「主の祈り」その1―マタイ福音書6章9~13節―「御名を聖ならしめたまえ」
長原 眞
神よ、わが神よ、
この砂浜、海、打ち寄せる波の音、
大空にきらめくいなずま、
人の祈りが
永遠に絶えることがないように。
(詩:ハンナ・セネシュ)
若きイスラエルの女流詩人ハンナが、生きる意味を問いながら海辺を散策していた時、いなずまのように心にひらめいたのは、祈ることの尊さでした。
どんな人にも、祈る心があります。そして、一心に祈る姿は美しいものです。
現代社会のように、極度のストレスや、過労に生きる苦悩の中にあって、心を静めて祈ることは、心の平安には必要です。また、深く祈ることによって、インスピレーションと力を得る時に、この世の戦いにおいて力強い歩みができます。
くどくどと祈るな
主イエスが地上を歩まれた時、あらゆる病を癒やし、悪霊を追い出し、心の渇ける者を天来の生命をもってうるおされました。そのカリスマ的な力と愛の源泉は、祈りにありました。
主イエスは、朝早く野に出て祈り、時には夜を徹して祈られました。その姿を見て弟子たちは、「主よ、私たちにも祈ることを教えてください」と願い出ました。そして教えられたのが、「主の祈り」です。
天にいますわれらの父よ、
(マタイ福音書6章9〜13節)
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。……
これは、キリスト者なら誰もが知っているほど有名な祈りです。けれども、一句一句に真剣に取り組んで、その深い意味を吟味することがあっただろうか、と思うのです。
まず、その祈りの心得として、「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ福音書6章7~8節)と言われました。
自分の子供が命にかかわる病気になったときや、せっぱ詰まった問題に直面したときなどは、雄たけびしてでも必死に祈る必要があります。
けれども、日常の祈りにおいて、「これをしてください、あれをしてください」というように、足りないものを求めて祈る必要はない。
神様は求めない先から、私たちに必要なものはご存じだから、というのです。それよりも、もっと大事な根本的なことを祈れ、と主イエスは言われる。
それは、「主の祈り」の初めにある、
天にいます私たちのお父さま、
(マタイ福音書6章9節・私訳)
あなたの御名を聖ならしめたまえ。
という祈りです。
「御名を聖ならしめよ」。これは、主イエスが最も大事にしておられた祈りです。そのご使命は、新しい宗教を打ち立てることではなく、世俗化した宗教を聖別する、御名を聖ならしめることにありました。
祈りの家
主イエスは伝道を始めて間もなくエルサレムに上り、神を礼拝するために神殿に詣(もう)でられました。しかし、そこで見たものは、犠牲にささげるための牛や羊、はとを売っている人や、ローマの貨幣をユダヤの貨幣に両替する人たちで、ごった返している光景でした。
主イエスは怒って、なわでむちを作り、牛や羊を追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくり返して、神殿から追い出し、『わたしの家は、祈りの家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と言われました。
神の御名をもって呼ばれている神の家が、宗教商売によって汚されている。それは主イエスにとっては、看過できないことでした。汚された神の御名を聖ならしめる熱情に突き動かされて、宮きよめをなさいました。
では、「御名を聖ならしめる」とはどういうことか?
「聖」とは、神の臨在を表す言葉です。
そして、「聖ならしめたまえ」という言葉は、新約聖書の原文であるギリシア語で「アギアゾ」という語の、強い命令形です。
聖なる神よ、ありありと臨在してください、人々が神の光に撃たれて倒れるくらいに現れてください、という強い誓願です。
そのことがなるためには、熱い祈りがささげられる必要があります。神の家であっても、小さな集いであっても、祈りが満ち満ちる時、そこに神の栄光が現れ、人々は救われ、喜びと希望に満ちる人生が始まります。
「御名を聖ならしめたまえ」とは、主イエスがそうであったように、宗教本来のみずみずしい霊的生命と奇跡的な力を回復することを願う、宗教改革者の祈りです。
宗教改革者・日蓮
日本において、日蓮上人は、旧約の預言者エリヤ、またマルチン・ルターにも比すべき宗教改革者でした。日蓮上人は、時の権力者の庇護(ひご)を受け、安穏としている宗教界に、法華経こそ最高の経典である、これに帰依せよ、と叫んで、迫害にめげず、熱烈な布教活動をして、眠れる宗教界に大きな覚醒を起こしました。
私は、特に晩年の日蓮上人の姿には心ひかれるものがあります。若い時から激しい活動をしてきたのだから、晩年は隠居して、静かな時を過ごそうと思うのが普通です。
けれども日蓮上人は、この世的な名利を捨てて、身延山(みのぶさん)の山奥の粗末な草庵(そうあん)にこもりました。冬ともなれば、寒風の吹き込む中で、寒さに震えながら、ひたすら祈りつづける姿は、宗教家の真骨頂を示すものです。その天に刻まれた祈りは、後の世代にまで大きな影響を及ぼし、霊的生命を与えつづけました。
神の子の出現を待つ
私は、一昨年、長く住んでおりました東京を離れ、和歌山に移住しました。何かをしようということではなく、祈りたくて和歌山に来ました。夜を徹して祈られた主イエスや、日蓮上人の姿に少しでも倣いたいと願うからです。
幕屋の初期に燃えていた聖霊の火を消してはならない。この火が、今後、100年、200年と燃えつづけることを祈るためです。
幸い、家の近くにきれいな砂浜があります。そこで心を注ぎ出して祈る祈り。それは、何ものにも代えがたいひとときです。
打ち寄せる波の音も、夜空に輝く星空も、神の御手によって造られたすべてのものが、神を賛美し、切なるうめきをもって、神の子たちの出現を待っています。
本記事は、月刊誌『生命の光』803号 “Light of Life” に掲載されています。