聖書講話「内なる光」ヨハネ福音書11章1~16節
イエスの愛された人々
さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
ヨハネ福音書11章1~5節
「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とある、マルタと妹のマリヤ、またその弟のラザロとは、どういう人たちだったのでしょうか。「このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女」(2節)とあります。ルカ福音書7章36節以降に、マリヤという名はありませんが、匿名の女のことが書かれています。
ある時、1人のパリサイ人(注1)がイエスを家に招きました。すると、その町で「罪の女」といえばすぐわかるような、汚らわしい過去をもつ女が、その家にイエスがおられることを聞いてやって来た。
イエスの足元に来て、涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して、香油を塗りました。パリサイ人はそれを見て、心の中で、「もしこの人が本当の預言者であるというならば、自分に触っているのが、どんな女であるかわかるはずだ」と言った、という記事があります。イエスはこの女をかばい、パリサイ人に対し懇ろに、「多く罪を赦された者は多く愛する」というお話をなさいました。
この女がマリヤであります。マリヤは「罪の女」と言われて、町じゅうから辱められておりました。人に言えないような恥ずかしい過去がありました。そんな汚らわしい女に触られていて平気なのか、というのがパリサイ人の言い分です。だが、イエスは黙って、その女のなすがままにさせて弁護なさいました。これがイエス・キリストの姿です。
また、弟のラザロは、他の福音書には「らい病であった」と書かれています。らい病は当時、最も忌み嫌われた病です。イエスが特に愛した3人の姉弟、それは町じゅうの嫌われ者でした。しかし「このラザロを主は愛しておられた」。このことは私にとって、どれだけ慰めであるかわかりません。人は私の過去を咎めて、この人はああだった、こうだった、とあることないことを言います。しかし、そんなことはどうでもいい。私は今、主に愛されているラザロです。昔は心のただれきった人間であったけれど、今はキリストの愛の瞳の中に入れられている私自身を思う時に、「神様、もうこれで十分でございます」と言うことができます。
(注1)パリサイ人
ユダヤ教の掟を厳格に守り、民衆を指導していた宗教家たちのこと。
神の霊によって生まれ変わる
よく、多くの人が私に「どうしたら私は神に愛される人間になることができるでしょうか」とご質問になります。私も昔はそういう質問をしたものです。しかし、今ではそういうことを言わない人間に変わってしまいました。それは聖霊を受けて、ある聖書の言葉を経験したからです。
ヨハネ福音書3章でイエスは、当時の立派な宗教家であったニコデモに対して、「あなたは新しく、神の霊によって生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。人間としてこの世に生まれてきたように、今度は神の霊を受けて霊界に生まれなければいけない、地上から天国に生まれなければならない、と言われたのであります。
どうでしょうか。果たして私たちは地上を歩きながら、私の国籍は天にあり、私のホームは天です、というほどに天を慕っているか。また、地上をさながら天国のように歩いているかどうか。
聖霊を受けて、新しい霊的な生まれ変わりを胸の中に経験されるならば、すでに天上の雰囲気に包まれているような光景に出合うのです。もしクリスチャンといいながら、このことを知らないならば、なんと哀れむべきものであろうか。
「どうしたら先生のような信仰生活を送ることができますか」と言われるけれど、私は皆さんと同じ人間であって何も変わりがありません。しかし確かに違うというのであれば、わがホームはすでに天である、ということであります。地上に何をもち、何を蓄えようが、私にはちっとも楽しくない。天上のことを思い、霊界を夢み、自分が地上に霊界の一部をもっていることをひたひたと感じるときに、幸せだなあ、とつくづく思います。また、この聖霊を慕うたくさんの兄弟姉妹たちにこうやって囲まれている自分を見ると、なんと嬉しく、有り難いことかと思います。
「聖霊によって新しく生まれる経験をしなければならない」。これは、キリストが今日も同様に言われている言葉です。そして、どのような罪や病を身にまとっていても、ひとたびキリストの霊を受けて新たに誕生した者を、キリストはこんなにも愛されるのです。ここに、イエスがマルタとその妹弟マリヤとラザロを非常に愛しておられた理由があります。地上においては全く気の毒な人たちです。しかし、イエス・キリストはこういう人たちを見て愛しておられたことを読むときに、聖書は2000年前の物語ではない、私の物語だ、そう思います。
あらゆる出来事を通して神の栄光を
ひとたびキリストの息吹に触れ、キリストの霊が脈打つようになってからというもの、自分でもその変化に驚く経験があります。マリヤも、拭おうと思っても拭いきれない過去の罪に苦しんでいました。若い娘が一度純潔を失いますと、どれほど一生涯悩むか。「私の犯した罪を忘れてください」と言っても、現実はどうにもなりません。
拭うべくもない罪に苦しんでいたマリヤ、しかしイエス・キリストに触れた時に、心が変わり、全世界に彼女の名前が伝わるような聖女と変わりました。マルコ福音書を読むと、イエスの頭に香油を注いだ女について、イエスは「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(14章9節)と言われました。こうしてマリヤは、イエス・キリストに愛される者となったのです。
救いとは精神的な救いだけにとどまりません。マリヤの兄弟ラザロはらい病の爛れた体だったようです。このラザロが死にました。しかし、イエス・キリストに触れる経験は、霊肉共に救われることです。「ラザロは死に至らない。神の子がそれによって栄光を受けるために、神の栄光のためにこの病気があるのだ」と、イエスは言われました。
キリストの目には、一切合財が神の栄光を現す出来事に見えたのです。その病は神の栄光のための病である。つまり、このことを通して神の子イエス・キリストが栄光を受けるためであると言われるのです。「栄光を受ける」とは、ただ輝かしいことが起こるという意味ではありません。「栄光」という言葉は、目に見えない神様が、見えるように現在するときに使われる言葉です。私たちはあらゆる出来事を通して、神の栄光を現す生き方をしなければなりません。
心に灯火をもつならば
ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。イエスは答えられた、「1日には12時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」
(ヨハネ福音書11章6~10節)
急いでベタニヤに行かれればよいのに、イエス様はなお2日もぐずぐずしておられました。「これは、ラザロを死なせておいて、後に奇跡が起きるなら皆が驚くからだ」と解釈する人もいます。また、わざと遅れて来られたため、マルタとマリヤはイエス様に愚痴をこぼしております。このように彼女たちの不信仰を暴露するためにわざと遅れたのだろう、と言う学者もおります。
私はそうは思いません。キリストは、どんなときも父なる神の懐の中にいたもうたから、人が死んだといっても騒がれず、慌てられない。泰然自若として生きておられました。すべてのことがお見透しであったからです。ここに、悠々と生きておられたイエス様のごようすがうかがわれます。弟子たちは、「先生、ユダヤ人たちが先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と言っておびえます。マルタたちの住むベタニヤは、イエスを殺そうとした宗教家たちのいるユダヤの地方にあるからです。
しかし、それに対して何と言われたか。「1日に12時間あるではないか。昼間歩けば人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである」。当時のユダヤ人は、日の出から日没までを12等分して12時間としました。日中に歩くならば、人間はつまずくことはない。石打ちする者がどこにおるかもわかるし、ちっとも怖いことはない。どこが危ない谷であり、坂であり、崖であるかということが、太陽の光によってわかるからです。
しかし、夜歩けばつまずきます。「その人のうちに、光がないからである」、ここでいう夜というのは、ただの夜ではありません。心の闇、霊的な闇のことです。霊的に真っ暗な者は「ユダヤ行きは危ない」と恐れるかもしれないが、それは心の灯火(ともしび)がないからです。
キリストは、「我は世の光なり。我に従う者は暗きうちを歩まず、生命の光を得べし」と言われました。信仰とは、この生命の光を得ることにあります。詩篇18篇に、「あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます」(28節)という有名な句があります。神は私たちの心の、無明(むみょう)の闇を照らしたもうお方です。キリストにあって新しく生まれた者には、このようにこの世の灯りではない、霊的な灯り、心の灯火が胸に灯される経験があります。
一隻眼開けて
イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の垂訓にも言っておられます。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」(6章22~23節)
この「目」という語は、ギリシア語では単数形で書かれています。目は両眼あるものですから、複数形で書かれなければならないはずです。また、「あなたの目が澄んでおれば」とあるが、「澄む απλους ハプルース」という語は、英語では、「single シングル(単一、純一)」とも訳される言葉です。ですから「あなたの目が澄んでおれば」というのは、「あなたの1つの目が純一であるならば」という意味です。もしあなたが、自分にはそういう内なる光がないといって嘆くなら、それは、あなたの目がシングル(単一)でないからです。
インドを旅行しますと、いろいろ珍しい偶像があります。その中で、眉間に大きな目の玉がついている像があります。そしてこの1つの目に水晶玉などを入れて、心の眼(め)として非常に大事にしております。
同様に、キリストがここで、「あなたの1つの目が」と言われるとき、これは肉眼でない、心眼、霊眼のことをいっておられるのです。このことを仏教では「一隻眼(いっせきがん)」といいます。「法を読み解く力、物の本質を見抜く眼、見識」のことです。
内なる光が照り出す
この1つの目が明るくなかったら、その暗さはいかばかりだろうか。また、1つの目が明るかったなら、どんなに体じゅうに後光が射すくらい明るいだろうか、とキリストは言われます。
ここに心の光、内なる光の尊さがあります。宗教とは、この内なる光が照り出すことです。明かりを消してしまえば、もしここに何かがあっても見えません。光があればこそ存在がわかります。同様に、霊的な光、心の光が灯らなければ、神の存在もわかるものではありません。
キリストが与えたもう恵みは、ただ病気が癒やされたり、事業が成功したりということだけではありません。この光によって心の内に外に、いろいろなものが見えだす経験であります。
世界のキリスト教徒の中で、平和を愛し、行ないの立派な群れであるといわれるのは、クエーカー派(注2)の人たちです。国際連盟の事務次長であった新渡戸稲造先生も、彼らの仲間でした。
彼らが非常に尊ぶのは、「inner light インナー ライト 内なる光」です。
自分の心の内に光がないならば、心の内は真っ暗です。物質が存在しても光が照らしていなければ見えないのと同じように、神が存在しても、キリストが実在していても、内なる光が心の中を灯していない限りわかるものではありません。
私たちにとって、宗教の議論を聞くよりもまず大事なことは、内なる光が灯されはじめるということです。心の灯火が灯されずに何を聞いたって、ああそうかと思うだけで、そのものを認識することはできません。
私は今、熊本と大阪を行き来して集会をしておりますが、先日、大阪に来ている間に熊本で、ある青年が書き置きをして家出したことがありました。それを見て、皆が恐れました。「危ない、自殺でもするのではないか」と言って、「阿蘇山に行こうか。あちらだろうか、こちらだろうか」と皆で捜しました。また夜になると、皆が心配し、「警察に捜索願を出そうか」と言います。だが私は、「神様が彼を守りたもう。大丈夫だ。そう自分の心に感じる」と言いました。翌日になると、私が言ったとおりの結果でした。
このようなことはどこからくるか。これは内なる光が示すからです。内なる光に照らされますと、目で見、耳で聞くほどではありませんが、フッと合点することをいつも感じます。手に取るように、恐ろしいほどわかります。内なる光は危機に際して事柄の真相を示す。これは不思議な経験ですが、皆様がたも信仰生活を進めてゆくうえで同様な経験をもたれると思います。
(注2)クエーカー派
17世紀のイギリスで、一職人ジョージ・フォックスを指導者として発祥した、霊的な宗教運動。教会制度や儀式を廃して、共同での神秘的体験を重んじた。フレンド会とも呼ばれ、全世界に広がる。
寂聴の祈り
もう1つ、クエーカー派の人は「inner voice インナー ヴォイス (神の)内なる声」を尊んで大事にいたします。クエーカー派の集会に行きますと、皆黙って静かにしております。神の声を聴きたいからであります。彼らの信仰の特徴は、内なる静けき声を静かに聴くことです。
私が昔から強調しているのも「寂聴」ということです。私は自分の部屋でも声を上げて祈ることは、絶えてありません。私は声1つ上げません。神は私のすべての必要を知りたもうのですから、「神様」と声を上げてせがむのでなく、「神様、どうしましょう、どうぞ御声を聴かせてください」と静かに耳をそばだてて聴きます。それは外から耳に聞こえる声ではなく、内側に聞こえてくる声です。その御声を聴こうとするだけです。
こういう公の集会では、自分の意志を表現するために声を出しますよ。しかし、独りで祈るときに声を立てたことはありません。私の祈りは寂聴の祈りです。そして「寂聴庵」といったような若い人たちの修養道場を熊本に作っておりました。静けき声を聴くのが私の信仰の狙いです。
私も昔は、雑念が出てくるので「神様」と声を出して祈っておりました。声を出して祈ると惰性から抜け出せるし、よく集中できるからです。しかしある時から、声を出す必要がなくなりました。今は静かな祈りを楽しんでおります。もう眩いように、自分が御光に撃たれて酔うような経験があります。それは酒を飲んだ時に、はるかに勝る喜びです。キリストの御顔を見上げるだけで、満ち足りるような光があります。これを「内なる光」と呼ぶのです。この内なる光に撃たれることが信仰生活にとって大切であります。
「わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言われるとき、キリストは普通の人の知らない、妙なる不思議な光をもっておられた。これを私たちも、ぜひものにしなければなりません。
すべてを見透して
そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」
(ヨハネ福音書11章11~16節)
イエス・キリストは「わたしたちの友ラザロ」と言われた。「わが友ラザロ」と言われるほど、キリストの目には、世に捨てられたラザロが尊く見えました。私たちはどんなに人から忌み嫌われてもいい。主が「わが友よ」と御声をかけてくださるなら、それで十分であります。
「眠る κοιμαω コイマオー」という語には「熟睡する」という意味と、「永眠する、死ぬ」という2つの意味があります。「わたしは彼を起こしに行く」の「起こす」という字は、「眠りから覚ます」という意味です。弟子たちは「昏睡状態程度だったら救われるでしょう」と言いました。
するとイエスは、あからさまに彼らに言われました、「ラザロは死んだ。わたしはあなたがたのために喜ぶ、わたしがそこにいなかったことを。あなたがたが信じるために(直訳)」と。「喜ぶ」と言われるのには、2つの意味があります。1つは、弟子たちが信じるようになること。もう1つは、ご自分はそこにいないのに、すでにすべてのことが見透すようにわかっておられる、ということです。多くの人は両眼で見ないと信じないが、自分はそこにいないけれど、内なる光によって千里眼のようにありありと見ることができることを喜ぶ、と言われるのです。
イエス・キリストの弟子であるならば、クリスチャンであるというならば、小さいながらもこれに似た不思議な経験をもたなければなりません。
大きな祝福を受け継ぐ者
こうして聖書を読みますと、キリストのご生涯が目に浮かぶようです。愛する者ラザロが死んでも慌てず、騒がず、すべてがお見透しであった。なぜか。内なる光があったからです。内なる光に照らして、遠くの出来事が目の前で起こっているように見ることがおできになりました。
信仰といえば、普通は罪や病気から救われることくらいに思いますけれど、それは消極的な信仰です。しかし、キリストは離れている所のことも見透しておわかりになり、死んだ者も蘇らせるほどの不思議な栄光をお現しになった。積極的な信仰とは、私たちがそのような大きな栄光を、祝福を受け継ぐ者となることです。
世の中の人は外なるものを受け継ぐことを喜びます。たくさんボーナスをもらい、お金を貯めるのも嬉しいでしょう。しかし、私たちは内なる光を継ぐ者になったことが幸せです。何はなくとも、内なる光に酔うようにしている毎日の自分、嬉しいなあと思います。内なる光を蓄えている喜びの前には、この世の何もかないません。
ここでイエス様が「もう一度ユダヤに行こう」と言われた時、弟子のトマスは「先生と一緒に死のうではないか」と捨てぜりふのようなことを言いました。だが、イエス様の本心は、もっと驚くべき神の栄光を示すために弟子たちを連れてゆこう、ということでした。内なる光がなく、心が真っ暗な人間は、次の瞬間、何が起こるかがわかりませんから恐れます。しかし、イエス・キリストがなさろうとすることは、前代未聞、死んだラザロが墓から出てくるという、驚くべき復活の奇跡でした。
私たちは次に何が起こるか、今は真っ暗で何も見えません。しかしキリストが働いてくださるなら、次の瞬間、驚くべきことが起こる。それを大きな期待をもって見守りとうございます。
(1963年)
本記事は、月刊誌『生命の光』2019年4月号 “Light of Life” に掲載されています。