聖書講話「愛の天国」ヨハネ福音書14章1~4節
宗教において、死後の世界のこと、特に天国に行くかどうかは大きな問題です。天国というのは、どういう場所なのでしょう。また、皆さんは天国というと、どのようなイメージをもたれるでしょうか。今回の講話では、イエス・キリストが十字架の死を前にして弟子たちに懇々(こんこん)と説かれたヨハネ福音書の言葉から、天国について語られています。(編集部)
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」
ヨハネ福音書14章1~4節
ヨハネ福音書の14~16章は、イエス・キリストが十字架にかかられる前、最後に直弟子たちに残されたメッセージです。別れの遺訓です。3年間、弟子たちを導かれ、最後に教えられたことを書いてありますから、信仰のクライマックス、絶頂を示す御言葉です。私たちは深くこの言葉を味わい、心に留めなければなりません。
霊となってやって来られる
「あなたがたは、心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信ぜよ」の「神を信じる」は、ギリシア語原文を読むと、「神の中に信ずる、神に信じ込む」と訳すべきです。神様の懐の中に信ずる、御心の深いところに触れるように信ずる、ということでしょうか。そのように、しみじみと信じてほしい、ということをキリストは訴えられました。
ご自分が十字架にかかられるという重大な時が来た。そういう時に、弟子たちの心が騒いで、何も信ずることができなくなるならば、恐ろしいことです。それでキリストは、心を騒がせるな、神に信じ込めよ、また、わたしに信じ込んでほしい、と言われました。すなわち、「神に信ずるということは、わたしに信ずることである」とお説きになられました。それはなぜかというなら、神の霊をもつ者がキリストであるからです。
「また来て、あなたがたを迎えよう」とありますが、この「また来る」を再臨派の人たちは誤解しまして、「キリストが身体(からだ)をもって再臨(注1)され、自分たちを迎えてくださる」と信じています。だが、これは必ずしも身体をもって来られるということではありません。
このヨハネ福音書14章が一貫して言おうとするのは、霊的な再臨のことです。十字架の死後、キリストは復活して、マグダラのマリヤはじめ多くの者に霊的再臨をなさいました。そして、120名の者たちに聖霊が注がれたペンテコステ(注2)の日以降、御名を呼べば応えるように、キリストは救いを求める者のそばにやって来て助けてくださる。これが本当の霊的再臨です。「わたしのおる所に」というのは、ただの場所ではなく、「わたしが現在おる状況に」ということです。すなわち、聖霊を受けるならば、現在キリストが生きておられる心の境地に、あなたがたもやがて入るだろう、と言われるのです。
(注1)再臨
「ヨハネの黙示録」などにあるように、キリストが世の終わりの日に、地上に再び来られることを指す。それがすぐに起こることを強調する教派を「再臨派」と呼ぶことがある。
(注2)ペンテコステ
キリストが十字架にかかられて復活してから50日後に、祈っていた弟子たちに聖霊が注がれた、その日を指す。「聖霊降臨節」ともいう。
天国は心の「場」
キリストはここで、「わたしはあなたがたのために場所を備えに行く」と言われます。これは霊の世界、天国のことでしょうが、天国にどんな場所を用意しなさるんだろうかと思います。「場所」というと普通、土地や会場といった空間的な広がりや、また海、山といった地形を考えるものです。しかし、これは現象界の場所のことであって、キリストが言われるのは霊界における「場」です。霊界における場というのは、時間も空間も思想もすべて超えた、地上とは全く違った「場」です。
よく「天国はどんな場所ですか?」と聞かれることがありますが、地上と違いますから説明がしにくいです。あえて言うなら、お互い心が通じ合う立場と言えばいいでしょうか。
たとえば音楽の話は、音楽の好きな者同士、音楽を知っている者同士でなければできません。また私は、西洋音楽は学校で習っているから少しは知っていますが、浄瑠璃(じょうるり)などはよく知りません。それで浄瑠璃の好きな人からそのよさを言われても、いいだろうなとは思うけれど、どのようにいいかわかりません。それは、お互いの心の場が違うからです。
同様にキリストが、ご自分が現在どういうお気持ちで、どういう心の状況でおられるかを語っても、キリストと弟子たちとの間には違いがありすぎます。それでキリストのおっしゃることが、弟子たちにはよくわからない。それは、キリストのおられる霊的に高い場と弟子たちのいる低い場とでは次元が違うから、話が通じないのです。
夫婦でも行き先は別々?
夫婦のことを思えばよくわかります。ある方から「私は幕屋の信仰に入って喜んでいますが、主人は仏教が好きです。死んであの世に行ったら、私は天国、主人は極楽と夫婦別々になるのでしょうか」と質問を受けました。だが、私が天国を垣間見た限りにおいては、地上で夫婦だった人でも、天国で夫婦でいる人たちはほとんどいません。「夫婦は現世、来世の二世を契(ちぎ)る」というけれども、心の場が違えばあの世では一緒にいられません。
また、ある奥さんは地上において高い霊界を志して愛に生きている。しかし夫のほうは、金儲けや自分の出世ばかりを考えている。あの世では金もなければ、会社もないから出世のしようもない。それで、そういう人はほんとうに苦しむことになります。
「同床異夢」という言葉がありますが、夫婦が同じ床に寝ていても違う夢を見ているように、地上において同床異夢ならば、あの世に行って同じ場におりたいと思ってもそうはいきません。天国は、心の場、精神的な霊的な場のことですから、地上で別のものを信じ、夫婦喧嘩ばかりしていたら、あの世では一緒にはなれません。天においては、その人その人の魂の発達の程度に応じて、行き先が違ってくるからです。
地上において夫婦だといいましても、銘々の魂は違うのですから、その地上の関係を次の世にもってゆくことはできません。「それじゃあ何だか寂しいな、せっかくあの世まで一緒に行こうと思っていたのに」と思われるなら、今から一つの信仰になって、一つの愛に燃やされて生きればいいのです。
愛とは、二つの体に一つの霊が宿ることです。一つの霊が二つの体を結びつけるときに、私たちは一つの天国、一つの場をもつことができます。
どんな天国を好むか
たとえば、熊本で私に大変尽くしてくださる方に、津田塾大学を出て英語を教えておられた、梅本愛子先生という立派なご婦人がおられます。私は昔から懇意にしておりますから、時々、夕食なども一緒にします。
ある時、食事をしながら梅本先生に、「たぶん、あなたと私は違う天国に行くと思う。たまにはお会いすることがあるかもしれないが、地上では一緒でも、天国ではいつも一緒にはいないと思う」と言いましたら、「そんな寂しいことを言うなら、信仰のしがいがないじゃないですか」と言われます。
「それではあなたに言うが、ぼくとあなたとでは信仰の傾向が違う。なぜあなたは、ご自分のお家に住まわせている夫婦に、もっと親切になさいませんか」
「親切にせよと言われても、私はずっと独身生活をしてきたから、独りを楽しむ癖がついています。私はいろいろな人と一緒にいると煩わしい」
「それでは、あなたの天国の理想は何ですか?」
「私はね、天国のきれいな山に行って、動物たちをたくさん集めて動物園の園長になるのが願いです。人間は嘘ばかり言って、意地悪したりするけれど、動物は偽らないし、なつくから、私は動物が好き」と言われる。実際、家で小鳥を飼ったり、小さな猿を飼ったりして動物をかわいがる、よい性質をおもちの方です。それで私は、「ぼくは猿より、人間が好きだ。そして、人と一緒に暮らすのが好きだ」と言ったことでした。
私は、人が好きであればこそ伝道するんです。人が好きでなければ、伝道はできません。また「君、そんなことをしていたら危ないぞ」と言って、未来のことまで心配して忠告したり、いろいろ心を砕いたりするのも、その人の最善を思い、愛しているからです。
地上から始まる天国
普通の宗教家にとっては、清い山にでも籠(こも)って独り静かに瞑想しながら、澄んだ月を眺めたりするのが天国かもしれません。けれども、そんな寂しい所で個人主義的に独り過ごすのと、私の天国は違います。
私の天国は、愛の天国です。私は皆と一緒に飯を食ったり、冗談を言って、皆でワアワア言い合ったりしながら嬉しく過ごすのが好きなんです。だから私は、あの世に行っても、幕屋の兄弟姉妹として親しく過ごした人たちと一緒に、「大阪ではああだったねえ、こうだったねえ」と語り合い、時には「先生はこんなひどいことを私に言った」「やあ、ごめんごめん」などと言って過ごすことができれば、どんなに嬉しいか。
私においては、互いに愛し合い、心が通じ合うということが天国なのです。また、多くの人が互いに助け、助けられ、導き、導かれ、また互いに上へと引っ張り上げ合ったりしながら生きるのが、私にとっての天国です。愛は独りの所では成立しません。多くの人と共に生きる所に愛があります。
それで梅本先生に、「あなたは天国のきれいな山で、たくさん動物を集めて動物園をなさることを幸せと思う。けれどもぼくは、愛する兄弟たちと一緒に語り合って、祈って、時々は徹夜ででも祈る会をして喜ぶ。それが私の天国です。私は、地上からその予行演習をしているんです。天国とは心の場です。地上においての心の場が、あの世での天国を決定するんです。だから、あなたと私は違う天国に行くでしょう」と言いました。
そのことは、梅本先生には非常にショックなようでした。だがそれからは、ご自分の家にK君夫妻をはじめ、次々と人を招き入れては尽くされました。長い独身生活からくるご自分の孤独癖というか、個人主義的な性質を直す努力をなさいました。そのお姿を見て、あの世でも同じ所に行けるなあと思って、私は嬉しくてなりません。
キリストと一つ波長に
キリストは、「父の家には、すまいがたくさんある」と言われた。エルサレムの神殿跡を見ても、神殿の周囲には旅人や僧が宿泊できるように、いっぱい家があります。そういうことを思い浮かべて言われたのかもしれません。けれども天国における場は、地上における場所とは違います。むしろ、「あの人とは波長が合う」などというのに似ています。たとえばテレビでも局によって周波数が違います。それで、チャンネルをその周波数に合わせると画像を観ることができます。合わせなければ画像が出てきません。それと同様に、天国における場は、心の波長というか、魂の波長が合うことが大事なのです。
それでキリストは、「どうかわたしに信じて、わたしと一つになってほしい」と言われました。「そうでなければ、わたしが現在いる境地にあなたがたは来られない。だが、わたしが地上において父なる神と一つとなって生きているように、あなたがたも深くわたしに信じ込むならば、あなたがたも同様の体験をするであろう」と言おうとされるのです。
私たち原始福音の信仰に生きる者は、キリストに信じて心の場の転換を引き起こす聖霊経験をもち、霊的なことを大切にして生きています。ですから、そのような霊の場というべき心の場をもたずに生きている人とは、どうしても話が通じません。話しても水掛け論になります。けれども、その人がひとたび聖霊に触れて回心(コンバージョン)し、霊的な場がその人の心に開けさえすれば、その霊的な場において、ものを考え、感じるようになって、聖書を読んでも「アーメン、アーメン、そうだ、そうだ」と、よくわかるようになります。
キリストは、「場所の用意ができたら、あなたがたをわたしのところに迎えよう。そして、いつまでもわたしたちはお互い会うことができる」ということを言われた。キリストはそのような、愛の中で一つに結びつける場を備えるために十字架にかかられました。ご自分のもちたもう聖霊の愛を皆に与えることを通して、弟子たちを一つになさいました。
幕屋の信仰の不思議はそこにあります。お互いはずいぶん違う者同士だが、どうして熱く愛し合うのだろうか。これは何だろうか。キリストという一つ御霊が愛させるのです。
私たちが愛し合うのは、霊的な場が一つだからです。「あなたがたのために場所を備えに行く」と言われるのは、霊界における場の一致、心の一致、波長の一致をいうのです。それが違うならば、どうしても話が通じません。心が、霊が、愛が通じないからです。
だからこの時、キリストは弟子たちを見て、「わたしのおる状況にあなたがたはいない。だから今はどんなに話しても、話が通じない」とお嘆きでした。しかし、「わたしのいる所にあなたがたもおらせるだろう」と言われたことが、ついに実現した。ペンテコステの日に、聖霊が120名の者に臨んだ時に、皆が一致団結して、キリストにある激しい愛と熱い信仰をもって沸きたちました。
私たちはどんなときも、キリストの御心に波長を合わせて、キリストと一つになって地上の信仰生涯を全ういたしとうございます。
(1964年)
本記事は、月刊誌『生命の光』2020年5月号 “Light of Life” に掲載されています。