聖書講話「生ける実在との出会い(後編)」使徒行伝1章3~11節
イエス・キリストは、十字架にかかり死なれた後、復活されました。そのキリストに出会い、復活の証人となったのが、最愛の弟子たちでした。その時、彼らに「間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」と告げられます。
キリストが言われた、聖霊にバプテスマされるとは、どのようなことか。前回に続き、使徒行伝1章の前半から学んでまいります。(編集部)
新約聖書の使徒行伝を学んでおりますが、私たちは使徒行伝を読むことによって福音というものをもっと確かに、深く知ることができると思います。
イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、40日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
使徒行伝1章3節
キリストは十字架にかかり苦難を受けられたけれども、復活して今も生きておられる。マグダラのマリヤをはじめ、ガリラヤ湖畔で漁をしていたペテロやその他の弟子たちに現れ、ある場合は500人以上の人の前で生きているご自分を示された。多くの人がイエス・キリストが生きておられることを確証した。クリスチャンたちを迫害していたパウロにも、ダマスコヘの途上、光まばゆい状況下に、キリストはお出会いになりました。
復活のキリストに出会った人
先日インドに行った時、インドの聖者といわれたキリストの伝道者スンダル・シング(※注)の生地ランプールを訪ねました。彼の生家で屋上に造られた居室に通されましたが、この暗い部屋でスンダル・シングが光り輝く顕現に接し、回心したかと思うと、私も祈り心地にならざるをえませんでした。
スンダル・シングは少年のころ、熱心なヒンドゥー教の信者でして、父祖伝来の宗教を愛し、キリスト教をひどく嫌悪して、聖書を焼いたりするほどでした。
しかし、霊的な渇きは激しく、その数日後、「ヒンドゥー教の生きた神様に会いたい。実在の神が現れてくれなければ、迷いが解けません。もう死にます」と自室で祈りだした。「実在の神よ、どんな像(かたち)でもいいから現れたまえ」と一夜祈った時に、真夜中、突然光まばゆく現れたのは、イエス・キリストでした。
翌朝、父親のところへ行って言いました。
「私はキリストを見ました」
「キリストを見た? そんなことがあるものか。おまえはインド人じゃないか。2000年前のイエス・キリストに会ったりするものか。おまえは『バガヴァッド・ギーター』でも読んでおるならば、クリシュナ神に会うはずだ」
「いや、見ました! イエス・キリストでした」
それ以来、彼は生涯変わらぬ忠実なキリストの伝道者となりました。
そのように、私たちの信仰に決定的な影響を与えるものは”神との出会い”です。神の御霊が具体的に、具象的に、人格化するまでに、グワーッと私たちに迫るようになった時に、「ああ、神様!」といって出会った神は、実在の神なんです。もちろん物質的な現象じゃありません。霊的現象として出会うもの、実在に触れる経験、リアリティーに触れる経験をもたなければ、私たちはほんとうに神を信じ、神の前に跪(ひざまず)きません。
女弟子のマグダラのマリヤもそうでした。主イエスの墓の前で、「私の主をだれかが墓から取り去った」と泣いていたら、「マリヤよ!」と呼びかける声を聞いた。彼女は振り返って、「ラボニ(私の先生)!」と言って復活の主に出会った。
このように、実在に出会う経験を基調とした信仰か、それとも「神とは何だろう?」といって研究や思索のこととしている信仰か、それによって信仰的生き方が違ってくる。
聖書の神の名「エホバ」とは、「在りて在る者」とか「実在中の実在」という意味で、今も立ち現れよう、現れようとしている神のことです。霊界から立ち現れてこようとするお方にぶち当たって、「ああ、神様!」とひれ伏し、畏(おそ)れおののく気持ちをもって従いだしたら、本当の信仰が始まります。
イエスは40日間にわたって現れたというが、「40」という数は聖書では神聖数(ホーリーナンバー)で、しばしば象徴的に用いられますから、必ずしも文字どおり40日ではなかったでしょう。相当な期間、十字架にかかられて以来、何度も何度も弟子たちに現れて、ご自分が”生きている実在”であることを示したまいました。このような実在に出会う信仰が大事です。
(※注)スンダル・シング(1889~1929年ごろ)
インドのキリスト教伝道者。「最もキリストに似た人物」といわれ、全インド、東洋や西洋を巡回し、多大な感化を与えた。キリスト教をインド人らしく表現し、単純にして深い霊的な真理を説く。チベットへの伝道の途上、ヒマラヤで消息を絶った。
来たりたもう者
私がまだ11歳のころ、熊本のバプテスト教会に初めて行きましたが、それまでイエス・キリストという名すら知りませんでした。姉が、「日曜学校の運動会があるから」と言って、私を連れていってくれたのです。ところがその話を聞いた時から、私はもうガタガタと身震いしはじめました。それから、教会で歌われていた賛美歌を庭先で聞いているうちに、私は夢みる者のようにうっとりとなって、何だか息切れするように動悸(どうき)がしました。イエス・キリストという名前を聞くだけで、不思議に胸が高鳴りました。今も、その時のことは忘れられません。それからずっと、その経験を捨てることができなかった。
そうして小学校6年、12歳の時に、ある郵便局の職員の奥さんがやっていた日曜学校に行くようになりました。日曜の午後、そこに行くのが楽しくて楽しくて、待ち遠しくてならなかった。宣教師がバイオリンを弾いて聞かせますけれども、私にはバイオリンなんかどうでもよかった。日曜学校の雰囲気に浸るのがたまらなくうれしかった。
しかし、私が教会に行くことを母が知りました時に、母は「おまえはそういう所に行ってはいけません。わが家の宗教と違いますから」と言って禁じました。
私は、「神様、母が教会の日曜学校に行ってはいけないと言います。でも、やがて学生になったら、きっともう一度、行きます。子供で不自由な身ですから行けませんけれども、神様、許してください」と言って祈り、自由に教会に行ける日をあこがれました。
そして何か苦しい時、悲しい時、つらい時、「神様、助けてください、助けてください」と子供ながらに祈っておりました。これは、私がある不思議な実在に触れた経験です。
その後、大きくなって教会に行くようになったら、実在に触れるという経験がなくなりました。その教会では、教理や一つの倫理道徳を信仰として教えられるばかりだったからです。霊的実在に触れしめることをしてもらえなかった。だが時々、優れた伝道者の先生たちに触れると、決まって何か心ときめくものがありました。
私たちに必要なのは、「われはそれなり!」と言って来たりたもう方に出会う経験です。この経験がなければ、それは自分の頭で考えた神様にすぎません。私たちの心に、「われはそれである! 長い間、おまえが渇き求めていたところの者である。なんじを祝する者は、われである」といって近づいてくるお方に出会わなければ、本当の信仰を得ません。
だから、イエス・キリストに対して、当時の人たちも「来たりたもう者、救世主(メシア)はなんじであるか?」と言って質問している。こういう驚くべき神の化身ともいうべき実在に出会うことが大事です。皆さんもお互いに努力し、求めなされば、きっと突然その状況になるはずです。そうしたら、ありがたくて、もうじっとしておられない境地に立ち至ります。
信仰とは、神の御霊との出会いなのであって、これを欠いで信仰している間は、どうしても神をありありと拝するということができません。
聖霊にバプテスマされるとは
イエスは……たびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
使徒行伝1章3~5節
3節の「現れる οπτανομενος オプタノメノス」という言葉は、「見る οραω ホラオー」という語から派生してできた語ですから、単に現れるというよりも、私たちの目に見えるようになった、ということです。イエス・キリストは、十字架にかかられた後もしばしば弟子たちに現れて、神の国に関して語られました。キリストが中心問題とされたのは、神の国です。神の支配──神が人間を統治する、神が人間の守護神となって導くものである──ということを、まざまざとお話しになった。(「神の国 η βασιλεια του θεου ヘー バシレイア トゥ セウー」は「神の支配、王国」の意)
そして、弟子たちと食事を共にしている時に、キリストがお命じになったことは何か? 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待つがよい」と。そして、「ヨハネは水でバプテスマしたが、あなたがたは、多くの日々の後にではなく、聖霊の中にバプテスマされるであろう」(直訳)と言われた。
イエスが現れる前、洗礼者ヨハネはヨルダン川の水で、悔い改めのバプテスマをイスラエルの人々に施しました。今までの信仰生活はなっていない、こんなユダヤ教ではいけないといって、人々はヨハネのもとでバプテスマを受けました。しかし、キリストは「水ではなく、聖霊の中にバプテスマされるであろう」と言われる。
「バプテスマする βαπτιζω バプティゾー」という言葉は、現在は「洗礼」という儀式のようにとらえられていますが、本来「~に浸す」という意味です。口語訳の「聖霊によって」は違います。原文には「εν エン」とあるので、「聖霊の”中に”」浸される、です。すなわち、私たちは聖霊の中に、聖霊の雰囲気の中に浸される時に、心の中に外に、聖霊がひたひたと浸してくる。海綿が水を含むように私たちは聖霊に浸される。これが父なる神様の約束です。また、イエス・キリストを通して与えられた約束です。これが信仰の眼目であります。
私たちは、この「聖霊にバプテスマされる」ということを切に求めなければなりません。これこそ新約であり、旧約聖書に記された預言の成就だからです。
そのことは、ルカ福音書の最後を読みますと、「『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都(エルサレム)にとどまっていなさい』。それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」(24章49〜53節)
私たちは新約聖書というが、その新約とは何か。「キリストが聖霊を注ぎたもう。私たちは聖霊にバプテスマされ、新しい人間に変わる」ということです。ヨルダン川の水の中にバプテスマされるように、聖霊の中にとっぷり浸されて新生することをいうのです。
私たちは、そのようにまで聖霊に御霊浸けされるように浸っているだろうか? と考えると、ほんの少し聖霊に触れた経験はお互いにもっているが、もう十二分に浸りきるまでになっているかどうか。皆さんに申し上げるんじゃないんです。今の私がそうです。
ですから、今朝から切に願っているのは、「神様、この程度じゃいけません。ほんとうにとっぷり浸してください」ということです。「もろもろの問題は、聖霊にバプテスマされていないことから起こる」、そう自分に言い聞かせております。
聖霊、なんじらに臨む時
さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」
使徒行伝1章6~8節
「弟子たちが一緒に集まった」とありますが、これは、オリブ山というエルサレムの東にある小高い山の上でのことです。
弟子たちは、イエスに「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と問うた。当時のイスラエルはローマの軍政下にあって、宗教も力を失い、亡国の悲運に瀕(ひん)していたからです。ところが彼らに言われるのに、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。しかし、もっと重大なことがある」と語られました。それは、この8節です。
「しかし、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。力を受けない者がいろいろ議論をしましても、それは宗教の議論倒れになります。大事なことは、聖霊によって力を受けることです。奇跡的な力、霊的な力、私たちの原動力となるものが来ないで、宗教を議論したって駄目です。神学校にどれだけ通ったって信仰は進みません。私たちの魂を押し進めるファクター(要因)となるものがないからです。まず必要なことは、議論よりも力を受けることである。パワーを受けることである。「力 δυναμις デュナミス」を受けることである、と言われた。
聖霊が臨みさえするならば、私たちはまざまざとキリストを証しすることができる。否、神様が「わが証人」と言って、私たちを通して語ってくださいます。私たちにとって、信仰の極意としてどうしても必要なことは、聖霊にバプテスマされることです。そして力を受ける。そうでなければ、聖書の現実を証しすることはできません。
栄光の雲に迎えられて
こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」
使徒行伝1章9~11節
ここに「イエスは天に上げられ、雲に迎えられて」とありますが、この雲とは何でしょうか。旧約聖書には、出エジプトしたイスラエルの民を、神様が常に昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導きたもうた、とあります。また、ソロモン王がエルサレム神殿を建てた時、神の栄光が雲のように宮に満ちた、とあります。
同様のことは福音書にも記されています。イエスが3人の弟子たちと高い山に登られた時、光まばゆい姿に変貌(へんぼう)された。その時、雲に取り囲まれるや、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」という声があった。このように旧約聖書以来、「雲」と書かれるときに、これは神の臨在の濃厚な状況をいうのです。このような状況を、ユダヤ教では「シェキナー」といって尊んでおります。
復活して姿を現されたこのイエス。オリブ山で弟子の一群の中に、まざまざと目に見えるように現れたもうたこのイエスご本人は、弟子たちが見たのと同じありさまで、またおいでになるであろう。それは、どういう状況下に天に姿を消されたかというと、栄光の雲漂う中であった。それで、また来たりたもう時も、去りたもうた時と同じような状況下に、栄光の雲の中で再びお出会いできるのである。
こう言って天使たちが切に教えてくれたことは、シェキナー状況を求めることであった。このような不思議な雲が取り巻くということが、もう一度キリストに出会えるかどうかの鍵です。私たちに必要なのは、このシェキナーの中に毎日生きること、それを呼び求めることです。こういう不思議な雰囲気の中で生きてみとうございます。
2人の天使が彼らに語り、教えてくれたといいます。こういう霊界のことは、なかなか学ぶことはできませんが、天使たちが私たちに教えてくれます。私たちにとっては、目に見ゆるこの地上だけが生命あるものの住んでいる場所ではないのであって、霊的な、目に見えない雰囲気の中に、私たちの魂は生きることができる。また、そのような霊界に相接することができる。そして、天使に導かれるような生涯があるものです。
弟子たちは、ボンヤリとして天を仰いでおりました。しかし、もう一度キリストは来たりたもう。人々がこのイスラエルの国を復興なさるのはいつだろうか、という質問をする時に、復活の主は、もっと素晴らしいことがあるぞと言って、聖霊にバプテスマされること、力を受けることの尊さを示された。このキリストは今も生きておられるのであって、いつも激しいシェキナーの雲が取り巻く状況さえ備えられれば、ふっと現れて来たりたもうのである。また、私たちが死んで次の世界に行く時も、この不思議な雲が私たちを取り囲んで導くのです。
これは一度経験しますと、そのありがたさ、尊さは忘れることはできません。どうか、切に祈り祈ってシェキナー状況に入り、今も生きて在りたもうキリストにお出会いなさるよう、実在に接することができますよう祈ってやみません。
どうぞ神様、天に上げられたキリストご自身が、また同じ状況で降(くだ)りたもうというならば、明日と言わず今、私たちの前にそのような状況を作り出し、一人ひとりにシェキナーの栄光が取り巻いて、不思議な経験に入れしめたもうようお願いいたします。
(1970年)
本記事は、月刊誌『生命の光』861号 “Light of Life” に掲載されています。