信仰の証し「神の御業がわが家にも」
藤原啓嗣
わが家に次男が誕生した時のことです。
その子は出生前の検診で、ファロー四徴症(しちょうしょう)という心臓の難病を抱えていることがわかっていました。
出産に当たっては産婦人科、内科、循環器科の先生方が妻を取り囲むようにして立ち会い、必要となればすぐに手術をする構えでした。幸い、元気に生まれてきたので、手術は1歳になるまで見送りとなり、生後は新生児集中治療室で過ごしました。
現実を受け止めきれず
退院して迎えた、息子にとって初めてのクリスマスの日、イエス様の誕生を家族でお祝いしようと食卓を囲んでいた時でした。ミルクを飲み終わった息子が、急に激しく泣きだしたんです。すると妻が、「救急車を呼んで!」と声を震わせながら叫びました。最も恐れていた、無酸素発作を起こしていたのです。
病気の息子は、泣くことで心臓に大きな負担がかかります。すぐに泣きやませないと酸素不足で顔色が青紫になり、命を落とす危険さえありました。そのことを医者から聞いていた私たちは、発作で苦しむ息子を見て、不安に駆られました。
その日は、主治医の先生が病院におられたので迅速に処置してくださり、息子は一命を取り留めました。
その後は守られ、1歳時の手術も無事に終えることができました。ところが、やっと元気に育っていくと思ったら、今度は複合疾患で染色体が一つ足りない病気であることがわかったのです。
6歳になった今も、発する言葉は私たちにはほとんど理解できません。息子は、訴えたいことがあれば、すべてジェスチャーを交えて伝えようとします。
息子のことを思っては、今も夫婦で祈りつづけていますが、そばで寄り添う妻がいちばん苦労しています。
私も、現実を受け止めたとは言い切れない気持ちがずっとありました。また、職場では中間管理職になり、責任が重くのしかかってきました。次第に、精神的にも信仰的にも行き詰まりを感じるようになりました。
幕屋の集会に行っても顔を上げられず、後ろの端に座り、集会が終わればすぐに帰る。こんな自分の姿ではたまらないと思いながらも、私には何もできないという否定的な気持ちがわいてくる。そういった感情の乱れに自ら苦しみ、つらい日々を過ごしました。
先輩の愛の姿
そんな私のことを気にかけてくださる、信仰の先輩がおられました。小槻哲(さとし)さんは、下を向く私に何か言葉でアドバイスをするわけではありません。でも、集会後にいち早く去ろうとする私を目ざとく見つけては、ギュッと握手してくださる、そんな方でした。
ある日、小槻さんが一緒に山へ行こうと誘ってくださったんです。それで、車1台がやっと通れるような山道を上り、人けのない沢に着きました。
小槻さんは特別、祈りを導くわけでもなく、座って静かに祈るだけでした。私はそこで激しく聖霊を受けたとか、心がガラッと変わったというわけではありませんでしたが、先輩の祈りと愛が心に深くしみ入るのを感じました。それは、不滅の印象となりました。
その後、硬かった私の心が徐々に解かされていると思っていた矢先、小槻さんが亡くなってしまったのです。その訃報(ふほう)はあまりに突然で、ただただ悲しくて、仕事も手につかなくなりました。でもそんな私に奥さんから、告別式の司式をしてほしい、と頼まれました。
亡くなられた小槻さんの魂を、祈りと賛美をもって天にお送りしたいと思いつつも、伝道者でもない私が責任をもってできるのだろうか。また、今の自分の状態で受けられるのかと、内心、戸惑いました。
告別式の前日、このままではとても司式には立てないと思った私は、大阪幕屋の集会室に駆け込んで一人で祈りました。その途端、圧倒するほどの聖霊に覆われ、ワーッと異言の祈りが噴き出してきたんですね。ものすごい生命が臨んだのを感じました。
悲壮感しかなかった私の心の中に、聖霊を受けた喜びが込み上げてきたんです。そうしたら腹が決まって、「必ず神様が導いてくださる。明日は大丈夫だ!」という気持ちが自然とわいてきました。
翌日の告別式では、心からの感謝をもって司式に立ち、小槻さんを天にお送りすることができました。
このことで、私は起ち上がることができたのです。
夫婦に託された希望
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心が変わると、聖書も違って読めるんですよね。
ヨハネ福音書には、生まれつきの盲人を見かけた弟子たちがイエス様に対して、「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねた(9章2節)、という出来事が記されています。私は、この盲人の親の気持ちを考えると、あまりに残酷な問いだと思って、この箇所をまともに読むことができませんでした。
でも今は、「ただ神のみわざが、彼(盲人)の上に現れるためである」(9章3節)というイエス様の返答が、まるで自分たちに言われているように感じるんですね。
実際は子供の病状も、仕事での葛藤(かっとう)も、外側のことは何も変わっていません。でも、私の心が変わると、目の前にある世界が全く違って見えるんです。
それは、病のいやしといった結果を求める以上に、今生かされている息子の存在そのものが神の御業なんだと気づかされたからだと思います。そして、この子を通して、悩み苦しむ人たちにも神の栄光が伝播(でんぱ)していく。そんな希望も、私たち夫婦には託されているんだなと感じて。そう思うだけで、感謝があふれてきます。
息子の成長の過程において、これからも試練はあると思います。でも今は、何でもかかってこい! と言えるほど、家庭は笑顔で満ちています。これもまた、神の御業だなと実感しています。
本記事は、月刊誌『生命の光』863号 “Light of Life” に掲載されています。