聖書講話「世の声に抗して」ヨハネ福音書15章18~27節
現代は個性を尊重する社会であるといわれます。しかし多くの人が、独自の道を行くことよりも、周囲にどう見られるかに腐心し、世間の風潮に流されていないでしょうか。真の信仰をもつ者は、たとえ周囲から迫害を受けても、神から示された道を進んでゆきます。
ヨハネ福音書でイエス・キリストが語られた「最後の遺訓」から、そのような信仰を学びます。(編集部)
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである」
ヨハネ福音書15章18~19節
ここで、「この世から出たもの」とありますが、この「~から」というのは、ギリシア語で「εκ エク」といいまして、根源を表す言葉です。たとえば、「大阪の淀川(よどがわ)は琵琶湖から流れてくる」というように源を表します。その源がどこから発するかによって、所属が決まります。ですから、「あなたがたはこの世に属する者ではない」というわけです。
この後、イエス・キリストは20~25節で「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て憎んだのである。それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである」と言われ、幾度も「憎む」という言葉が出てきます。
これは私たちがよく経験することです。私たちが原始福音の信仰をもつようになって、生けるキリストがありありとわかるし、喜ばしい生涯が始まった。けれども、この世の中や既成の教会の中には、それを嫌う人たちがいます。私たちは、なにも人を害するわけではないのだからいいじゃないかと思うけれども、放っておけないのです。そして、理由なしに私たちをいじめます。どうして、こういうことが起きるのでしょうか。
優れた人物が出る時に
聖書には、同じような出来事が数多く書いてあります。宗教にはどうして迫害が付きものなのでしょうか。一つには、宗教自体が悪い場合があります。けれども、よい場合でも迫害があります。理由なしに周囲が憎んできます。
旧約聖書の最初にある創世記には、「カインとアベルの物語」があります。カインは神への供え物のことで、自分よりも弟のアベルが神に喜ばれたのを知った時に、アベルに「さあ、野原へ行こう」と言って彼を野原に誘い出し、そこで殺してしまった。理由なしに殺した。神様から「カインよ、カインよ、おまえの弟アベルの血の声が土の中からわたしに叫んでいるぞ」と言われてカインは驚きますが、どうしてこのような、殺したいほど憎むという気持ちが人間にわいてくるのでしょうか。
世に優れた人物が出ようとする時に、必ずこういうことがあります。イエス・キリストのご誕生の時もそうでした。イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。それを聞いたヘロデ王は、生まれて間もないイエスを殺そうとして、軍隊の力を用い、その地方の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。神の保護があって、危ういところでイエスは逃れることができました。今もベツレヘムに近い小高い山のそばには、その時に殺された子供たちが葬られたという塚があり、近くのアラブ人の村人たちは理由なく殺された嬰児(えいじ)たちのために、今に至るまで記念の祈りをささげております。
これはイエスだけでありません。エジプトからイスラエルの民を導き出したモーセもそうでした。彼が生まれた時、エジプトの王パロは人々に、「へブル人に男の子が生まれたら皆、ナイル川に投げ込め」と命じました。しかし、母親がパピルスの籠(かご)に入れて川岸の葦(あし)の間に置いたのを、パロの王女に拾われ、養い育てられたのがモーセでした。
キリストに対立するもの
このように人間の血の中には、「故(ゆえ)なく人を憎む、嫌がる」という恐ろしい性質があります。よき者が出ると、本能的に、それがたとえ小さな赤ん坊であっても亡き者にしようとする力が働く。
イエス・キリストは、だれもしなかったような神の御業を行なって奇跡的な救いを人々に与えたのだから、人々は歓迎すべきです。しかし、みんながキリストを憎みます。彼らは神の御業を見ながらも信じることができず、キリストを十字架にかけて殺してしまいました。なぜ、よき者が現れようとする時に殺されてしまうのか。
キリストは「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」(18節)と言われます。これは、重大な真理であるからです。この世とキリストは対立的なものであるということが、これを読むとよくわかります。また20節には、「もし彼ら(迫害する人たち)がわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう」と言われています。
「わたしの言葉」とここにあります。このキリストの語りかける言葉、これを受け入れる者と受け入れない者との間に大きな争いが生まれ、憎しみまで伴ってくるのです。
ただ道徳を説く人は、「キリストが『世の中に憎しみがあり、おまえたちも憎まれるだろう』などと言うのは不穏当じゃないか。『人々からほめられる人間になれ』というならわかるけれども」と思うでしょう。
しかし、イエス・キリストは「この世はおまえたちをきっと憎むぞ」と言われる。憎まれてこそ、ほんとうにキリストの弟子です。憎まれないならば、おかしいのです。
世の風潮に流されるな
現代は民主主義の時代です。人々は皆、平等で同じ権利をもっているといいます。たしかにそのとおりです。だが一方、民主主義の社会では、多数決によって物事が決められる場合が多く、多数意見である輿論(よろん)によって政治も社会の営みも行なわれます。古代社会においても一部はそうでしたが、特に現代の民主主義の社会においてはこの世の考えというものが非常に強いです。
そうなると、輿論に従うのが民主主義であると考えられてゆき、この世の一般的風潮が私たちを支配するようになります。それに従う者が善良な市民であるし、善良な人間であると思われる。また、皆と同じ答えをする者が尊ばれ、時にそれに対して「おかしい、間違っている」と言う人がいても、のけ者にされます。
私は若いころ、クリスチャンであることが非常につらかったです。聖書に書かれているように生きたいけれども、学校では聖書的考えなどは受け入れられません。神を知り、神に導かれる生涯を歩もうとしますが、この世は神を認めません。それで、じっと我慢して自分を抑えなければいけない。そこに非常な苦しみがありました。自分では神に喜ばれたいという願いがある。また、キリストの内なる声が聞こえてくる。
キリストは「わたしの言葉があなたがたに留(とど)まるならば、あなたがたはわたしの弟子である」と言われますが、本当のクリスチャンであるならば、大宇宙を司(つかさど)りつつありたもう神の声が、今も内側に響いてくるものです。
中世期の神秘的神学者であるエックハルトという人がおります。彼は、「神は善ではない」と言いました。これは逆説的な言い方でして、神は人間の頭で考えるよりずっと偉大であって、神の善はこの世で考えられているような善ではない、人間が最善だと思っていることをはるかに超えている、ということです。
神様がそのような最善に導かれようとして、「かくあれよ」と言われる声に従ってやろうとすると、私たちは大きな抵抗にぶつかります。それを最も生々しく体験しておられたのがイエス・キリストです。この「最後の遺訓」を語られた次の日には、十字架にかからねばならない。よいことをしながら、この世の輿論がそれを許さなかったからです。
この世に送られてきた意味
人間は銘々に生まれてきた理由、存在理由があるのであって、一人ひとりに神様から与えられた使命があります。ですから、一人ひとり自分の存在を個性的に発達させ、進歩向上して、自分を実現してゆくことが大切です。しかしそれをしようとすると、社会に反発し、背くことがあります。それで、逆に社会に従おうとすると、どうしても神に導かれてゆくことが全うできません。
私は戦後の教育に非常な疑問をもっています。人間はどうせだれでも同じだ、だから同じようにあるべきだ、というのが現代の考え方です。ですから、大多数が考える考え方と違う歩みをしようとすると、「あいつは生意気だ。あいつは不遜(ふそん)なやつだ」と言って、頭ごなしに抑えられます。それが宗教ならば、「あれは異端だ」と言って、大多数と同様の生き方をするのが正統主義とされる。このように、神にあって生き、キリストの語りかけたもう内なる声に従おうとするときに、この世と衝突が起きます。
人間は銘々、違ってもいいんです。そうでないならば、機械みたいに同じものばかりになってしまいます。では、本来の自分を完成するとはどういうことか。普通の人はこの世だけを見て、「皆がああするから、私もそうする」と言う。しかし、ほんとうに自分はどうあるべきか、自分の内側を見つめ、内側から聞こえてくる声に耳を傾けて生きようとしない間は、真にあるべき自分の姿を実現するということがありません。
神が地上に自分を送ってくださったからには、自分を通してでなければできないことがある、そのためにはこうあるべきだ、ということを知って自分を生かすときに、人間は幸福です。喜びがあります。どんな困難が伴っても幸せです。もし、自分を殺して生きることが宗教であるというならば、それは違う。この世は、皆をこの世と同様の考えにしてしまおうとします。そのときに独創的な考えというものは出てきません。
そのようなこの世から抜け出るということは、たいへん難しい。けれども、この世から抜け出るような人間でなければ、自分を全うすることはありません。自分の属している社会、団体、学校、会社といったこの世の人たちの考えに対して、時に「ノー」と言うことができる力は、キリストから来るのです。
今の人々は、多数意見によって進もうとする。そして「千万人といえども吾往(われゆ)かん」と言って、全部を敵にしてでも戦う、ということをしなくなります。
私たちにキリストが最もよくわかるのは、迫害される時です。内なる声を聴いて生きる、などという者がいると、この世とは全く異質なものですから、これを滅ぼそうとして迫害してくるわけです。
私たちがこの世の言うままにしておれば、迫害されることはありません。ところが、この世的な常識や知識に対して、「私はこう思う」「私はこんなことを発見した」「私はこう信じる」と言いはじめると、皆が「おまえは傲慢だ」「おまえはけしからん」と言って圧迫してくる。そのような圧迫をも跳ね返すことを信仰というのです。
真理の御霊、聖霊が降(くだ)る時に
「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである」
ヨハネ福音書15章26~27節
おまえたちを世が憎むぞ、というお話の後で、キリストはこう言って弟子たちをお励ましです。キリストはこの世の考え方や常識、この世の宗教の考えに従っては生きていませんでした。いつもご自分の内に響いてくる神の声に従って生きておられたのです。それで、「これからおまえたちは迫害されるような時があるだろう。そのような時に助け主がやって来て、何が本当であるかを告げる。それは真理(真実)の御霊である」と言われます。
すなわち、「地上にあってわたしがおまえたちを助け導いたように、今度は聖霊が助け主となっておまえたちを導くだろう。それが父のみもとから来る真の御霊であって、その聖霊がわたしを証しするであろう」というのです。
そのお言葉のとおり、ペンテコステ(※注)の日に弟子たちに聖霊が臨んだ時、彼らは御霊の語らせるまま大胆にキリストを証ししました。
ここで私たちは、大切なことを学ばなければなりません。キリストが、「わたしの言葉があなたがたに留(とど)まっているならば、わが言葉に従うならば」と言われるように、私たちの内側に囁(ささや)きかけてくる真理の御霊に聴き従い、天上から助け主として働きかけてくる真理の御霊と共に歩こうとすると、どうしてもこの世的な考え、この世的な宗教と衝突が起きます。しかし、そのような時にこそ、真理の御霊が助け主として、いかに不思議な方法をもって助けてくださるかを体験することができます。
これは実験的な真理でして、経験した者だけが「ほんとうにそうだ、奇跡的な救いだった」と言うことができるのです。
この世でいい子になろうと思ったら、自分を全うすることはできません。私たちは、この世の考えやしきたりに従うよりも、神の御声に従うべきです。
神が私たちを地上に遣わしたもうた理由は、一人ひとり違うでしょう。そして聖霊は、私たちの内側に「おまえを救ったのはこのことのためだ」と囁きかけてきます。その声を聴きつつ、自分の存在の意味を知って自分を生かすときに、ほんとうに満足感があります。
多くの人はこの世にしがみついて、この世から脱することができません。自分はこうありたいと思っても、この世の抵抗を恐れて「しかたがない」とあきらめます。
しかし、私たちはそうであってはならない。私たちの内側に囁きかけるキリストの御声に聴き従って生きることが大切です。そのように迫害を恐れずに生きようとする信仰をもつときにこそ、真理の御霊が啓示され、不思議な方法で助け主として助けてくださいます。しかしそうでない人は、助け主の不思議さを経験することができません。
内なるキリストの声に聴いて
どうしてこんなに、自分は故なく憎まれるのだろうかと思うけれども、自分の魂が神に向かって目覚めた者は皆、迫害を受けるということです。この世の力は、生まれたばかりのイエスやモーセを殺そうとする力にもなります。こういう不可解な力が圧迫してくる。
これは宗教的にいうならば、キリストと非キリストの問題、善と悪との問題です。この世の人たちの考える善に対して、もっとよき善があっても、この世の人にはそれが悪に見える。そして迫害する。多数意見に従わないと、「あいつはよくない、異端だ」と言って、皆が故なく迫害する。こういう魔力的なものがどうして働くかというと、それはこの世がキリストとその民とに敵対しているからです。
真のクリスチャンは、自分の内側にある魂の至聖所に聞こえてくるキリストの御声に従います。それを第一にして生きるときに、いちばん幸福です。そして、それが自分の生まれた理由を全うさせてくれる道であります。
現状に甘んじ、多数の人の言いなりになっておれば無難です。しかし、それでは自分がたまらない。大事なことは、キリストの御言葉に従って生きることです。そしてそれに従ってゆくと、必ず摩擦があります。しかしなお、それを超えて「主よ、あなたのお導きに従います。導いてください、行かせてください」といって生きはじめますと、キリストは助け主として、奇跡を行なってでも不思議に導きたもうものです。
(※注)ペンテコステ
キリストが十字架にかかられて復活してから50日後に、祈っていた弟子たちに聖霊が注がれた、その日を指す。「聖霊降臨節」ともいう。
(1965年)
本記事は、月刊誌『生命の光』820号 “Light of Life” に掲載されています。