信仰の証し「今が必要とされている時」
安東嗣彦
妙子
安東嗣彦さん夫妻は、ご主人が70歳になって何度も大病を患い、仕事も整理されました。今、そこから立ち上がってキリストを証しされているお二人に、お話を伺いました。(編集部)
嗣彦 すい臓がんの手術後のことです。意識が薄れる中、呼吸を「1、2、…」と数えていました。次の呼吸が止まったら、ぼくは死ぬなって思ったんです。
そんな状況でベッドに寝ていると、ほんとうに孤独を感じました。でも、その時です。ぼくをずっと見ていらっしゃる、キリストの眼差(まなざ)しを感じたんですよ。
すると、体の内側に力がわき上がってきたんです。幕屋の皆さんの祈りで支えられるように、消えそうな意識の中、(語気を強め)「いや、いや、いや」と、生きようとする思いが込み上げてきました。
妙子 主人はちょうど70歳になってから、5回も手術台に上って、2度も死ぬような場面がありました。
私はもちろんのこと、たくさんの幕屋の皆さんが、必死に祈ってくださったんです。
嗣彦 ぼくは、皆さんの祈りで生かされたと思います。
奇跡的に回復した1年後でした。キリスト聖書塾の人が、私たち夫婦に生きる張り合いが出ることを願われたのか、聖地イスラエルにいる幕屋の留学生を訪問しては、と勧めてくださいました。
生かされた喜びもあって、何かお役に立ちたいと行くことにしました。エルサレムにある幕屋のセンターで寝泊まりし、留学生と聖地の各地を旅したり、彼らと共に語り、祈ったりするのがとてもうれしかったです。
そして数カ月間、聖書の舞台で祈っていると、ぼく自身の人生の痛みや苦しみが、感謝に変わっていく体験をしたんですね。自分のいいも悪いもすべて、神様から肯定された思いになったんです。
それまでのぼくの歩みは、順風満帆ではありませんでした。若い時にはオートバイ店を経営していて、景気のいい時代はよかったのですが、バブルが弾けた後、気がついたら億を超える借金だけが残っていました。
その後は、返済するだけの日々でした。
ぼくはとうとう人生に行き詰まりました。高いビルの屋上に上った時です。ここから飛び降りたら楽になれるかなと思ったんです。すると、「そんなおまえを必要としている」と、天からの言葉が強く響いてきて、思いとどまったんです。
その「必要としている」とは何なのか、ずっと考えつづけてきました。そして、今がその「必要とされている時」ではないかと思ったんですね。
70歳を過ぎて、これからはキリストの神様のためだけに、夫婦一緒に生きることができると、聖地で確信がわいたんです。
そして帰国したら、次に旭川市の少数の教友を励ましてもらえないかと言われ、北海道にも行きました。
何かを訴えている目が
妙子 主人は学生のころ、聖書の精神に基づいた独自の教育で知られる自由学園で学んでいて、北海道にも同窓生が数人いるんですね。せっかく来たのだから、そういう方々もお訪ねしようということになりました。
訪ねた方は、施設を経営しておられました。そこは、社会で居場所を見つけられない人や、心身に不調を抱えている人と共に働く施設です。
お話を聞くと、働くメンバーの高齢化もあって、続けられるか悩んでおられたようです。
嗣彦 ぼくの1年先輩なんですけれどね、施設で迎えてくださったのですが、元気がないごようすでした。
でもご夫妻はカトリック信徒で、特に奥さんは、ぼくたちが回心した話を真剣に聞いてくださいました。体調が優れない、と言われていましたが、話を聞くその目は、何かを訴えておられる気がしましたね。
妙子 もっとお話をしたかったごようすでしたが、私たちは奥さんのお体のことを考え、その日は帰ったんです。でも気になって、後でもう一度電話をしてみたら、ぜひまた会って話したいと言われるんですね。
以前に奥さんと面識があった旭川幕屋の方と、2人でお訪ねしました。そこで奥さんの思いの丈をお聞きして、最後に3人で祈って別れたんです。
すると、その祈りがうれしかったとおっしゃって、数日後に連絡が来て、旭川駅のどこか片隅でいいから一緒に祈ってほしい、と言われるんです。ちょうど日曜だったので、旭川幕屋の集会にお誘いしました。
わき上がってきたのは愛
嗣彦 集会で、ぼくたちは賛美歌をうたいました。
主よおわりまで 仕えまつらん
みそばはなれず おらせたまえ
世のたたかいは はげしくとも
御旗のもとに たたせたまえ
この賛美歌が奥さんの心に響いたようで、そこは熱い祈りの場になりました。ぼくは奥さんの背中に手を按(お)き、旭川幕屋の皆さんも、その方に聖霊が降(くだ)ることを祈ったんです。
すると、奥さんの心にわき上がってきたのは、施設のお一人おひとりへの愛だったそうです。
そして、希望を見いだされて、「『ここまで』と神様が言われるまで、私は施設を続けます」と言って、心がすっかり変わってしまわれたんですね。
妙子 その後、奥さんは施設のメンバー一人ひとりに、「もう一回やりましょう」と握手して、また新たな思いでご主人と施設を続けることになったそうです。
私たちがいちばんうれしかったのは、奥さんがご自身の心に「祈りが回復した」と言われたことでした。
嗣彦 ぼくたちが東京に戻るため北海道を発(た)つ日に、奥さんは見送りに来てくださいました。その時の晴れやかなお顔が、キラッキラ輝いているんです。
贖われた感謝をもって身を運ぶと、神様が何かを起こしてくださる。キリストが伴ってくださる現実を、70代になった今、体験させられているんですね。
各地を回り、手島郁郎先生がおっしゃっていた信仰の世界は本当だということ、そして祈りの力はすごいと、何度も家内と話したことでした。
「悲哀のない喜びは、浅薄だ」
ぼくも家内も、若き日に手島先生に出会いました。ぼくは高校生の時、学生集会でキリストの生命に触れ、見るものすべてが輝く回心の経験をしました。その時から、神様のために生きたいと願いはじめました。
青年時代は、手島先生の聖書ゼミナールにも出席を許され、親しく信仰の心を学ばせていただきました。
そんなぼくですが、キリストだけに人生をささげるような生き方が、本当の意味でできていませんでした。
伝道というと、ぼくなんか……と思わなくもありません。でも、贖われた者はだれであっても、キリストを証しできると知ったんです。
「悲哀のない喜びは、浅薄だ」と先生は言われましたが、仕事の失敗や大病、その苦しみを通ったからこそ今、キリストに生かされている喜びは大きいんです。
妙子 私も、神様に喜ばれる人生を願ってきました。でも今までは、生活するだけで精いっぱいだったのが現実なんです。
それなのに晩年になり、キリストを証しして皆さんと共に祈れる。こんな心豊かな人生を送らせていただけることが、もったいなくて感謝なんですね。
嗣彦 神様は、ぼくたちの人生の最後まで、すべてを見て、愛し、生かしてくださると思うんです。
だから、キリストの神様によしとされる生き方をしたいと、ぼくはこの年になって改めて願うんですね。
これから、70代後半です。与えられたこの喜びで、私たちは生けるキリストを証ししながら心燃やされ、真っ赤な愛車に乗って、どこまでも行きたいと思っています。
本記事は、月刊誌『生命の光』853号 “Light of Life” に掲載されています。