聖書講話「イエスの父ヨセフのごとくに」マタイ福音書1章18~25節
12月はクリスマスを迎えます。日本では商業的なお祭りのように祝われるクリスマスですが、本来は、暗い世の中に希望と光をもたらされた、イエス・キリストの誕生を記念して祝う日です。
新約聖書には、キリストの誕生の次第がマタイ福音書とルカ福音書に書かれています。
クリスマスに因(ちな)んで、手島郁郎が尊敬してやまなかった、イエスの父ヨセフの信仰を学びます。(編集部)
今日はクリスマスです。全世界の人々がこぞって、イエス・キリストの誕生を祝っております。そして、赤ちゃんのイエスが聖母マリヤに抱かれている絵が至るところに掲げられております。カトリック教会などでは、イエスの母マリヤを神のごとくに崇敬し、賛美いたします。けれども、イエスの父となったヨセフのことは、あまり顧みられません。私は、これは実に残念なことだと、常々思っております。
人間は、自分がこうありたい、こうなりたいと願う姿に次第に変貌(へんぼう)してゆくといいます。私は自分の寝室に、イエス・キリストの父ヨセフの肖像画を掲げております。そして、このような崇高な、男らしい、しかも愛情と慈悲と正しさをいっぱいもっている人物になりたい、というのが私の願いであり、祈りであります。
ところが、ヨセフについての物語は、マタイ福音書やルカ福音書の最初に少し出ているだけでありまして、その人となりはよくわかりません。
伝説によると、イエスが若いころに父ヨセフは亡くなったようです。それで、亡くなった父親を慕ってやまない心が、イエスの宗教心をかきたてたものと考えられます。
イエス・キリストに、地上で重大な感化を与えたのが、父ヨセフです。
今日はクリスマスに因んで、ヨセフの信仰を学びたいと思います。
聖霊によるイエスの誕生
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
マタイ福音書1章18~25節
彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
聖書は妙なものですね。キリスト教の教祖ともいわれるイエス様の誕生の物語を赤裸々に書いている。なぜ、こうも人間の関係を暴露して書いているのか。それは、包み隠さなければ耐えられないようなものは、真理ではない。聖書の真理は、どのような人間の批判をも超えて、生き抜けるだけのものがあるからです。
まず、イエス・キリストは聖霊によって、神の霊によって、母マリヤから生まれたというのです。マタイ福音書3章9節に、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる」と書いてあるけれども、神は、どんな汚れた人間であろうが、どんな虚(むな)しい状況からでも神の子を創(つく)ることができる、というのが聖書の信仰であります。
ところが、イエスの誕生が聖霊によるものだといいましても、現実には周囲の人々から見れば、父なし子です。父なし子として生まれたがゆえに、周囲からの目に幼いイエス様の心は、どれほど傷ついたことでしょうか。
しかるに、このヨセフに育てられたイエス・キリストが後に伝道に立たれた時、天の神、真の神を呼ぶのに「お父様!」と呼べ、と人々に教えられた。このことを考えると、育ての親であったヨセフという人は、いかに優れた父としての性質をもっていたか、ということがわかります。
愛と善意に満ちたヨセフ
実の親子ならば、子供が父親に「お父さん」と呼びかけるのが普通でしょう。イエス・キリストは戸籍上の父ヨセフの手によって育てられました。義理の仲というのは、なかなか血の通わない、愛情が通わないものでありましょうのに、イエスは義父のヨセフを通して父親の愛を知り、天の神について「天の父は、あなたがたによきものを拒みたもうことはない」と言われ、またヨハネ福音書17章では、「父よ」「聖なる父よ」「正しい父よ」と言って、親しみと全幅の信頼を込めて神を呼んでおられます。
天界のことは、地上の何かに例えて言うのであります。それで、地上において本当のよき父に恵まれなかったならば、イエス・キリストは神を「父よ」と呼ぶこともなかったかもしれません。それを思うと、ヨセフがいかに愛と善意に満ちていたかがわかります。
このように、神様はイエス・キリストを地上に送るについて、イエスの父となるべき人を探しに探したあげく、ついに一人の男を見つけて、この者こそイエスが地上の父と呼ぶにふさわしい人間であるといって、ヨセフにお託しになったのです。
私は4人の子供の父ですけれども、上3人の子供に対しては、過去においてよい父ではなかったと思います。私の自覚がそうでなかったために、子供たちの心を傷つけたなら、深く子供に詫びようと思う。けれども私が死んだ後に、せめて子供たちから、「ヨセフのような父だった」と言われるようでありたい、と私は願うのです。ですから、新しく生まれた子に対しては、徹底的にヨセフを模範に生きようと思っています。
ダビデの系統を継いで
イエス・キリストに重大な感化を地上で与えたヨセフ。このヨセフについてマタイ福音書を読みますと、少しく人格がわかります。
1章18節から読むと、「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき」とあります。
人生には、信仰によって生き抜こうとするときに、いろいろわけのわからない矛盾や煩悶に遭遇することがあります。まずヨセフは、そのような現実を思い巡らせ煩悶した、人間らしい人間であったということが書かれています。
マタイ福音書の最初に出てくる系図を見てもわかるように、ヨセフはダビデ王の子孫であります。けれども、実際は落ちぶれてナザレの田舎の大工となっていました。
しかし、たとい落ちぶれた境遇にいても、その神々(こうごう)しい性格は、やはりダビデ王の子孫であることの証拠です。ヨセフの肖像画には、ダビデの血筋を引いた者にふさわしい威厳と品格と気高さが見事に描かれております。
義には強く、愛には弱くあれ!
19節は原文を見ると、「夫ヨセフは義人であったけれども、彼女のことが公になることを欲せず、ひそかに離縁しようと決心した」と読めます。
ここに、ヨセフの性格がよく表れています。自分の婚約者である女、尊んで自分の伴侶として迎えたいと思う者が、自分の知らない間に身重になったというのです。
「ヨセフは正しい人であった」とある。道徳的に正しい人でもあったから、正しい決断をしなくてはならない。モーセの律法によれば、そんな場合は、女を石打ちにしなければなりません。けれどもヨセフは、マリヤがかわいそうで石打ちの場に出すことなどできなかった。彼の温かい、もろい愛の魂がそれをさせなかったのです。
ヨセフは、義にはあくまでも強い人だったけれども、愛には実に弱い人であった。ここに、ヨセフの偉大さが潜んでいます。
「義には強く、愛には弱くあれ!」、正義のためには敢然として、どこまでも不義を憎んでたたかう強い魂。しかし、愛の前には、どんなに自分がもみくちゃにされてもよい。もろく、弱くあれ! このヨセフの生き抜いた姿こそ、若いころからの私の理想でありました。
「不倫の許嫁(いいなずけ)のことが人に知れたら、民衆裁判にかけられ、石打ちの罪になる。このまま、そーっとだれにも伏せて、自分たちの婚約関係を否定しておけば、それで過ぎ越すことができるかもしれない……」。あれこれと思い巡らしては、ヨセフは煩悶していました。
真理に裏打ちされた愛の姿
不義は憎々しい。しかしそれさえも、どこまでも包んで愛で覆い尽くすことができたのが、ヨセフであります。何という徹底した真の愛の姿ではないですか。
正義感の強い潔癖な人ほど、自分の周囲にも潔癖さを要求するものです。しかし、そのために殺されるのは愛です。
私は、真理だけのために生きる人にはなりたいと思いません。真理というものは、愛で彩られたときにほんとうに強いけれども、愛のない真理は、いくら真理でも冷たい氷のようで、私には堪(た)えられません。かといって、愛だけの愛はベタベタ腐って使いものにならない。盲目的な愛欲の世界は地獄です。それは、真理を交えていないからです。
いつも真理と愛とが、板の両面のようにピッタリと調和し、一枚の布に織られた縦糸と横糸のような関係にあるときに、尊く、健全なのです。
義には強く、愛にはもろい姿! これこそイエスの父ヨセフの姿であり、原始福音に生きる私たちの姿でなければなりません。
それにも増して私がヨセフにあやかりたいのは、聖霊を最も重んじ、聖霊の声に聴き従い、実に超自然的な力をもつ聖霊に対する直観力を、彼がもっていたことです。
自分の許嫁に忌まわしい現象があったとしても、外側を見ずに、なお神に聴いて、この問題を解決しようとしました。平面的な世界では問題は解決しない。より高い声を聴いて進んでいるうちに、やがて問題が解けてしまう。これがヨセフの信仰でありました。
夢の中で霊感される
ヨセフが煩悶している時、主の使いが夢に現れて、「ダビデの子ヨセフよ」と呼びかけました。「ダビデの子ヨセフよ」というのは、ダビデ王の血筋を引いている者らしいヨセフよ、という意味です。ただ「ヨセフ」とは呼んでいない。天使はヨセフを尊んで、「おまえはダビデの血筋を引いている。ダビデは信仰の人であり、カリスマ的な王として、信仰の力で国を救った信仰的偉人である。おまえはその血筋を引いているのだから、話をわかってくれるだろうね」と言わんばかりに、「ダビデの子ヨセフよ」と呼びかけているところが面白いではないですか。
そして、「心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」(20~21節)と、ヨセフに告げました。
「イエス」とは、ヘブライ語で「ヨシュア」といいまして、「神は救う」という意味です。そしてこれは、預言者イザヤの「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神われらと共にいます)ととなえられる」(イザヤ書7章14節)という預言に由来します。神の救いは、キリストがわれらと共にいますから起こるのである。キリストの霊が、聖霊が臨在しなかったら救いは来ない。
それでヨセフは眠りから覚めたのちに、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えました。そして、生まれた子に「イエス」と名づけました。
ここに、ヨセフがいかに霊感的な人であったかがわかります。常識で考えたら煩悶せざるをえません。正義感で、道徳論だけで処理しようとすると煩悶、彼女を愛すると思えばまた煩悶、思い巡らせても、義と愛の板挟みになって苦しむだけです。
けれども、ヨセフは祈っていたのでしょう。神が天使の姿をとって現れて、「マリヤを妻として迎えよ」と言われた時、それは常識で考えたら恐ろしいことですが、ヨセフは「はい」と言って従いました。これを信仰というのです。
すべては神の導きのままに
マタイ福音書の2章を読むと、ヨセフの信仰がさらによくわかります。ヨセフはダビデの血統を引いているので、本籍地のベツレヘム――ダビデの町に行って、戸籍の調査に応じます。ところが13節を見ると、「見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい……ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている』」とあります。すると、ヨセフは素直に神の霊感に従って、はるばる異国のかなた、エジプトまで出かけました。
普通なら、「貧乏人にどうしてそんな大旅行ができるだろうか」と考えるでしょう。けれども信仰は、金があるかどうか財布と相談してから出かけるのでない。金があろうがなかろうが、命令ならばお従いします、というところに祝福の基があるのです。
さらに19節以降を読みますと、「ヘロデが死んだのち、見よ、主の使いがエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け……』。そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った」とあります。
生まれたばかりの赤ん坊がヘロデによって殺されそうになった時、その危険をいち早く予感して、エジプトに難を逃れました。そして、再び夢のお告げによって、イスラエルの地に帰りました。このようにヨセフは、幾度も夢に神のお告げを聴いて、その導きに従っております。このような霊感的な者に、神様はイエス・キリストをお託しになったのです。
またルカ福音書を読むと、イエス・キリストが生まれて間もなく、ヨセフは幼いイエスを連れてエルサレムに詣(もう)で、預言者シメオンから祝福を受けております。なお、イエスは12歳の時に父母に連れられて宮詣でをなさった、と書いてある。なんと愛情のある、そして信仰深い父親でありましょうか。このような父親に導かれる人は幸せです。
神に示される解決法
ヨセフは信仰の人でしたから、人生の岐路に立って思い悩んだ時、上よりの声に従い、上よりの御告げに従って生きました。今の人々は、ほとんど理屈だけで生きています。それで、霊感によって事を処することは、まことに少のうございます。しかし、理屈を超えたもので生きたのが、イエスの父ヨセフです。
「夢に生きる」というと、旧約聖書の創世記にあるヤコブの息子ヨセフのことを思い出します。彼はエジプトの宰相にまでなった人ですが、創世記では「夢見る者ヨセフ」として描かれております。マタイ福音書に記されているイエスの父ヨセフも同様に、夢に生きた人であります。しかもその夢は、人間の夢ではありません。神の世界のビジョンを見、神の世界の夢で割り出して地上を生きた人であります。
私たち原始福音で生きる者は、ヨセフのごとく霊感的でありたいものです。人生の矛盾や煩悶といった問題を超えしめるものは、この信仰であります。皆さん、難しい問題は頭では考えないほうがいい。祈って、神に示されて生きることが最上の解決です。そうすれば、信仰生活はもっと楽しいものになると思います。
(1960年)
本記事は、月刊誌『生命の光』838号 “Light of Life” に掲載されています。