若いひとの声「救急救命士になったのは」

菊池望世(もうせ)26歳

私は、病院に勤務して3年目の救急救命士です。

ある日、40代の男性が自動車に轢(ひ)かれて運ばれてきました。意識は朦朧(もうろう)とし、骨盤が折れて、出血していました。処置の途中、心臓が止まり、私が心臓マッサージを始めると、ドクターが私の手のそばでメスを使い、胸にたまった空気を抜きます。

処置室には緊張感が漂い、プレッシャーと戦いながら、「神様、どうかこの人を助けてください!」と心臓を押しつづけました。そして2分後、心臓が再び動きはじめたんです。ほんとうにうれしかったですね。

響いてきた言葉

救急救命士を目指すきっかけは、11年前の東日本大震災の時に、被災地で活動された看護師の話を聞いたことです。

その方は、身に危険が及ぶことも覚悟して、自分の体に連絡先を書いて、被災者の救命処置に全力で当たっていたそうです。その話を聞いて、「私も多くの命を救う人になりたい」と思わされました。

そして高校を卒業後、救急救命士の国家試験に合格することを目指して、専門学校で学びました。成績はよかったですし、模擬試験を受けてもいつも合格ラインを超えていて、私には自信がありました。

国家試験の結果を待つ間、祈っているとある時、
「聖書の舞台・イスラエルに行くんだ」
と、自分の中に響くものがあったんです。全く予想もしていないことだったので、驚きました。

その後、試験の結果が返ってきたら、不合格だったんです。ほんとうにショックでした。しばらく落ち込んで、試験の夢を毎晩見るくらい、つらかったです。

神様が示してくださった

私は救急救命士になるべきなのか? もう一度自分をリセットする思いで、幕屋の友人たちとイスラエル留学へ旅立ちました。

留学中は一緒に行った友人たちと聖書の舞台を旅し、また聖書の言葉・ヘブライ語を勉強して現地の人たちとも親しくなって、聖地を体感することができました。

イスラエル留学当時の菊池さん。
半年間ヘブライ語学習のために滞在した町でお世話になった、ミハイルさん一家と共に。

でも、不合格のショックをひきずっていた私は心定まらず、生活に慣れてくるとどこか気が緩んで、語学の勉強にも身が入りませんでした。そんな私の姿がたまらなかったのでしょう。普段は温厚で物静かな友が、「それでいいのか!」と私に迫ってきたのです。年下からそう言われた私は、彼と激しい口論になりました。

それでも、その彼が私のために涙を流して祈ってくれた時、私は心が変えられ、もっと熱く生きる者にしてくださいと、その場で泣いて神様に祈りました。

それからしばらくたった時、病院で救急の講習があるから参加してみないかと、留学生の先輩が声をかけてくださいました。

イスラエルでは、ユダヤ人とパレスチナ人との間の民族的な対立があって、時にはもめごとが起こります。すると、兵士や争いに巻き込まれた一般市民が、病院に運び込まれます。そんな時、どんな患者さんでも、それがたとえ対立している相手だとしても、「命を救いたい」という一心で、医療スタッフが懸命に尽くしていることを知って、私は心を揺り動かされました。

そして、神様がこの講習を通して、救急救命士の道にもう一度挑戦するんだ! と示してくださったことに気づきました。私は日本に帰って、もう1年勉強し、国家試験に合格することができました。

私も真剣に祈る者に

私が勤めはじめて1年後、コロナ禍の影響で、病院は次第にひっぱくしてきました。ある時は、いくつもの病院で受け入れを断られ、何時間もたって私のいる病院に運ばれてきた患者さんがおられました。周りにいるスタッフも、終わりの見えない戦いで疲弊しています。忙しい日々を送ることは覚悟していましたが、こんな状況になるとは思いもしませんでした。

また、病院に運ばれてくる中には、私より年下で、自殺を図った人や薬物で体がボロボロになっている人もいます。同世代の人たちが希望を失い、心を痛めている現実に、私は何ともいえない気持ちになります。

あの時、友が私のために真剣に祈ってくれたように、私も運ばれてくる患者さんや、一緒に働くスタッフのために祈り、また精いっぱい尽くす者になりたいです。


菊池望世(もうせ)
大阪市在住
生まれ育った北海道から大阪にやって来た。関西の独特な雰囲気に圧倒されるも、大好きなビールで乾杯すれば、隣の席のおっちゃんも友達!


本記事は、月刊誌『生命の光』827号 “Light of Life” に掲載されています。