信仰講話「志あるところ道あり―繁栄と幸福への道すじ―」
新しい一年を、希望に満ち、充実して生きるために必要なことは何か。それは、一人ひとりが胸に「志」を抱くことではないでしょうか。この講話は、与えられた志に向かって、困難を乗り越えてきた人の証しと、手島郁郎自身の体験を通して、信仰で生きる心を語っています。ここに述べられた単純な真理を心に刻みつけて生きるならば、必ずや人生に勝利する道が開けることでしょう。(編集部)
多くの人は、「道(way ウェイ)があるならば、志(will ウィル)してみよう」、Where there is a way, there is a will.と考えます。しかし、あなたは逆にこう考えるのです、Where there is a will, there is a way.「志(will ウィル)あるところに、必ず道(way ウェイ)あり」と。心の中にこの真理を深く刻まなければなりません。
イエス・キリストは、「信ずる者には、すべてのことができる」(マルコ福音書9章23節)と言われます。「あなたの信ずるように、あなたに成れ!」とは、イエス・キリストの口ぐせの御言葉でした。神の愛と全能に信ずるならば、あなたがどんなに無力であっても、どんなに孤立無援であっても恐れることはない。キリストの霊は一切をなしうるからです。これが聖書の信条です。これは信仰の根本です。優れた信仰者に共通な人生哲学です。
山本慶治氏の信条
私の信仰の友・山本慶治先生は、世に知られた学術図書の出版社・培風館(ばいふうかん)の創立者です。生き馬の目を抜くように競争の激しい出版界において、しかも、戦前戦後の経済界の大変動の中で、良心的企業として見事に成功され、教育図書の押しも押されもせぬ第一流の大老舗として、確固たる地位を築き上げられました。
その秘密は何であろうか、かねがね知りたく思っていたのですが、先日ご著書を読んで、その謎が一瞬に解けた思いでありました。それは、何にも増して精神力の優位を知る人の言葉「志あるところ道あり」だったのです。山本先生の次の一文をお読みいただきたい。
創業して間もない頃、同学の先輩で、ある出版会社の取締役をしていた友人が訪ねてきて、「君が独力で出版を始めたと聞いて喜んでやって来たのだが、一体、資本は誰が出してくれたのか。出版の資本を得るのは、実際容易でないんだが」と言う。
「実際容易じゃない。だから僕は、誰からも資本を出してもらわないんだ。無手勝流でやるんだ」と僕は言った。
「君はいつもうまいことを言うが、無手勝流!? しかし、事業は金が無ければできないじゃないか」と彼は言った。「そのとおりだ。しかし、僕は資本といった金は、誰にも出してもらわないんだ。僕は働いて働いて、利潤を生み出し、それをためて次の資本にする。また、それを繰り返しては、雪ダルマのように大きくしてゆくのだ。本当の事業は、そうやらなければウソだと思う」と、僕は真面目に説明したのだった。「フーン! なるほど、それは理屈はよい。しかし、そんなことが実際できるかネェ!」と、彼は半ば嘲るように、半ば感心したような調子で言ったのであった。
実際、私の同学の先輩に、当時3人の出版人があった。いずれもできる男ではあったが、「事業は、まず金が積まれて、それから始まるものだ」との考えしか、彼らはもっていなかった。彼らの関係していた会社は、いずれも目に立たなくなった。(中略)
資本金は無くとも「よしッ、やろう!」、国民思想の改造を使命と考えて、奈良女高師の職も弊履(へいり)のごとく捨てたのだ。今こそ不羈独立(ふきどくりつ)で、出版によってこの理想を現成(げんじょう)し、素志を貫徹(かんてつ)する機会を与えられたのではないか。「よしッ、やろう!」、ナニ、金は道具だ、人によって作られるのだ。ただ必須なものは決意だ、意志の力だ! “Where there is a will, there is a way.”だ!
(山本慶治著『感謝と思い出』より)
「志が存するところに、必ず道が存在する」。これ、山本慶治社長の人生哲学、というよりも人生信条です。この金言こそ、先生の事業成功の秘密です。山本先生のみでない。万人がこの金言を自分のものにすれば、山本先生のように繁栄と成功を勝ち得るでしょう。
「愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるように」(ヨハネの第三の手紙1章2節)と私は祈るものです。
エルサレムを夢みて
昨夜、親類の者が来て話すのに、「今から15年計画で、コツコツ金を貯めて、晩年になったら、いずれハワイあたりまで観光に行こうかと思う」と言うので、「金ができたら、と言わんでも、君、行こうと思えば行けるよ」と私が言いますと、「イヤー、とても私のような安月給では、少しずつ貯めてゆく以外に、行けませんよ」
「君に、行きたいという心があったら行ける。心があれば、必ず道は開けるものだ」
「イヤー、心はもっています。しかし、そうはいかぬ」と、手を振って受け入れない。
「あなたは『そうはいかぬ』という消極的な心しかもっていないから、実現しないんだ。積極的に前進の気構えで志し、祈る心をもてばできるよ。ボクも金はないが、今秋できれば、エルサレムの巡礼に行ってみたいと思う。心あれば、道が開ける! 今は一文ももたぬが、幼少の時から抱いた夢を、今秋実現させるのだ。ボクは物質につながれて、『お金があったら行こう、なければ行けぬ』とは思わない。物質的条件を超えて行こうと思う。乞食してでもカナンの地に踏み入り、シオンの山を見たいと思う。一人の知人がなくとも、一文の旅銀はなくとも、ボクは行く。道を備えたもうは神である」と申したことです。
行けぬと思ったら、行けぬ。行けると思ったら、行ける。この一点で、人間の運命が決まります。運命が人間の精神を縛るのか? 人間の精神が運命をひらくのか?
多くの人は、環境が整い運命が転換すれば、志を立ててみよう、「道があれば、行ってみよう」と考えます。しかし、精神力の優位を知る人は、「志あれば、必ず道は開ける」と信じて、動きがつかぬような条件下にも、物質を左右し、困難な環境を克服して初志を貫徹し、人間の霊の偉大さを発揮するものです。
人間は精神的存在であるといいながら、もし精神の力を尊ばずして環境の奴隷となるならば、あなたは人間ではなくして、人形です。人形には意志がない。人形は、他人にあやつられてしか動きません。あなたは果たして人間か、人形か。もし人間であるならば、人の子らしく「信ずるごとくに成る」との信条に生きなければなりません!
【注】この講義がなされた当時(1961年)は外貨事情が悪く、一般観光客としての海外旅行は難しかった。しかし困難を超えて同年秋、巡礼が実現し、手島はイスラエルへ旅立った。
神は愛である
しかし、ある人は言うでしょう、「精神力の偉大な人は祈願したとおりに成功もし、欲するごとくに勝利もしようが、私のようなみじめな弱い人間は欲したって……」と。
こんな疑問を抱く人は、気の毒だが、神を、大宇宙を支配する神の存在を知らないのです。あるいは、たとえ神を知っていたとしても、その神のご性格を誤解しているのです。
私はある時から、「自分の思いをはるかに超えて、神が愛であり、また、深い注意をもって私を見つめていてくださる」ということを知るようになりました。ですから、私の心中に、もし一つの善き意欲が起きさえするならば、たとえ八方ふさがりのような状況下であっても、神は私のために道を開き、私の希望を実現させ、私を繁栄と幸福に、生きる希望に満ちた生活に入れようとして、いつも手を貸そう、貸そうとしておられることを知るものです。
私たち人間は、この愛の宇宙、善意のみなぎる世界に生き、呼吸し、動き、存在しているのだと知った時から、私の宇宙観、人生観はガラッと変わりました。
時に思うことがあるでしょう、「この複雑な宇宙、厖大(ぼうだい)な宇宙の中で、自分のような小さな者の祈りが聴かれるだろうか?」と。しかし、最も卑しめられた啼(な)く小がらすをも、養いたもうのが神ではないか! 捨てて顧みられないような者をも、顧みたもう大きな愛の天地として、この宇宙というメカニズムができ上がっているのです。
神様の関心は、大きな事件の処理だけにあって、もう私などの小さな問題などは……と思うなかれ! 神の愛の法則は、見る影もないような、いと小さき者にも同様に及ぶのです。仮にノミ1匹とまっても、「かゆい!」と全身で感じて、ハッと手を伸ばして捕らえるように、私のような目にもとめられぬ小さな細胞の出来事を、神は大宇宙の御手の力を動員してでも助け、保護される。「私は、神の一部分である」と自覚してからは、何事にも、神に助けられて、神と一体で生きることを、私は信ずるようになりました。
必死に願う
聖書の中にこのような記事があります。ある時、主イエスが道を歩いておられると、大声で異邦人の女が叫びました。「主よ、ダビデの子よ、私をあわれんでください! どうか、私の娘を助けてください! どうか」と言うが、キリストは知らん顔をして歩いてゆかれる。だが、なおも叫びつづけるので、弟子たちが「先生、何とかしてください、やかましくてしょうがありません」と訴えました。するとイエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には遣わされていない。おまえのような異邦の、他宗教の者、犬にまでかまっておれぬ!」と言って、その女を突っぱねられた。
キリストから見捨てられるようなら、誰が祈願しましょう! けれども、彼女は追いすがるようにして、「主よ、私をお助けください」と必死で泣き叫んだではありませんか。心欲するところに、道あり!
イエスはこの女に、なおも厳しく、「犬にパンを与えるわけにはいかぬ」と言って拒絶された。たいがいで諦めて帰りそうなものだと思いますが、彼女はなおもすがりついて、地に伏して「ぜひとも助けてください! 私は、神のパンを頂くにはふさわしくない犬です。そのとおり、卑しい女です。けれども、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずを頂くではありませんか。どうか、せめてパンくずでもいいですから、下さい」と、足げにされても、なお必死ですがりました時に、イエスは驚嘆しながら、「女よ、なんじの信仰は大いなるかな。願いのとおりに成れ」と言われました。そして、家にいる娘の病を一言で癒やしたもうたのです。必死に祈願するところに、救いの道あり!
彼女は、精神力が偉大な女性と称せられるほどの人物ではない。見る影もない、みじめな女であった。しかし、このように必死に願い求める信仰心のあるところ、それにこたえる道が大宇宙には用意されている、という神秘を説明しているのが、この福音書の記事ではありませんか。祈願あるところに、必ず道あり!
キリストは救い主です。精神的にも、肉体的にも、がんじがらめに縛られているところから解放せしめ、脱出せしめる力として、現に働きたもう者がキリストです。キリストに触れ、あなたの心がひっくり返れば、あなたの運命も、境遇も変わります。
どんなに行き詰まった牢獄のような状態にも、神の愛と善意にすがって、「神様! 私はこうしたいのです」と、最善の状態を心に描いて祈らねばなりません。
「意志するところに、道は存在する」、何ゆえか? 神が、人間の善き意志にはこたえ、助けようとして、道を開きたもうからであります。「神を信ぜよ!」、神の愛と力を仰いで事を行なうときに、どんなことでも成るものであります。
(『生命の光』132号・1961年8月号より抜粋・編集)
本記事は、月刊誌『生命の光』2020年1月号 “Light of Life” に掲載されています。