聖書講話「時空を超えて働く神の力」ヨハネ福音書17章1~5節
前回までヨハネ福音書の、イエス・キリストの「最後の遺訓」を連載してきました。今回から、17章の「キリストの最後の祈り」に入ります。
講話の中で、神の力、天の権威について話されていますが、手島郁郎の集会では毎回、聖書さながらに、聖霊がくだり、病がいやされ、回心する人が続出していました。そのように神の力が働いた状況が、この講話の背景にあります。(編集部)
今日から読むヨハネ福音書17章は、イエス・キリストの祈りです。マタイ福音書の「山上の垂訓」の中には、「主の祈り」があります。これはキリストの代表的な祈りといわれますが、17章の祈りはそれよりももっと長く、将来のこと、弟子たちのこと、ご自分の直面する問題について、切々たる気持ちで祈っておられます。
神の栄光を現す時
これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、(あなたの)子の栄光をあらわして下さい。あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」
ヨハネ福音書17章1~2節
「イエスは天を見あげて言われた」とありますが、原文では「イエスは天に向かって目を上げて言われた」となっています。ここでは、イエス・キリストが天上におられる神様に物を申し上げたい、というお気持ちで祈りだされています。
そして、目を上げて、まず「お父様! 時が来ました」と叫んでおられる。ご自分の最後の時、いよいよ十字架にかかって天に帰る時が来たことを言われるのです。
「あなたの子があなたの栄光を現すように、(あなたの)子の栄光を現してください」とありますが、この「栄光」という言葉は、日本人にはわかりにくいキリスト教の用語です。
多くの人は聖書本来の意味を取り違えて、「栄光」とは何かこの世の誉れを受けることのように思っていますが、そうではない。神が生き生きと働きたもう状況を「栄光」というのです。神様が生きていませばこそ、目に見ゆるように奇跡が起こり、人々が救われるという、しるけき状況が出現してくる。それを聖書では「栄光」というのです。
これは、「父なる神様、あなたの子であるわたしは、いつもあなたのご栄光を、あなたが生きておられるという素晴らしい臨在を現してきました。わたしはやがて十字架にかかるでしょう。しかしわたしは、人間の手によって破滅させられるような存在ではない。どうぞ今、わたしに神の御許(みもと)から来たキリストの本質を、栄光を現してください。たとえ十字架上に屠(ほふ)られても墓を蹴破って復活し、栄光を現させてください」という祈りなのです。
天の権威を着る者
2節は直訳すると、「あなたがすべての肉に対する権威を子にお与えになったと同様に、子に賜ったすべての者に、子が永遠の生命を与えるためです」となります。「万民」と訳されたギリシア語は「すべての肉」という言葉で、「肉」というのは弱い人間のことです。ですからこの祈りは、神は、肉なる弱い人間に永遠の生命を与えるという、驚くべき権威をイエスにお与えになったことをいうのです。この「権威」とは何か。
私は1948年に独立伝道を志した時、全く孤立無援の状況でした。「伝道せよ」と神に激しく迫られつつも、この世的な力とて何一つない、みじめで無力な、見る影もないありさまでした。それに、私は無教会主義者でしたから、どの教団や教派からも支援があるわけではない。神学校も出ておらず、何らの公認の資格とてもたぬ私ですから、世の人はだれも私を伝道者だと認めてはくれません。
せめて金があればと思うが、その金さえない。梅雨になると天井からボタボタ雨漏りして、ろくに寝る所もないような貧乏なわが家の状況。そんな者に何ができるでしょうか。
たいがい何か事をなそうと思う人は、この世的な勢力に頼ります。何かの権力のある地位に就いて人を支配しようとしたり、世に認められた資格を取ったり、有力者との関係を結んでそれを頼りにしたりします。あるいは、金の力さえもてば、どんな仕事でもできる、どんな有力者でも動かせる、と多くの人が思っています。
しかし、ここでキリストご自身が言われるのは、「わたしはあなたの子です。あなたはすべての肉なる者、弱い人間に対する権威を、力をわたしにお与えになった。わたしは、自分に賜ったものを自分の愛する者たち皆に与える。それは永遠の生命、聖なる御霊である」ということでした。
ルカ福音書9章にも、キリストが弟子たちを伝道に遣わすに当たって、「イエスは十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった」と書かれています。キリストが与えられたのは、この世的な金の力や人間の才能や資格などというものではない。天的な力と権威を与えて伝道に遣わされたのです。
そのような、人がもっていない天の資本を仕込まなければ、とても伝道なんかできるものではないということを、私はある時に知った。それから私は、すべてを忘れて祈りはじめました。そして、キリストのみを見上げて祈っている間に私に賜ったものは、驚くべき霊的な力でした。ただ私が近づくだけで、至るところに不思議なことが始まりました。
目を上げ、神の臨在を仰ぐだけで
「天を仰ぐと不思議な力が流れてくる? そんな架空なものが、何か力を与えたりするものか」と言われるかもしれません。しかし、事実として不思議なことが起き、私が祈るとおりに成りだすと、私自身としても不思議でならないのです。「天のお父様! どうして私が祈ると、こんな不思議が起きるのでしょうか?」と問わずにはおられません。
非常に困難な問題が起きたり、明日をも知れぬ重体の人が担ぎ込まれたりすることがあります。そんな場合に私はどうするか。私は力も何もない人間ですから、自分をたのんだりしません。ただ、イエス・キリストのように目を天に上げて、「幼き日に私を呼び、今に至るまで守り導きたもうお方よ!」と言って、キリストの御名を呼び求めるだけです。
そして、私の脳裡(のうり)に実在のごとく、強烈に光り輝くキリストの御姿が現れるときに、「おお、私の霊の父よ! 今、この気の毒な人のために祈っております。昔、地上を歩きたもうたキリストの御霊よ! どうぞここで、昔なしたもうた御業を同様になしてください」と言って、ただ目を上げておるだけです。それ以外、何も私の意識にありません。
ある人のように、自分が何か霊能者を気取って一生懸命やるとか、そんな気は少しもありません。ただ絶え入るばかりに、「おお主よ! あなたは生きておられます」と言って、鮮やかに御姿を見つめまつるようなときには、決まって不思議なことが起きるのです。
先日も、10年来の私の大事な信仰の友であり、陰に日向に幕屋を支えてきてくださった長崎の久保田豊さん(長崎の三菱製鋼所元所長。原爆の廃墟から信仰をもって工場を再建した)の容体が気になって、どうも胸騒ぎがします。すると、奥さんから電話がかかってきて「危篤状況です」と言って泣いておられる。それで「明日の朝、行きます」と言って、私は夜もすがら祈り心地でその日を過ごしました。
翌日、長崎に着きましたが、見ゆるところ絶望です。しかし、目を上げてキリストを仰ぎ、久保田さんに手を按(お)いてしばらく祈ると、みるみる元気になられました。
大阪に帰ってから電話がかかってきて、「まあ、なんという鮮やかなおいやしでしょうか! ほんとうにありがたいことです。神様の御恵み、祈りの不思議さというものがほんとうにわかりました」と喜ばれ、ご夫婦で電話口で泣き崩れておられました。
遠くにあって、いと近い神
こういうことがあると、ほんとうに不思議でなりません。
「神はわれらのいと近き助けである」という言葉が聖書にあるが、超越的な天の世界におられる神様の力が、地上の人間にどうして働くのだろう。キリストが今、そばにおられれば力も伝わってくるでしょう。しかし、イエス・キリストは2000年前に日本から遠く離れたパレスチナで生きておられた人物です。そこには時間空間の大きな隔たりがあります。ましてキリストは天に帰られたというなら、地上の私たちと何の関係があるかと思います。
しかし、力というものは、必ずしも物と物とが接触することによって働くとは限りません。離れていても働きます。たとえば、太陽と地球とはずいぶん大きな距離で隔たっています。しかも、太陽と地球の間は空気も何もない空間です。しかし、太陽の熱、光、また引力は、離れている私たちに現に働いて、草木を養い、万物を育(はぐく)みます。
この宇宙においては、どんなものでも孤立して存在することはありません。万有引力の法則によって、ありとしあらゆるものは、相互に力を働かせ合って存在しているのです。
これはすべての物質にいえることです。物質とは何か。いろいろな原子の塊です。原子は原子核と電子から成っていて、原子核の周りを電子がさかんに渦巻いている。原子核は原子の1万分の1ほどの大きさで陽子と中性子という素粒子(※注)から成っており、これらが互いに核力というもので引き合いながら原子核を構成しています。これらの微小な粒子のエネルギーが引き合って原子となり、分子となり、さまざまな物質を構成しているのです。
その粒子の間の距離というのは、たとえば原子核と電子とでいえば、太陽と地球が遠く離れているがごとく遠いのに、互いに断ち切り難いほど強い引力で結び合っています。常識では、物と物とが触れ合ってこそ力が働くと思いやすいが、実際には太陽や月という極大(マクロ)の世界から、原子核や電子といった極微(ミクロ)の世界に至るまで、全宇宙は無限に離れているようでも、互いにエネルギーを与え合い、引き合いながら、力の交換の上に存在していることがわかります。
この関係がわかった時に、神様は私に示したまいました、「全宇宙、一切のものが遠いのだ。しかしながら、すべてが実に近いのだ。そのように、おまえがわたしを呼ぶときに、わたしが遠くあるものか。近いとは距離の問題ではない。引力のように力と力を与え合う強い関係にある場合に、いちばん近いのだ」と。
※素粒子とは物質を構成する最小の単位のこと。この講話の当時は、陽子も中性子も素粒子と考えられていたが、現在では、より小さい素粒子から成っていることがわかっている。
愛は霊界の引力
夫婦という男女の単位が、なぜいちばん近いのか。それは夫と妻とが、互いに愛の力を与え合いながら生きているからです。同様に、神様は私たちに力を与えたくて与えたくて、たまらないのです。愛とは、力を与えて手を貸したくてしかたがないものなのです。物と物とが引き合う万有引力の関係が物理の世界の引力ならば、心と心の引き合う力は愛という、霊界における引力です。これは無限の距離で離れていても、粒子と粒子が引っ張り合って存在しているように、キリストの愛によって私たちも引っ張られている。大事なことは、キリストに引っ張られる関係に自分が入ってゆくということです。
人間同士でも、親子、夫婦というものは、とりわけ密接に力を与え合って生きている単位です。同様に、私たちも神様と自分とが父と子のような関係に入りますと、「まあ、なんと父なる神様は、私の祈りを聴いてくださるのだろうか」とたまげるほどです。しかも、祈りが聴かれるということは、神様から力が与えられる経験であります。
全宇宙は、巨大な天体から原子核の微小粒子に至るまで、ありとしあらゆるものが、力の交換、交流によって存在しているのです。力が交流しないものは、存在さえできません。万物は互いに力を作用し合って存在している、これが現代物理学の教えるところです。
これは霊的な宇宙、神の国においても同様です。原子核を中心として電子が存在しているように、私たちはキリストに招かれて、キリストを中心に多くの電子群が取り巻くような状況にある。このとき、天に目を上げさえするならば、その中心であるキリストから驚くべきエネルギーが流れてきます。この強烈な引力の前には、距離などというものは問題にならない。ここに、神の力が天地の隔たりを超えて働く秘密があります。
神はどこにいらっしゃって、どのように力を及ぼされるかは、私も知りません。しかし、事実として私たちが神を見上げて一心に祈るときに、不思議な応答があるのです。わからなくてもいい、事実関係として力が働くことを体験することのほうが大事です。
使徒パウロは、「私は福音を恥としない。福音とはすべて信ずる者に、救いを得させる神の力である」と言いました。「私は力よりも真理が欲しい」と言うクリスチャンがいます。しかし自然の法則のように、力の作用のないところには法則もありえないし、真理もないのです。力の働かない世界では、真理といっても架空なのです。実在の世界はすべてエネルギーを互いに出し合い、吸収し合い、引っ張り合う力の相互作用の関係なのです。
宇宙が造られる前から
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」
ヨハネ福音書17章3~5節
この3節は、神様が永遠の生命、聖なる御霊を私たちに賜り、神様と一つの生命に入れられたら、私たちは神様と父と子の関係で結ばれる。その時、実に神が唯一であり、しかも真の実在の神であることがわかる。また、イエス・キリストがその神から遣わされていると、ありありと知ることができる、という意味です。ですから永遠の生命、すなわち聖霊を欠いでは、どれだけ聖書を読んでも神学を研究しても、何もわからないのです。
5節に「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」とあります。この後、「みそば」という言葉がたくさん出てきます。ですから、キリストが目を上げて天に向かって祈られる時には、ひたひたと神の御側(みそば)におるという実感をもっておられたことがわかります。私はここを読みながら、「イエス様の祈りの境地は、かくも神様の臨在感を覚えておられたのか」と深い感銘を受けます。
ここで、「世が造られる前に」と訳してありますが、「この世が存在する以前」「宇宙以前」という意味です。すなわち、この物質的な宇宙以前というときに、それは物質界の奥の奥の、神秘な世界です。霊的な天の世界です。ありとしあらゆるものを生み出してくる根源の世界、エネルギー以前の世界を言われるのです。
あるいは、「自分がこの世に来る前」という意味かもしれません。この世に、イエス・キリストとして現れる以前、キリストの霊、すなわち永遠の生命は、神の御側にありました。その神の御側にあった生命を体現し、突然変異の人類として、ついに地上に出現したのが、イエス・キリストであります。
私たちは弱い肉の器ですけれども、「神様、キリストがそのように宇宙以前からあった生命を人間として体現したといわれるならば、私もそうしとうございます」と祈りたい。ここにキリストが、「わたしが地上に来たのは、多くの人に永遠の生命を与えるためである」と言われる意味があります。それは、世が与えるような命ではない、天からやって来る不思議な生命なのだ、と懇々(こんこん)とお諭しになりました。
ついに人類は、イエス・キリストが発生するくらいまで、高度な霊的存在となりました。私たちもキリストの子らしくありたい。そのために大事なことは、この土の器に、天の力を、神の力を盛って、いつも神の作用を受けて生きる人間になることです。
この主イエスの祈りは、私たちがひとしく祈る祈りでなければなりません。私たちはこの世において、金もなく、地位もなく、何にもなく、無力であってもよい。この天の力を身に帯びる者になりだしたら、お互いがいでゆく所、不思議な天の作用が始まります。
私たちはそのような不思議な生涯を経験するために、キリストに召し集められたのです。心から御名を賛えてやみません。
(1965年)
本記事は、月刊誌『生命の光』825号 “Light of Life” に掲載されています。