信仰の証し「息子はわが家の祝福の基」
樋口美嘉
私には3人の子供がいますが、末っ子の紀興(のりおき)は重い自閉症です。
そんな紀興が20歳になって就労支援の事業所で働きはじめて、1年がたちました。贈答品を入れる箱を折る仕事がメインですが、最近ではパソコン入力もできるようになりました。
以前でしたら、ちょっとしんどいだけでも、「もう、やーめた!」と言って投げ出していた子が、1日も欠かさずに出勤できているなんて、夢のようです。神様が働いてくださっているとしか思えません。
この子を守れるのは私しかいない
以前の紀興は、人に触られるだけですぐにパニックになって、「ワーッ!」と叫びだすんです。それは、中学校3年生まで続きました。そんな子ですから、片時も目を離せません。障害をもつ子供を抱え、私は働くことはできませんでした。
そのうちに、夫も仕事の過労からうつになり、働けなくなってしまいました。それで経済的にも、とても苦しい状況に追い込まれてしまったんです。
忘れられないのは、紀興がまだ保育園にいるころのことです。2人のお友達が、「紀興くん、遊ぼう」と声をかけてくれました。すると紀興はその子たちに、いきなりバーッと、砂を投げつけてしまったんです。
それが、保護者の間で大問題になってしまいました。事情を知る先生がたは私たちをかばってくださったんですが、許してくれない人たちもいて、「ろくな躾(しつ)けができない、だめな母親だ!」と激しく言われたことがあります。
その時、私は自分を責めてしまって、「紀興がこんな状況なのは、私のせいだ。また主人まで体調を崩してしまった。全部私が悪いんだ」と思って、紀興を連れて高い所から飛び降りようとしたこともあります。でもその時、目の前に美しい夕陽がきれいに広がり、キラッと光が射すのを感じたんです。
その瞬間です。私の母や娘たち、これまで私たちのために祈りつづけてくださった幕屋の教友の顔が浮かんで、ハッと我に返って死ぬのを思いとどまりました。
それで紀興の顔を見たら、息子も私の雰囲気に何かを感じたんでしょうね、苦しそうな顔をしていたんです。その時、「ああ、この子に寄り添い守れるのは、私しかいないのだなあ」と思いました。
「きっと変わる時が来る」
紀興が思春期を迎え、反抗期になるとますます行動が激しくなります。言葉で思いを伝えることができないから、物を投げて気持ちを落ち着かせるんですね。暴れて、家にあったDVDデッキやCDラジカセは投げられて、何台も壊されてしまいました。
体も大きくなってくると、私では手に負えません。「神様!」と言いながら、暴れる紀興を必死で押さえる時もありました。
そんな中で、私の唯一の慰めは、幕屋の聖日集会で、教友と共に賛美歌をうたうことでした。主人も、大勢の人が集まる祈りの場には長い時間いることができない時もありましたが、キリストの生命を求めて這(は)うようにして集っていました。
ある時、信仰の先輩が、「紀興君もきっと変わる時が来る。絶望したらあかん」と言ってくださいました。でも私は内心、「そんなことがあるのだろうか?」と思っていました。それでも幕屋の皆さんは、「神様は状況を変えてくださる」と言って、信じて私たちのために祈りつづけてくださったんです。
その教友の祈りの中で、不思議なことに、高校生になってから紀興がぐんぐん変わりはじめたんですね。学校で先生が、「紀興君は、自分の言いたいことを言葉にして伝えられるようになってきました」と言ってくださいました。
そして高校の後、紀興は障害をもつ人が社会に適応できるように訓練をする学校に通っていたのですが、2年間学ぶところを3カ月早く卒業して、就職もできたんです。これには、ほんとうに驚きました。
紀興は神様の特愛の子
そのような導きに神様の御愛を感じながら、一昨年、阿蘇や熊本など、手島郁郎先生のゆかりの地を回る巡礼に参加しました。訪れた場所の一つに、ハンセン病の方々のための、恵楓園(けいふうえん)という施設がありました。
手島先生が伝道の初期に行かれた当時、そこには外部から隔離され、病気で手も足も失うなどして、つらい境遇で生きていた人々がおられました。
ところが、そのような人々が先生の伝道を通して聖霊を注がれ、キリストの御愛に触れると、例えようのない喜びに満たされたそうです。その方々の、世から捨てられたような状況にあっても希望に輝いて、喜び喜んでいた信仰。それがあって、先生によるその後の伝道の展開があり、今の私たちにも及んでいる。
そのお話を聞いている時、私の中で、ハンセン病の方々と紀興とが重なっていました。
その後、阿蘇を訪れ祈っていると、「そうだ。紀興は、神様の特愛の子だ。紀興は、わが家の祝福の基なんだ!」という思いがわいてきたんです。
そして、天から強烈な生命が覆うのを感じて、私は感動で喜びの涙が止まらなくなりました。
それまではどこかに、「どうして私は紀興を産まなければならなかったんだろう?」という思いがあったのですが、もううれしくてうれしくて。「これまで大変な子育てを経験させていただいて、ああ神様、もったいない人生です!」という思いが込み上げてきたのです。不思議でした。
一人のための卒業式
私が阿蘇から帰って2カ月後、紀興は今の仕事を始めました。訓練学校では、紀興一人のために卒業式を開いてくださいました。教室を折り紙などできれいに飾りつけて、紀興の門出を祝ってくださったんです。
紀興も最後に一言、「みなさん、またあいましょう。おげんきで。ボクもしごと、がんばります」と挨拶しました。
主人も、病気が完治したわけではないのですが、「キリストにすべてをゆだねて、もう一歩前進したい」と言って、新たな思いで生活を始めています。今は、新しい職場で祈りながら必死に働いています。
紀興は、言葉にして祈ることはできないのですが、「お父さんは、祈りながら必死で生きているんだよ。祈りが大切なんだよ」と言うと、「うん、うん」と力強く受け止めてくれます。父親のそんな姿を見ながら、息子も励みにしているのがわかります。
紀興は、働きはじめて少しでもお給料がもらえるようになったことが、とてもうれしいようです。
「これを貯めて、みんなが来れるような大きな洋風の家を建てて、そこにみんなで住もう!」という夢を語っています。
(大津市在住)
本記事は、月刊誌『生命の光』841号 “Light of Life” に掲載されています。