聖書講話「救いは一瞬のうちに」ヨハネ福音書16章16~22節
だれでも、今よりもっとよい自分になろうと思ったら、日々努力を重ね、だんだんと変わってゆくことが大事です。でも、聖書の信仰においては、飛躍的に、瞬間的に変わる、昨夜と今朝とでは全く別の輝く人格に変わるという現実があります。
一瞬にして変わる世界。世を去ってゆかれる前夜に、イエス・キリストはそのことを愛弟子(まなでし)たちに語っています。(編集部)
今日は、イエス・キリストが十字架におかかりになる前夜に語られた「最後の遺訓」を、ヨハネ福音書16章16節から学んでまいります。
「しばらくすれば(ミクロン)、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば(ミクロン)、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」
ヨハネ福音書16章16~18節
16節に、「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会える(見る)であろう」とあります。この「しばらく」という言葉は、「μικρον ミクロン」というギリシア語で、英語でいえば「micro マイクロ」です。
このミクロンは、時間的にいうならば「短い時間」です。量的にいうならば「ちょっと、少し」です。ここで弟子たちは、イエス様の語られることも、またミクロンという言葉の意味もわからない、といって議論になりました。
私たちもこの箇所を読んで、こんなことが宗教の問題だろうか、と思うでしょう。しかしこの後、イエス・キリストが語られているように、ここに宗教の問題があり、それをほんとうにわかることがキリストの宗教なのです。
苦しみが喜びに変わる
イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互いに論じ合っているのか。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」
ヨハネ福音書16章19~22節
弟子たちが、「『ミクロン、ちょっとの間』と言われるのはどういうことか、その言葉の意味がわからない」と言うので、キリストはお産の時のことを例にして語っておられます。
女の人がお産する前になると、不安になり、陣痛が始まると「ああー」と言って痛み苦しみます。しかし、子供が生まれた途端に喜びに変わる。それは、だんだん苦しみや不安が消えて喜びに変わる、ということではないですね。途端に切り替わるものです。イエス様は、そんなお産のようすを見ておられたのでしょう。
私もお産を何度か見たことがありますが、お産する時には、陣痛が来るたびに産婦は大声を上げて苦しみますね。なかなか生まれそうにないときは、傍らの人が、「ガンバレ、ガンバレ」と言って励まします。けれども、産婦が力んで頑張っても生まれません。それが、陣痛がいよいよ強くなり、その間隔が狭まったある瞬間、ダーッと羊水に押し流されるようにして、赤ん坊が生まれてきます。エライものだと感心します。
産婦はお産の時には不安と陣痛で大声を上げて苦しみますけれども、子供が生まれた瞬間に、苦しみは大きな喜びに変わる。これはお産を経験した者でないとわからないといわれますが、そうだろうと思います。あんなにつらそうにしていたのに、赤ん坊が生まれた瞬間に、母親はいかにもうれしそうに、赤ん坊を見てニコニコしています。
22節に「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」とあるように、母となって赤ん坊を見る喜びというものは、何人(なんぴと)も奪うことができません。ほんとうに女の人は、お産をする前と後とでは、全く変わりますね。
ミクロの世界とマクロの世界
この「ミクロン」という言葉は、「微小」「極微」などと訳されております。戦後、物理学では「原子物理学」といって、物質を構成している究極の物質を求めて、原子核や電子、原子核を構成している陽子、中性子といった微粒子の研究が大いに進みました。そして、そのような微粒子の世界を「ミクロの世界」といっております。
戦時中、広島や長崎に原子爆弾が落とされたりして、原子力という真にミクロ(微小)なものが、驚くべき力をもっているということがわかって、日本人も「ミクロの世界」に関心をもつようになりました。
このような「ミクロの世界」に対し、私たちの目にする大きな世界を「マクロの世界」といいます。17世紀にニュートンは、リンゴが地上に落ちるのを見て、物質の相互間に働く万有引力というものを考えました。この万有引力が近代物理学の基礎になりました。
ところが、ミクロの世界の研究が進むにつれて、万有引力だけではどうしても説明がつかない事象が次々に出てまいりました。それで、大きな(マクロ)世界での法則は、小さい極小(ミクロ)の世界では必ずしも通用しないことがわかりました。それによって、人々の物の考え方もだんだん変わってまいりました。
「自然は飛躍せず」という言葉がありますが、自然科学では昔、すべては連続して変化する、と考えられておりました。けれども、物理学の発達に伴い、すべては連続的に変化するとは必ずしもいえないことがわかってきました。ミクロの世界では、連続的にではなく、飛躍的に全く変わってしまうということが起きているからです。(量子論(注1)など)
こんなことは、私が若いころに物理学を習った時代には考えられないことでした。私たちは、自然はすべて順を追って変化するものだと教えられました。それは、赤ちゃんが大きくなって青年となり、壮年となり、やがて老人になるというように、だんだんに変わってゆく、ということでした。ところが、最近の原子物理学が教えることは、ミクロの世界では瞬間的にでも変わりうる、ということです。
それを何かに例えると、通信に利用されている電波には、長波、中波、短波、超短波などがあります。ラジオ放送でAM放送(中波)からFM放送(超短波)にする場合、素人考えでは、周波数をだんだん変えていって波長を合わせるように思います。けれどもラジオを聴く時は、スイッチ一つでいっぺんに切り替えることができます。
これは例えですけれども、マクロの世界では変化は連続的ですが、ミクロの世界では突然の変化がどんどん起きています。
(注1)量子論
量子力学、およびそれを基礎として展開される理論の総称で、不連続な性質を示す粒子のふるまいなどを扱う学問である。
瞬間的に変わる信仰
このことは、宗教についても大きな問題を提供していると私は思います。今までの宗教的な考え方は、修養努力して、徐々に変わり、そしてついにある境地に達するだろう、ということです。
ところが原子物理学でも明らかにされているように、瞬間的に変わる世界があるということになると、私たちの考え方も変えなければなりません。皆さんも、徐々にではなくて、瞬間的に、パッと変わりたいと思いませんか。
そういう考えをもつかもたないかでは、信仰に大きな違いが出てきます。もたない人は、「そんな瞬間的に変わるコンバージョン(回心)など、ありえない。信仰はだんだん立派になるのだから、努力が必要です」と言います。もちろん努力も必要です。けれども、神に出会うことを通し、突然変化する、というのも事実なのです。
私たちの信仰についても、同様のことがありえます。今は真っ暗で、イエス様を見ることができない。しかし、スイッチを切り替えるように、瞬間にしてパッと目が開いて、「おお、わが主、わが神」というような霊的開眼の経験があるのです。
イエス・キリストが死から蘇られたと聞いても、弟子のトマスはそれを疑い、
「キリストが生きているならば、私はその手に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、私の手を脇(わき)に差し入れてみなければ、決して信じない」と言いました。そのトマスもイエス・キリストが目の前に来たりたもうた時、パッと目が開けまして、
「わが主よ、わが神よ!」と言いました。(ヨハネ福音書20章)
私たちがこのことを信じるならば、「神様、だんだんとしか変わってゆけないなら、私は根気がないし、力もありません。けれども、一瞬にして変わることができるなら、私は脱皮したい」と願うことができます。
信仰の2つのタイプ
一般的には、修養努力してだんだん平安と喜びを身につけたい、というタイプの信者が多いときに、イエス・キリストが示されるタイプの信仰は、突然の変化、ミクロの世界で起こるような変化を伴うことがわかります。すなわち、スイッチを入れるとガッと一瞬に変化する。信仰とはそのような世界だ、というのです。
このような例えでおわかりのように、キリストが説いておられる信仰は、だんだん利口になるとか、だんだんわかるというような世界ではない。いっぺんに開けてわかる世界であります。さっきまで、あんなに苦しんで悲しそうにしていた人が、こんなに喜ぶなんて、とみんなが驚くようなことが起きる世界なのです。
ですから、一般の人が考えている宗教経験とキリストが知っておられた宗教経験とは、違うことがおわかりになると思います。
「原始福音のように、回心が起きたり、突然変わったりするのは嘘だ、そんなことはない」と言う人がおりますが、それはマクロの世界の信仰をしているからです。
原子物理学の時代になった今、私たちの頭も切り替えなければなりません。ミクロの世界では、突然の変化がどんどん起きるのです。そして起きてよいのです。スイッチ一つで変わるのです。これは、私たちにとって大きな福音であります。
そうすると、私たちも信仰の求め方を変えなければなりません。昨日まではひどい病気で苦しみ、医者から「もう助かる見込みがない」と言われていた者も、神様がスイッチをひねられたら、即座にいやされる世界があるからです。そこに私たちの希望があります。
ここでキリストが言っておられるのは、悲しみが喜びに変わるような、質的にガラッと変わってしまう変化のことです。私のような、もともと質がだめな者は、いくら努力してもだめです。けれども、ある時から私は、瞬時にして質的転換が起きるということがわかるようになって、希望をもつようになりました。自分は今はつまらない、けれども次の瞬間は、素晴らしく変われると思うからです。
沖縄での祈り会で
私は先日、沖縄を訪れて集会を行ないました。
最初は皆さん、初めて霊的な集会に集うので、なかなか心を合わせて祈るということができません。しかし皆が一つになって、聖霊に浸されることを求めて祈りだしましたら、20分ほどの間で、集まってこられた120~130人の方々が聖霊に満たされ、こうも変わるかと思うほど、皆さんの喜びようといったらありませんでした。
それにしましても、沖縄で伝道している石川義信君は、まだ26、27歳の青年なのに、1年の間に、よくもこれだけの集会を打ち立てたものだと驚きました。集っておられる人には、年配の方や社会的にも立派な人たちがおられます。そんな方々から、石川君は尊敬を受けています。それを見て、宗教の世界では年齢は問題でない、実力というか、質的な問題だとつくづく思いました。
この集会を通して、私は伝道ということがわかったような気がしました。ただ天の生命が沸きたちさえするならば、どんなに憂え、悲しみ、苦しんでいる人も、一瞬にして変わるのです。この天の生命、キリストが十字架の上に流された御血汐(おんちしお)、聖霊こそ、人々の信仰を高め、清め、喜びと力に満たすものであるということです。
今、沖縄はアメリカの占領下(注2)で、よい土地はほとんど基地として収用されて苦しんでいます。けれども、このような天の喜びが地上にわき上がるならば素晴らしいことが起きるといって、皆さんがお喜びです。私は何も労しないのに、足の悪い人たちも喜んで立ち上がった。ひどい病の人もいっぺんでいやされた。これはほんとうに珍しい見ものでした。
(注2)米軍による沖縄占領
第2次世界大戦後、米軍に占領された沖縄は米軍の施政下に入り、交通規則や通貨なども日本本土とは異なっていた。また、本土への渡航には、パスポートが必要であった。その後、沖縄の人々の願いが実り、1972年、日本本土に復帰した。
一夜にして喜びに満たされる
このように、一夜にして変わって力強い喜びに満たされた人たちの姿を見ると、ミクロの世界の信仰とはこういうものだと思いました。
キリストが出産に例えて、ひどい嘆きと苦しみが、一瞬にして大きな喜びに変わるようなことが信仰だ、と言われるときに、私たちも「神様、聖霊が、あなたの十字架の御血汐が一滴でも注がれ、脈々と滾りだして足なえの人も立ち上がったというなら、私にも救いがあります。どうぞ御血汐を注いでください」という祈りがわき上がります。
自分が何とかできると思っている人は、突然に変わることを求めません。けれども、現在の自分に希望がない人は、劇的変化を求めます。そのような人の信仰は、激烈にならざるをえません。私にとっては、このイエス様の言葉は真に福音であります。
そのような、突如として変わる経験を多くいたしますと、その人の生涯は、普通の人がだらだらと過ごす1カ月くらいの内容を、わずか1週間のうちに経験するほど内容が豊富になります。
私たちはこのように、瞬間、瞬間、舞台が変わるような生活をしなければなりません。「神様、今日も奇跡的なことを見させてください。私はいつでもジャンプする用意ができております」と言う人なら、神の舞台が変われば、それにサッと飛び乗ることができます。そして、「ああ、こんな劇的なことが起こった」と言って、不思議な導きに驚きます。
電光石火の変化を
キリストは、ミクロという問題をこのように面白く説いておられます。これを、ただ時間的なミクロとだけ考えると、奇跡は理解できない。質的変化を遂げることを奇跡というのです。キリストの十字架は、その質的変化を来たらせるものです。それでキリストは、「今、おまえたちは嘆き悲しみ、世は喜んでいる。けれども、今度はそれが逆転する。おまえたちが、キリストは十字架上に死んだ、もう信仰も捨てたというような時にも、わたしが突然現れたなら、おまえたちはどんなに喜ぶだろう」と言おうとされるのです。
今の時代はどんどん変わってゆきます。古い習慣や考え方をそのまま踏襲していたら、後れてしまいます。世の中が目まぐるしく動いている時に、宗教だけが旧態依然として古い儀式を守っている。それが宗教だと思うなら、とんでもない間違いです。
「電光石火」という言葉がありますが、そのごとくに一瞬にして悟ることができる世界があるのです。昨日まで青虫みたいであったものが、今日はアゲハチョウとなることができる。これが宗教的経験です。神様は私たちの運命を、最善に変えようとしておられます。私たちも自分を変えようと思うならば、変わります。
(1965年)
本記事は、月刊誌『生命の光』823号 “Light of Life” に掲載されています。