聖書講話「神の側から見たクリスマス」ピリピ人への手紙2章5~11節

12月に入り、クリスマスを迎えようとしています。街にはイルミネーションが灯(とも)り、にぎやかにクリスマスソングが流れ、一見華やかな季節です。しかしこの日は、世を救うためにキリストが人間イエスとなって地上にやって来られたことを記念する日です。
今回の講話は、使徒パウロの書簡の言葉を通し、クリスマスの深い意味を説いています。(編集部)

神に贖われた者たちは、キリストのご聖誕を記念して、12月25日をクリスマスといってお祝いします。一般の人たちも、クリスマスはキリストがイエスとして生まれた、その日と思っています。しかし、新約聖書のルカ福音書などを読んでみると、主イエスの誕生日は不明で、少なくとも冬季でないことだけは明らかです。

では、なぜ12月25日にクリスマスを祝うようになったのか。キリスト教は4世紀にローマ帝国に公認されましたが、ローマでは12月の冬至のころに太陽の復活を祝う祭りが行なわれていました。1年の中で最も日が短く、どん底のような暗い冬至から、春に向かってだんだんと日が長く明るくなって、天地が移り変わる。その日を、キリストのご降誕を祝う日としたともいわれています。

永遠の生命を与えるために

しかし、どんないわれがあるにせよ、イエス・キリストが地上に来られなかったならば、自分の現在の幸い、このような世にも得難き幸いには入らなかっただろうと思いますと、私もひとしくクリスマスを祝わずにはおれません。

ヨハネ福音書3章16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。イエス・キリストが地上に来られたのは、彼を信じる者が永遠の生命を受けるためである、という。地上において、はかない肉体的生命を抱いて私たちは生きておりますが、大事なことはこの短い地上の生涯において、永遠の尽きない生命、あの世に行ってもなお通用する生命をもつに至ることです。

その生命をもつときに、どんなに私たちが幸いを得るか。この永遠の生命の保証として、私たちが聖霊を賜る経験、地上において、永遠の生命に触れただけで小躍りして喜び、すっかり人間が生まれ変わるような経験があります。この小さい経験が、天上においては大きな永遠の経験として、永遠の生命として続く、というのが聖書の信仰です。

したがって、聖霊を賜った私たちがクリスマスを寿ぎ、喜ぶのは当然であります。このような意味において、初代教会の人々はキリストのご聖誕を記念しました。

「イエス・キリスト(救世主 メシア)が現れなかったら、こんな内なる幸いを私たちは得ただろうか!」と言って、こういう人間革命を内部に起こすような生命、心の変化を来たすような不思議な生命、これに与(あずか)ったことを彼らは感謝したのです。

しかし今、クリスマスはその真の意味がすっかり忘れられているのではないでしょうか。

己を空しくするキリスト

私は、キリストが地上に生まれたもうた霊的な意味を思えば思うほど、厳粛な気持ちにならざるをえません。それで、ピリピ人への手紙第2章を読みますと、ここに使徒パウロの、キリストが地上に現れたことに対する考え方がわかります。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

ピリピ人への手紙2章5~11節

6節に「キリストは、神のかたちであられた」とありますが、この「かたち」というのはギリシア語の原文では「μορφη モルフェー(顔かたち)」という言葉です。神のかたちであったが、神と等しくあることを固守すべきと思わず、自分を空しくして、僕すなわち奴隷の姿をとりたもうた。この「とりたもうた」は「とる」というより「受け取る」という意味ですね。

神は目には見えませんが、神が何かの姿をとって人格的に現れるときに、”神のみかたち”とも言いたいようなお姿となる。イエス・キリストは元来、神の生命をもっておられた。したがって神の表現、神の表情ともいうべきご存在でした。しかし、この神と等しいお姿を固守すべきこととは思われなかった。

この「固守すべき事 αρπαγμον ハルパグモン」というギリシア語は、「略奪、分捕ること」という意味で、「大事がって握って放さないこと」です。子供がいっぺん何かを握りましたら、なかなか手放しません。そのようなことをいうのです。しかし、キリストは神のかたちそのままを「自分のものだ!」と握って放さないということはされず、「かえって、己を空しうして奴隷のかたちをとり、人間の姿になられた」のです。

その人間としての姿も、己を低くし死に至るまで神に対して従順で、しかも十字架の恥ずかしい死刑囚として呪われるような死すらも、黙って甘受するほどに従順であられた。

「従順」とは「神に聴き従う」ということです。「あっちを向け」と言われたら「ハイ」といって向くような姿で服従しておられた。このように、ピリピ書には書いてあります。

エルサレム郊外の丘を行く羊の群れ

クリスマスは神の犠牲の日

ところでクリスマスが近づくと、全世界のキリスト教国でアドベント(待降節)が始まります。西欧では12月に入るともうクリスマス気分で、先年訪れたロンドンでも街じゅうが飾られて美しいですね。そして、皆がうきうきした気持ちで過ごしております。私たちにとって確かに、クリスマスは喜びのお祭りです。

しかし、これは”人間の側”から言うことでありまして、「”神様の側”からは、どうなのか」というと、逆です。パウロによれば、クリスマスとは「キリストご自身の立場から言うならば、神の本質をもつ存在、神のかたちであり、神の御座におられた存在であるのに、神と等しい姿を脱ぎ捨てて、奴隷のごとくなられた日」です。

人間となっただけでない、「僕のかたちをとり」とあるように、人間としては奴隷のようであった。それもただの奴隷ではない、十字架の死刑囚として辱められ、侮蔑され、亡き者にされ、なぶられても黙って忍び通されたほどの人間になられた。

いかに神の側においては、人間を救うために、私たちを、否、この私を救うために大きな犠牲が払われていたのか! 私が今でも泣きたいくらいに喜んでいる、この贖いの経験を得させるために、神様の側ではいかに悲痛な犠牲が払われたか、ということであります。

人間が大きな贖いの喜びを寿ぐために、神様の側は、ほんとうに大きな犠牲を忍ばれた日――これが、クリスマスであります。

奴隷のごとくに成り下がって

一人の人が生まれ、大きな社会的・文化的な貢献をしたら、皆がその誕生日を祝います。たとえば、今年はベートーヴェンの生誕200周年ということで、皆が「ベートーヴェンは偉かった」といって賛えます。しかしクリスマスは、「イエス・キリストが偉かった」とただほめ賛えるための日ではない。神様のお心としたら、どんなに痛まれたか。

7節には、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」と書いてあります。この「むなしうして εκενωσεν エケノーセン」というギリシア語の動詞は、「空っぽにする、空虚にする」、また「無駄にする、無効にする」という意味です。

神のかたちでありたもうた輝かしい地位を、すっかり無駄にしても、というか、ご自身を空っぽにされた、というんです。その空っぽになるなり方も、最低の人間、奴隷以下の十字架の刑を受けられるというものであった。ひどい運命に翻弄(ほんろう)されることも覚悟して、奴隷の状況に成り下がりたもうた。その日がクリスマスである、と。

イエス・キリストがお生まれになった時、飼い葉桶の中に産み落とされたということを考えても、普通と違います。赤ちゃんが生まれたら、私たちは柔らかい布で包んで大事に大事に育てます。しかし、イエスはまぐさの中に誕生された。柔らかい肌に麦ワラが刺さるでしょう。生まれた時から死に至るまで、ほんとうにお気の毒な一生でした。

このように、神が人間を救うために支払いたもうた犠牲の大きさを考えますと、「クリスマスはこれでよいのだろうか」という粛然たる気持ちがわいてきます。もちろん神は愛であるからこそ、私たちを、この世を救うために独り子をくだしたもうた。キリストなかりせば、キリストに宿ったあの永遠の生命が私たちに流れてくることもなかったでしょう。

キリストの心を心とせよ

先日、私が高等商業で3年間学んだ長崎に参りました。自動車でずっと町中を回っているうちに、いろいろなことを思い出しました。

当時は、郷里の熊本を離れて学生生活をしていますから、父から学資が毎月仕送られてくる。私は月々十分な金額を送ってもらっておりました。ほかの友人が乏しい生活に耐えてやっているのを見て、「自分はありがたい父親をもったものだ」と思ったことでした。

ところが多くの学生は、親の血と汗の結晶ともいうべきお金を送ってもらいながら、勉強もせずに、女給のいるカフェーに行ったり、芸者を揚げたりして酒を飲んで遊んでいる。私は堅物のクリスチャンでしたからそういう集まりには出ませんでしたが、当時のことをいろいろと思い出すと、自分も親の苦労がわかっていただろうかと思います。

今のクリスマスを見ると、それと同じじゃなかろうか。キリストが誕生されて「ああ、よかった」とお祝いするが、国もとでどんなに犠牲が払われているかということを考えない。

5節で「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」とパウロは言っております。原文は「キリストにありて思うように、あなたがたの間でも思え」ということですが、昔の訳では「キリストの心を心とせよ」です。「神の世界では、どんなに大きい犠牲が払われているか、そのことをあなたがたの間でも思ってみたらどうだ」ということです。

今日、クリスマスを迎えるについて、「キリストにありて思うように、あなたがたの間でも思え」とパウロが言いますときに、どういうことでしょうか?

キリストは、ご自分を全く空しうしたもうた。財布の底を叩(はた)いてすっからかんになる、という言葉があるように、すっからかんに自分を犠牲にしたもうた。そのような気持ちに、あなたがたの間でもなれないものか? と言うのですね。

無我にならなければ

父親が子供に学資を仕送りするためには、汗水たらして働きます。父親がだんだん年を取ってきますと、白髪(しらが)も増え、顔のシワも多くなってきます。いろいろな社会的な苦しみや貧乏に耐えてやりくりなどをして、仕送るわけです。これに似て、「己を空しうする」とは、極端に訳すならば、「全く破産する、倒産する」という意味ですね。

神の姿であるにもかかわらず、すっかり自己を破産させてしまうほどに、全部投げ出しても、人間の世界にくだって、生命を注ぎ込むだけ注いで、そして十字架にかかって死なねばならなかった一生。それで私たちにも、「キリストが己を空しうしたもうたように、空しくなれよ」と言うんです。結局、宗教の極意はこれです。

仏教で坐禅を組んで悟るということは、全く自分が無我になることです。我が無くなる。空しくならなければ、神の霊、神の喜びは私たちに満ちてきません。

キリストがご自分を空しくされたことと、私たち人間が空しくなることとはだいぶ違います。キリストは神のかたちでありたまい、神の栄光に満ち、神の恵みに満ちておった方にもかかわらず、ご自分をすっからかんにされた。

私たちは自分を省みてみると、ほんとうに罪深い、無価値な卑しい者です。自己嫌悪を覚えるようなわが身、そんな自分ならさっさと捨てたらいいんです。しかし、私たちは自分がだめとわかっていても、それが捨てられずに固守する。自分を握って放しません。

中野静先生の生涯

4年前に亡くなった中野静先生は、東京の清瀬(きよせ)で2つの療養所の院長を兼ねておられた名医でした。もし、男が2つの病院の院長だったら、威張るところでしょう。しかし、静先生はその職を捨てて熊本まで、私のもとに信仰を学びに来られました。

その後、結婚して赤ちゃんが生まれたら、ひどく病弱な身体(からだ)になられたけれども、なお、堺や京都で伝道されました。ねんねこを着て赤ちゃんをおんぶして、どこへでも請われるまま伝道においでになりました。

加古川のある方のお宅で集会があった時のこと。その家の奥さんから大阪の私の家に何度も電話がかかってきて、「伝道者の先生がまだ見えませんが、いつお見えになるのでしょうか」という問い合わせです。

ところが、静先生はとうに着いて集会室に座っていたんです。赤ちゃんを背負い、ねんねこを着ているみすぼらしい姿に、だれもその人を伝道者の先生とは思いませんでした。

彼女は人間として豊かな天分をもっておりました。聡明でした。医者であれば、病院長として大きい収入も得られた。しかし、それを捨てて朝から晩まで人のために働かれた。ついにすっからかんになって倒れて、もう立ち上がることができないくらいに病で身体がだめになってしまいました。

そんな状況になっても彼女は、「私は医者を辞めてよかった。こんな幸福が、内なる幸福があふれるとは思わなかった」と喜んで言われるのでした。私は、その尊いお姿を見るときに、キリストの面影を偲(しの)ぶことができます(泣きつつ語る)。

幸いなるかな、心の貧しき者

パウロが見たキリストは、ご自分を空しくされたキリストでした。ですから、もし自分を空しうしている者が地上におりましたら、キリストの目にどんなに大きく映ったでしょう。山上の垂訓の初っ端に、キリストは何と言われましたか!「幸いなるかな、心の貧しい者たちは。天国は彼らのものである」と。心がほんとうに空っぽで、空しく何もないくらいに乏しくありうる者に、神の国は臨在するのです。

私たちは、あまりにもちすぎています。何かがありすぎます。物質文明に酔いしれていすぎます! キリストは神のかたちでありたもうたけれども、その栄光の姿を捨てて、人間と等しくなりたもうた。しかもそのなり方は、奴隷のように、それ以下の恥ずかしい十字架の死に至るまで従順であられた……。

それは、美しい金の十字架じゃない。人から呪われ、罵(ののし)られ、痛い思いをしながら、しかし、神の御旨のままに従順でありたもうた。そのくらい神の御心が、ご自分を空しくしておられたイエス・キリストに満ちていた、という。

キリストは素晴らしい内容をもつ存在であられた。しかし、それを捨てたもうた。私たちは自分で自己嫌悪を催すような嫌なやつなのに、なお自分を捨てきらずに「何が欲しい、かにが欲しい。何を貯めたい、これを貯めたい」と言っておるのではないでしょうか。

しかし、あってもなくてもよいが、自分を空しくして、神の御前に頭を下げる者がありさえするならば、神はその人をどんなに尊く思い、また、栄光を与えたもうでしょうか。

クリスマスの意味といってこんな話をしましたが、キリストの犠牲を思い、また昔、父親がほかの生徒たちよりも10円も15円も多く送ってくれたことを思い出し、もらうものはもらっておいて親の恩を感じなかった自分を思うと、恥ずかしい情けない気がしたんです。同様の思いを、天の父なる神様に対してもたなければいけないのではないか、と思うのです。

祈ります。

神様、心から御名をほめ賛えます。(泣きつつ)あなたの御愛はあまりに大きく広くありますために、私たちはほんとうに御心をないがしろにしやすく、そして、それを当然かのように思い誤っていましたが、今日は一同ここに集まり、今年を感謝し、またクリスマスを迎えるに当たって、もっと深い意味において寿ぐことができますので感謝いたします。

自分たちのことばかり考え、うつつを抜かしておりますときに、もう一度、あなたの御国を偲び、御心の何であるかを考えることができ、クリスマスがありがたくてなりません。

イエス・キリストご自身が地上でこのようでおありでしたのですから、私たちがちょっとやそっとの貧しさや苦しさ、辱めに参ってはなりません。どうぞもう一度、年末に当たって覚悟を新たにして、次の年に飛躍させてくださるようお願い申し上げます。

(1970年)


本記事は、月刊誌『生命の光』826号 “Light of Life” に掲載されています。