友を訪ねて「バシー海峡への祈り」

舘 量子(たち かずこ)

『生命の光』誌読者の舘量子さんは、台湾でバシー海峡戦没者などの慰霊と、遺骨収集の調査をされています。どこからも支援を受けず、個人で何年もの間、慰霊の活動を続けておられる、その想いをお聞きしました。(聞き手 光永弥皇夫)

バシー海峡の戦没者

大東亜戦争当時、バシー海峡には石油輸送や南方への増援輸送など、日本の重要輸送船団が多く航行していた。戦局厳しい戦争後半、海峡はアメリカ海軍の潜水艦などの格好の作戦場となり、日本の多くの輸送船が沈められた。
10万人とも20万人ともいわれる将兵、軍属がこの海で戦死して、遺体は台湾にも流れ着いた。
日本政府が主催するバシー海峡戦没者の慰霊祭は、現在もまだ行なわれていない。

光永弥皇夫 舘さんとお会いして、数年がたちますね。私は大阪で、また台湾でもキリストの伝道をしているので、何度かお話しする機会がありましたが、台湾に住むようになられたきっかけを、改めて詳しくお話しいただけますか。

舘量子 私が拓殖大学に在学していた時、台湾研修がありました。この大学は台湾との関係が深く、私はそれに参加したのです。

その研修で、日本統治時代を生きた台湾人のおじいさんたちに会いました。当時の体験をお聞きすると、意外にも「日本は戦争もしたが、何も悪いことはしていない。私はあなたがたのおじいさんたちと共にあの戦争を戦ったから、はっきりそう言える。日本人は誇りをもって、もっと胸を張っていいんだよ」と言われたのです。

私は、日本は戦争で悪いことをしたとばかり思っていましたから、「私は元日本兵だ」と誇らしく語られる台湾の方々の言葉に衝撃を受け、涙が出ました。

それまでの常識がひっくり返ったといいますか、夢も希望もなく、日本人としての自信もなく生きていた私でしたが、誇りをもってもいいんだと知りました。私自身も肯定された思いで、生きている実感がわいたのです。

それがうれしくて、もっとおじいさんたちから話を聞きたくなり、台湾に移り住むことにしました。

でもある時、私にはその資格があるのかなと思ったのです。平和な日本で何も学んでいない人間が、突然「戦争のことを教えてください」とお願いすることは、あまりに台湾人元日本兵のおじいさんたちに失礼だと思いました。それで、日本兵として戦った方のお話を受け止められる経験を私もしようと、陸上自衛隊に入隊したのです。

光永 そんな思いで自衛隊に入隊されたのですね。驚きました。

 1任期2年間を耐えきれたら聞く資格あり、と自分でルールを決め、任期満了まで頑張りました。

25歳の時に、夢にまで見た台湾に来たのですが、現実は生活するだけで大変でした。

しばらくしていちばん最初に出会えた台湾人のおじいさんは、元日本兵で、大正生まれの方でした。私と日本語で会話するのをとても喜ばれ、孫のようにかわいがってくださいました。ほかにも何人ものおじいさんたちに出会いましたが、皆さん何より大事にされていたのが、戦没者の慰霊でした。

皆さんご高齢なので、次々と亡くなっていかれます。私は孫のように愛してくださったおじいさんたちのため、その慰霊の心を受け継ぎたいと思ったのです。

光永 亡くなられた方々の思いを受け継ぐ人がいないと、その心は忘れ去られてしまいますね。

 そうなんです。私が続けたらおじいさんたちの思いが残るかと。

そんな時に、バシー海峡で戦死された方々を偲(しの)ぶ、関係者が行なっている慰霊祭に、私も実行委員として携わることになったのです。

今回の取材で、若人と共に海岸を訪れ、ご遺骨が埋葬されている所で聖書を読み祈る(積石と流木で造られた慰霊場所)
バシー海峡戦没者の慰霊施設「潮音寺」

光永 これまで遺骨の調査をする中で、不思議な出会いもあったそうですね。

 はい、バシー海峡での悲劇を描いたノンフィクションに、当時を知る証言者のお名前が載っていました。それを頼りに、ご遺骨を捜しに行った時のことです。

地元の風習などもあり、ご遺骨の埋葬地は見つけるのがとても困難です。その時も、名前以外は何の手がかりもありませんでした。

私は、バシー海峡が見える岬の町まで車で行くことにしました。驚いたことに、たまたま頼んだタクシーの運転手さんが、その証言者のご老人をご存じだったのです。

何かに導かれるように、そのご老人の家に行きました。そして、バシー海峡戦没者のご遺骨が埋葬されている場所と、また当時の話をお聞きできました。

その方は、子供のころの記憶を、はっきりこう語られました、「あれは、とても寒い日だった。遠くバシー海峡の方に日本の船が7~8隻浮かんでいた。それを、アメリカの空母から飛んできた飛行機が次々に攻撃して、そこは船からの油で火の海になっていった。その光景を、私は木の上に登り見ていた。攻撃が終わり、後から流れ着いた遺体を、村の大人たちが何も言わずに埋葬していた」と。

そのおじいさんは、日本語はもう覚えていなくて、それまではずっと台湾語で話していたのですが、ある話になった時、突然、日本語で叫んだのです、「バカヤロー、ここまで来たんじゃないか。まだ命あるだろう」と。

びっくりした私が、その言葉の意味をお聞きすると、生きて浜にたどり着いた上官が、瀕死(ひんし)の部下を励まし、救うために叫んだ言葉だったのです。

おじいさんの脳裏に、目撃した情景が強烈によみがえった瞬間でした。そして葬られた場所に案内していただき、慰霊のお祈りをしました。私はようやく、ご存命の証言者に会い、ご遺骨が埋葬されている場所を探し当てることができました。

私が親しくしていただいた台湾人元日本兵のおじいさんたちは、「戦没者の慰霊は、日本のお国にしてほしい」と、いつも言われていました。でも今もまだ、日本政府が主催するバシー海峡戦没者の慰霊祭は行なわれていません。

私は機会があるごとに、日本の行政や政治家の方々にお願いしてきました。けれども、こうしてご遺骨が眠る場所がわかって、それを行政の方に伝えても、何の肩書きもない私ですから、ほとんど相手にしてもらえません。

舘 量子 (高雄市在住)
栃木県出身。台湾に移住して今年で16年目。高雄市で仕事をしながら、遺骨埋葬地の調査等を続けている。

光永 幕屋のことを知ったきっかけは?

 私が通っていた「台湾歌壇」(短歌の会)でお世話になった北嶋徹先生という方が、幕屋の人でした。その方から『生命の光』を頂き、読むようになりました。

ある日、幕屋の方と一緒にクリスチャンのおじいさんをお訪ねした時です。皆さんが心を込めて祈るのを聞いていたら、私はなぜか泣けて、涙が止まらなくなりました。お祈りの後も胸がいっぱいで、しばらく話せないほどでした。

そして、昨年開かれた熊本聖会にも、幕屋のお祈りに包まれたいと思い、参加させていただきました。初めて聖会に集う人のための「新人集会」での祈りが、私はとてもうれしかったです。

聖会が終わった帰り道、車窓から眺めるすべてがキラキラ輝いて、愛(いと)おしいものに見えるんですね。あれは、不思議でしょうがありませんでした。

それからは『生命の光』の記事が、他人事(ひとごと)に思えなくなりました。実を言うと以前は、手島郁郎先生の講話は難しいので、飛ばして読んでいたんですね(笑)。

でも聖会後は、内容が心に入ってきて、夜も読み入ってしまい、なかなか寝られないほどです。

光永 2年前、私も舘さんに案内されてバシー海峡戦没者の埋葬地に行き、数人で祈りましたね。

私はその時、ただならない思いがしました。戦没者が埋葬されているこの砂浜で、私はどのように霊をお慰めすればいいのか。

とてもじゃないけれど、何も言えませんし、どう祈ったらいいのかと迷いました。その時、聖書の言葉を心を込めて読もうと思ったんです。聖句を大声で、ご英霊に語りかけるように読みました。

 そうでした。聖書を読んで祈っていただいた後、大きな虹が現れましたね。私はびっくりして。生まれて初めて、目の前であんなに大きな虹を見ました。

慰霊の祈りを捧げた時に現れた虹

光永 あれには驚きましたね。祈りが天に通じたんだと思いました。

 地元の人も「虹は、亡くなった人が満足して喜んでいる証拠だよ」と言われます。聖書の言葉とお祈りで、英霊の皆さんが喜ばれ、虹が現れたのだと思います。

私はバシー海峡の戦没者のことを、台湾に来るまで知りませんでした。多くの日本の方もそうだと思います。私たちが知らない間に台湾の人々が、特に台湾人元日本兵のおじいさんたちが、慰霊の祈りを続けてくださっていたんです。

私の力は小さいですが、天に祈りながら、ご英霊に語りながら、台湾のおじいさんたちの慰霊の心を継いで、日本の皆さんにも伝えていきたいと思っています。


本記事は、月刊誌『生命の光』858号 “Light of Life” に掲載されています。