の国を造る資格に類比されるのでしょう。それは何でしょうか。
まず、幼な子は何も知りません。ソクラテスも「私は、自分が何も知らないということを知った」と言って死にました。もし、「私は齢(よわい)70幾歳だ。あらゆることを知っている。信仰はこれだ」と言って、ある信念をもっておられるならば、神の国には入れない。
先刻は、数人の人たちと奉幣殿(ほうへいでん)まで行きました。その時に、高い滑り台を皆お滑りになった。Fさんも若い人たちと一緒にお滑りになった。おばあさんですのに、実に魂が幼な子のようです。この素質が、神の国に入る資格です。
ところがS子さんは、恥ずかしいと思ったのか、大人げないと思ったのか、滑らない。「これ、S子さん」と言って、私は無理にも滑らせた。そうしたら途端に、実にうれしそうになられた。信仰は、ただいたずらに頭脳や神経を緊張させていても、わからないのです。むしろ、滑り台を滑るような気持ちの時に、神の国がわかるのです。
また、いつも純情な、無邪気な幼な子は、何よりも信頼深いです。母親に対して全く疑いません。素直です。純粋です。このように、「幼な子のように」と言われるところには大きな意味があります。そのような心が、神の国を受け取る条件です。
なぜ、幼な子のようでないならば神の国は受け取れないかというと、神の国は、科学的精神で入れるものではないからです。もし、自分は相当頭がいいからといって頭で入ろうと思うならば、どっこい、天国は門を閉ざします。神を批判しているような傲慢(ごうまん)な者に神の国はわからない。だから信仰は謙虚であることが大切です。科学的な世界なら、批判的、科学的精神をもって入れるかもしれない。しかし、神の国は科学的な世界ではありません。
無学な者たちに働く能力
ルカ福音書10章に、主イエスが弟子たちを伝道に遣わされた時のことが記されております。弟子たちは、行った町々で不思議な、奇跡的な能力(ちから)を現しました。そして、小躍りして帰ってきた時に、主イエスは喜びあふれて、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(21節)と言われました。
大宇宙の神秘な真理は、幼な子のように直感的な者に啓示せられるものであって、哲学的に、または神学的に批判したり、思索したり、研究したりする者たちには、すっかり隠された世界だということです。
弟子たちは、ユダを除いてみんなガリラヤの田舎者です。無学な、つまらぬ人間でしたが、精いっぱいよくもやってきてくれた。これも弟子たちが幼な子のように純情なためだ。自分もつまらぬナザレの大工上がりでしかないが、自分を先生として、信頼深い気持ちで接してくれている。幼な子が母親の乳を、何疑うことなく吸って肥(ふと)ってゆくように、真に短期間に成長した弟子たちの姿を見て、主イエスはかくも喜んでおられるわけです。
幼い時代の霊的な感覚
話は戻りますが、なぜ主イエスは幼な子を押し返した弟子たちに対して、激しく怒りたもうたのか。それは、主イエスはただ幼な子がお好きだったのではなく、何か理由がおありだったのです。幼い魂というものは霊的なことに実に敏感です。たとえば、夜暗くなって、もし幽霊の話でもすると、何かそくそくと迫るようにも鬼気を感じて、おびえるでしょう。ですから反対に、よき霊的感化を与えてやれば、非常に魂が霊化されてゆきます。
主イエスは幼い魂に、霊的なよき影響を与えておきたいから、喜んで御側(みそば)にお呼びになった。ダビデも少年時代、預言者サムエルに油を注がれ、按手(あんしゅ)してもらって以来、不思議な変化が起こりました。琴を弾けばサウルという王様の神経衰弱が癒(い)えるし、熊と戦ってはねじ伏せ、敵の武将の大男ゴリアテをも石一つで倒しました。
どうしてこのような大変化が起こったのか。霊的な大人格に触れると、潜在的に霊的素質をもっている人は、ビリッと魂の核に変化が起きるのです。
それが、預言者サムエルの伝道であり、イエス・キリストやパウロの伝道でした。今のキリスト教の伝道とはおよそ違います。もっとパーソナル・タッチがなされて、深い師弟間の交わりがなければいけませんね。よき霊的な師を選ばなければ、信仰はなかなか伸びないものです。
幼児期の教育の大切さ
溶鉱炉から流出して冷たく固まった鉄は、もうどうにもなりません。いまだ溶鉱炉の中でどろどろに溶けていれば、どんな型にも流せます。同様に、自分はまだまだだと思う人はいいが、私はでき上がったと思っている人は駄目です。自分をごまかしているんです。
禅宗では、「声前(しょうぜん)の一句、千聖不伝(せんしょうふでん)」といいます。言葉になる前の一句とは、思想以前の世界のことです。すなわち我々でいえば、イエス・キリストの思想を流し出し、わき出させるような霊的実存です。その、キリストの内に宿った素晴らしい聖霊は、1000人の聖人が出てきて声を大にして説教し、いろいろ説明したとしても、それだけでは伝わらない。
皆さんは、何かここで私の講義を聴いて、言葉だけを受け取ってお帰りになっても無駄です。言葉以前の生命を、聖霊を受け取ってお帰りになることと、知識や理屈を聴いて、それを筆記して帰ることとは大違いです。言葉以前の生命は、以心伝心、幼な子のように直覚的に受け取る以外にないでしょう。いつまでも幼な子の心を失わないならば、私たちは進歩します。
約3万年前の人類(クロマニョン人)と今の人類とを比べる時、皆さんは今の人類のほうがはるかに進歩していると言うかもしれません。しかしながら、ある生物学者は、「クロマニョン人も今の人類も、少しも違いがない」と言っております。
たとえば、南米にガヤキール族という最も未開の原始人がおります。原始人は最高の文化を誇る現代人に到底ついてゆけるものではないと思うでしょう。ところがそうではありません。ある時、アマゾンの森林地帯でガヤキール族が逃げ去りました後に、わずか2歳の女の幼児がほったらかしにされていました。土俗学者ヴェラールは、その幼児を拾って、自分の母親に育ててもらいました。その娘はやがて大学に入り、高等教育を受け、数カ国語も話す学者になりました。現代文化におよそ縁のないガヤキール族。しかし、高度の文明にも耐ええた。ただし、幼い時からよき教育を施せば、という条件下にです。幼児期を過ぎてからは、なかなか教育が困難です。そこに、幼児期の教育の大切さがあります。
永遠に幼な子であれよ
主イエスは「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコ福音書10章15節)と言われた。大人のようにキリストを批判してばかりいる間は、絶対に入れない。
今のキリスト教は1900年を経て、すっかり変質してしまっている。悪い意味で大人になって固まっている。こんなものをいじくってもどうにもなりません。私はキリスト教をもっと発生史的にとらえて、「原始福音」すなわちキリスト教の揺籃(ようらん)時代に触れてそこから出発しようと考え、この10年やってきました。現今の、でき上がったキリスト教を問題にせず、新約聖書を問題にする。いよいよ、そこを踏み台にして新しい跳躍を試みたい。
イエス・キリストを見てごらんなさい。福音書を見たら実に純です。マルタ、マリヤのようなよい姉妹ばかりでなく、5度も夫から捨てられたようなサマリヤの女、そんな嫌な女に対しても、その女を裁かず道徳を説かず、実に純真に交わって相手になり、真の霊の神をご啓示になる。またマグダラのマリヤといったような淫売婦にでも、実に純真に交わり導いておいでになる。純真無垢です。
アッシジの聖フランシスは、小鳥とでも話すほどの純真さをもっていた。また、子供を見てごらんなさい。小鳥に対しても、犬に対しても、自分の友達のように話をするほどにも純真です。哲学者スピノザ(注2)は孤独でした。けれどもスピノザは、「神に酔える人」でした。人から受け入れられなくても、さびしそうにしませんでした。クモと戯れて遊びました。大きな子供です。
ショーペンハウエル(注3)は、「天才はすべて、いわば子供である」と言いました。子供のような大きいあこがれと好奇心、それがなくなったら詩も失(う)せ、芸術も、宗教も失せてしまう。「自分の信仰はこれで十分です」などと言って思い上がっている者に、神秘な世界はわかるものでない。おおよそ大詩人、大哲学者といった人たちは、みな大きな子供でした。
主イエスは、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ福音書5章3節)となぜ言われたか。すなわち、貧しさに泣いて人生に行き詰まっている者に、神は語ることができます。自分の傲慢さ、高ぶれる心も、ひとたびガツンと砕かれるならば、そこから見込みがあります。まず罪に悔いて泣く者、何とか変わりたがっている者、その人だけが天国に入る資格をもっているのです。
なぜ主イエスは、99匹の羊を野に置いても、迷える1匹の羊を捜されるのか。迷っている者は、泣いてでも、しがみついてでも救われたいと願います。そのような者には、豁然(かつぜん)と神の国が開かれます。いつまでも、永遠に幼な子である者は幸福です。
(注2)バールーフ・デ・スピノザ(1632~1677年)
オランダの哲学者。ユダヤ人の家に生まれる。自然の中に神を見る、汎神論ともとらえられる思想から、ユダヤ教団から破門される。哲学や政治論の書を著し、多くの思想家に影響を与えた。
(注3)アルトゥール・ショーペンハウエル(1788~1860年)
ドイツの哲学者。東洋の哲学、特にインド哲学を学び、物事は自分の中の意志の表象にすぎない、と説く。
(1955年)
本記事は、月刊誌『生命の光』852号 “Light of Life” に掲載されています。