聖書講話「聖霊と火とによる回心 ―― キリストの福音の根本とは ――」マルコ福音書1章1~15節
キリスト教は全世界に広がって、多くの人を救い、文明を起こすような影響を与えました。しかし同時に、教義や制度ができ、イエス・キリストが最初に説いた福音から変質した事実もあります。
手島郁郎は、福音書や使徒行伝に表れる原初の福音を「原始福音」と呼び、キリスト教がそこに帰ることを願いました。イエスの説いた福音とは何かを、今回からマルコ福音書に学んでいきます。
「宗教」と一口にいいますけれども、何ゆえ私たちはキリスト教でなければならぬのか。そこに理由がないならば、どの宗教を信じてもよいはずです。しかしながら、キリストの宗教でなければならない理由があります。それは、他の宗教ではどうしても与えられない、他とは本質的に違うものがキリストの宗教にはあるからです。
また、キリスト教にもたくさんの教派があります。何が真にイエス・キリストが説いた福音、原始福音なのか? 私たちはまず、このことを知らなければなりません。
原始福音とは
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」
マルコ福音書1章1~8節
マルコ福音書の冒頭には、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書いてあります。原文のギリシア語で読むと、「αρχη アルケー(始め、原始、根源)του ευαγγελιου トゥー エヴァンゲリウー(福音の)」という言葉が最初に来ております。「福音のはじめ」とは、すなわち「原始福音」です。それはただ、キリスト教の始まり、信仰の始まりという意味でない。何が本当の福音であるか、その福音の根源、本当の姿は何であるかをマルコは書きたいのです。
洗礼者ヨハネが、「主キリストに至る道を備えよ」と、まず人々の心の道を改めようとしました。そして「私は水で悔い改めのバプテスマを授けたが、私の後に来るキリストは聖霊によってバプテスマを授ける(原文では「聖霊に浸す」)」と言っています。
これが原始福音の根本であります。ですから私たちは、まず聖霊に浸され、聖霊に満たされなければ、クリスチャンであるとはいえません。そして、それはだれによって始まったのかというと、大預言者ヨハネではなくして、主イエス・キリストによってでした。
内に燃えるものが叫ばしめる
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
マルコ福音書1章14~15節
「ヨハネが捕えられた後」とありますように、洗礼者ヨハネが、当時ユダヤ民族を治めていたヘロデ王の不義を指摘したため獄につながれました。そのことが大きな刺激になったのか、キリストはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えはじめられました。
この「宣べ伝える」と訳されている原文のギリシア語には、元来「大声で叫ぶ」という意味があります。「大声で叫ぶ」のは確信があるからです。ボソボソと話すのではない、内側に燃えているものがあるから、大声で叫ぶことができるのです。
そして、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました。この「悔い改めて福音を信ぜよ」は、原文では「悔い改めて信ぜよ、福音の中に」となっています。「悔い改める μετανοεω メタノエオー」とは、「悔やむ」というよりは、「心が変わる」という意味ですが、どっちに心の向きを変えるかが問題です。「福音」とは、神の国の中へと心が変わることです。
その後を読むと、イエス・キリストが近づくだけで、漁師であったペテロやヨハネが驚き、その不思議な力に引き寄せられるようにして信仰に入りました。また、いろいろな悪霊に憑(つ)かれている者や、さまざまな病人がキリストに出会って福音に悔い改め、救われたという出来事が書いてあります。この状況を「福音」というのです。
心がひっくり返って信仰に入る
キリストは大声で福音を宣べ伝えられた、という。預言者イザヤは「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主は語りたもう」(イザヤ書1章2節)と、大声で天地に訴えています。預言者エレミヤも「ああ、地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞けよ」(エレミヤ書22章29節)と叫んでいます。どうして大声で訴えなければならないのか。そのくらい当時の人々は神を信ずる心がなかった、ということです。
「福音を宣べ伝える」といいますけれども、それは何か自分の理屈や主義主張を理解してもらうことではない。悔い改めて、神を信ぜしめることが目的です。「悔い改め」とは「心がひっくり返ること、回心」ですから、心がひっくり返って、回心して信仰に入るのであって、回心なくしては福音に入ることができませんし、信仰はわかりません。それでキリストが叫んだ理由がおわかりでしょう。
伝道とは、人々をして回心せしめ、信仰に、神の世界に入らしめることです。民主主義は話し合いによって理解されるというが、信仰は話し合いではわからない。それは、神の世界というものは人間には閉ざされた世界であって、神秘な世界は説明でわかるものではないからです。目からウロコのようなものがポロッと取れなければ、何を聞いても話されても、自分で実感、実験することがないから信仰の世界はわからないのです。人間の心がガラッとひっくり返らない限り、どんなに伝道してもだめです。
私は若い青年たちを伝道に送り出す時に、「いいか、伝道はだれかにお説教をしてくることではないぞ!」と注意します。そうでないと、普通のキリスト教の伝道を見ておりますから、伝道を「宣教」「説教」ぐらいに思って、それでやろうとします。
集会などでは、人々の心が開かれて回心しやすいように話をして、聖霊を受け入れやすいように心の姿勢を正し、最後は神の国がやって来ているのを地上においてまざまざと味わわせることが大事です。その勘どころがわからない伝道者は、一生懸命説教して人の心を説得すればわかるくらいに思っているけれど、人間というものは、そんなにたやすくわかるようにできていないんです。伝道は「心がひっくり返る」という現象――コンバージョン(回心)、リバイバルの現象が起こることを目的にしない限り、絶対に成功しません。
パウロが「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である」(コリント人への第一の手紙1章18節)と言っているように、福音は、ただ人間が聞いて理解できるようなものではない。矛盾と逆説に満ちています。福音は人間のちっぽけな頭に入らないほどの大真理ですから、説得なんてできるものではない。イエスの宗教は説得すべきものではありません。
宗教的衝撃を受ける時に
未開人にどれだけ高等数学を説き、原子物理の話を聞かせてもわかりません。それと同様に、元来、原始福音というキリストの宗教は天来のものであって、どれだけ論理や宗教思想を話して聞かせても、わからない人にはわかりません。
パウロもローマ人への手紙11章8節で「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞こえない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と、旧約聖書を引いて言っています。その見えない目、聞こえない耳が、見えたり聞こえたりしはじめることが福音なのです。人間は、賢くなって心が肥えてくればくるほど頑固になり、何か自分の確信めいたものをもってしまって、自分の間違いや過ちを悔い改めなくなります。
私たちは、頭で何かわかって信ずるんじゃない! わからないけれど、宗教的衝撃ともいうべきものがガーッとやって来るからひっくり返るんです。そうして救われるんです。
姦淫(かんいん)と殺人の罪を犯したダビデ王に、預言者ナタンが「アター ハイーシュ! (それは、あなただ!)」と言うだけで、ダビデは神の御前に泣いて悔い改めました。また古(いにしえ)の預言者たちがイスラエルの民を一喝しますと、民は塵灰(ちり)に伏して泣いて悔い改めました。
ですから、「静かに話し合いましょう」「わかっていただきましょう」というようなこととは違うんです。キリストの宗教は、本来、預言者的なものであるにもかかわらず、今は、すっかり力を失くしてしまっています。
天来の火によって
マタイ福音書の同じ箇所には、洗礼者ヨハネが「私の後から来る方は、聖霊と火とによっておまえたちをバプテスマされる」と言っております。また「われらの神は、実に、焼き尽くす火である」(ヘブル人への手紙12章29節)とありますが、旧約の預言者エレミヤも、焼き尽くすような火が自分の中に燃え移った、と言いました。
実に、そのような天よりの火が、私たち古き人間を焼き尽くして、すっかり新しい者に打ち変えてしまう。これを伝えることを「福音」というんです。この火が伝わる時に、いかなる人々も救われる。この火は原始福音にだけあって、他の宗教にないものです。そして、この火が与えられるならば、他の宗教もよみがえるのです。
原始キリスト教時代に、あれほど多くの人々の心を焦がして燃え広がったキリスト教が、なぜこんなに理屈っぽく無力なものになってしまったのか? それはこの大事な要点――キリストご自身が聖霊と火でバプテスマする――を見忘れているからです。あまりにも重点の置き方が違っている。福音の根本を外しているからです。
生けるキリストを伝えよ
今の日本のキリスト教会を見ると、西洋から伝わったキリスト教の形式や制度、考え方をそのまま猿真似しています。ただの焼き直しであって、日本人自身から生まれたものではありません。聖霊を伝えることをせずに、音楽や文化、宣伝力、あるいは説得力によって導こうとするが、それは間違いだ! まして洗礼や、聖餐式(せいさんしき)の儀式を司(つかさど)ったり、教派の教理を伝えることは、福音の伝道ではないのです。
大事なことは、生けるキリストを伝えることです。神なき人々の分厚い心の壁をブチ破って、彼らと共に生きて、彼らの光となること、「世の光」となることです。今の教会のように説教や儀式が中心となるのは、大きな間違いです。
私たちがなすべきは、不信仰な社会から独立することよりも、この社会の壁をブチ破ってゆく、爆発するような生命力を提供することです。それが「福音」です。
第一に、天来の火に燃えているかどうかが、私たちにとって大事な点です。もう一つは、預言者的精神をもって社会悪に真っ向から対決する勇気をもつことです。「われはかく信ず」といって所信を表明することです。なぜそれができないかというと、聖霊に燃やされていないからです。上よりの力が臨んでいないから、人を恐れるんです。
原始キリスト教徒は迫害された少数者でしたが、今の日本のクリスチャンは迫害されることを恐れる少数者です。聖霊に満たされた人間でないから、福音を大胆に率直に表明できないんです。使徒時代の伝道は、この世の大学者の知恵によらなかった。ただ徹底的に神の恩寵にすがってこそ、大ローマ帝国の迫害にも打ち勝つことができたのです。だから、神の恵みの不思議な力に満たされて押し出される人間の誕生が大切なのです。
福音は、それが大声を上げてなされる時、その声、言葉に伴って聖霊が働く――これが重大な問題です。この言霊の力が働かない場合には、どうしても福音は伝わらない。頑(かたくな)な人の心に打ち勝つものは何か、それは今も生けるキリストの聖霊による御業です。
神が私たち人間の胸ぐらをつかんでワーッと焼き尽くすような天来の火。この火に触れしめよ! すると、新しく変わった人間となって生活しはじめる。これ、伝道の秘訣(ひけつ)です。これは頭で考えてわかるものではありません。実験してみることです。それがどんなに喜ばしいことかは、経験してわかります。
上よりの賜物さえあれば
伝道にとって、信仰において、学問がない、財政的に貧弱であるということは問題ではありません。何が大切か。それは、上よりの賜物をもっているかどうかです。上よりの恵みを受け取った者が、いかに豊かに生きうるかということは、聖書が証しするとおりです。恵みの賜物――カリスマタに生きているならば、ペンテコステの日に起ち上がったペテロたちのように、驚くべき神の御業が伴います。
信仰において、若いということは大したハンディキャップではありません。少年ダビデのように、若くとも人々は尊敬するのであって、福音とは、その人の胸中に聖霊の火が燃えているかどうかが問題です。年寄りがいるからといって、年齢や地位ばかりで人を立てるなら、若い者は力があっても、みんな圧迫されて萎縮してしまいます。
キリスト教というものは、上よりの神の賜物によって立てられる人を尊ぶのであって、年齢を標準に置くべきではありません。もちろん、老人は尊敬しなければなりませんが、大事なことを間違ってはいけない。道徳の枠に縛られては、革新的な気風は死んでしまいます。カリスマ的人物が出てくることを尊ぶ気風を作らなければいけません。
聖霊の働きこそ原始福音の根本
イエス・キリストが誕生され、ヨルダン川で洗礼を受けられてからの劇的な不思議な生涯、福音の伝道、そして十字架の死、また死後によみがえって、ペンテコステの日より使徒たちに躍如として働かれた出来事の数々――それらの出来事を信ずることではない。このようなドラマチックな出来事の背後に何があったから、かくもイエス・キリストは働きたもうたのか! これを見よ! その秘密にさえブチ当たれば、私たちにも信仰というものの核心がはっきりわかります。
信仰は知識ではない。キリストの贖いの生命を得ることです。キリストは「天の父の全きがごとく、なんじらも全かれ」と言われました。救われるとは、どういうことでしょうか。それは天の父が全きように、私たちも、心の傷がいやされ、体の病もいやされ、霊肉ともに健全な姿、充ち満てるような完全な姿になることです。
今のキリスト教が、宗教道徳や哲学、教理で人の心を説得するのが福音伝道と思っている時に、本当の福音は、人々が霊肉ともに充ち満てる状況になることをいいます。私たちが語りつつある間に、不思議な力が、贖いの生命が、人々の心と肉体にしみ入るように臨むことが福音なのです。実に、神の国の力が、神の霊が地上に臨んだ――この中で信じ、この中に悔い改めることが、信仰であります。
私たちがそこに見るべきものは、ただ聖霊の御業です。聖霊が働かない限りは、絶対にキリストの国は成立しない。神の国は地上に根を下ろすことがないのであります。
この聖霊だけは他の宗教にありません。キリストの宗教の専売特許というべきものです。この大事なキリストの火を、今のキリスト教は忘れてしまっている。だから私が原始福音を叫ばなければならない理由があるんです。これだけが人を全うせしめるからです。
(1961年)
本記事は、月刊誌『生命の光』837号 “Light of Life” に掲載されています。