聖書講話「実り豊かな明日へ」マルコ福音書4章2~20節
イエス・キリストは神の国の福音を説かれました。それは、人は神の生命に触れるならば、喜ばしい世界に入ることができる、というメッセージでした。現実はどうあれ、よき未来の理想を心に描き、それを実現に導くのが聖書の信仰です。
今回は、手島郁郎がマルコ福音書4章の有名な「種まきの譬(たと)え」を通して、人生において豊かに栄えゆく秘訣(ひけつ)を説いています。(編集部)
今日は、マルコ福音書4章を学びます。
イエスは譬えで多くの事を教えられたが、その教えの中で彼らにこう言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった」。そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」
マルコ福音書4章2~12節
イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬えについて尋ねた。そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬えで語られる。それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」
ここでイエス・キリストは、種まきの譬えをもって神の国の奥義を語られました。神の言(ことば)が種に譬えられているように、「神の国」は生命のことであります。「聞くには聞くが、悟らず」とあるけれども、私たちはここに集まってお話を聞くにしても、言葉の中にある生命を汲み取らなければ何にもなりません。神の国の中心は永遠の生命であります。生命というものは、種をまけば育つように、多くの実を結ぶものです。
けれども、そのことを知らず、神学者の考えた教理を信じることを福音のように思っているならば、どんなに信仰しても虚(むな)しい努力に終わります。
私たちは、イエスが言われたように、30倍、60倍、100倍の実を結んで、ほんとうに神の国の生活をしているか、どうか。もししていないならば、今年こそはキリストが言われた神の国の奥義に達する、奥義に生きる者になりとうございます。
スタートは同じでも
神の国の奥義がだれにでもわかるように、イエスは農夫のまく種に譬えて、そのまかれた状況、実が結んだようすをもって、それぞれの違いを説き明かされました。
先日のこと、B君が熊本から大阪にやって来るというので、借家探しをして大阪の町をあちこち歩いて回りました。この20年ほどの間に大阪の人口も急増して、今は600万もの人々が集まってきておりますから、住宅問題が重大です。町を歩いておりますと、気の毒なほど粗末な住宅に住んでいる人がたくさんいる。けれども一方では、大きな邸宅に住んでいる人がおります。どうしてこのようになったのだろうと思う。
今から19年前、昭和20年(1945年)の戦争末期のことです。汽車で東京に行く途中に見た神戸の町は、空襲でほとんど焼けておりました。名古屋もひどい。大阪だけが残っておりました。ところが、東京で1週間過ごして帰る時には、大阪もすっかり焼け野原になっていました。熊本も町の大半が焼けて、日本のほとんどの都市が焼け野原でした。
戦後は皆、ゼロからのスタートでした。金持ちだった人も、引揚者(ひきあげしゃ)、戦災者も、すべてが焼けてしまい何もないという点では、条件はみな同じでした。
けれども、あれから15~16年たちますと、もうすっかり社会階級ができてしまった。サラリーマンは一生サラリーマンですし、産を成した人はえらく豪奢な生活をしている。その開きはもうどうにも埋まらない、と私は思った。4つの種の譬えではないが、一体どういうわけで、ちょっとの間にこうも貧富の差がついてしまったのか。
これは物質的なことを言っているのですが、そのように成功した人たちは「この厳しい時代を切り抜けてゆこう」という明白な意識をもっていたからだと思います。
明白な志をもつ人
私は終戦後、「よし、実業家として大きいことをしよう」と考えました。そして、昭和23年の5月ごろ、伊勢で経済同友会の全国代表者会議があった時に、ほかにはだれも行き手がなかったので、南九州を代表して出かけてゆきました。
そこで、私の横には松下幸之助氏が座っておられました。今でこそ日本一の実業家になっておられますが、当時は「今、自分は難しいところなんです」と言って、すっかり頭を抱えておられました。そして私に、「私は、今はすぐ仕事にかかろうとは思わない。次の時代の産業は何だろうかということを考えているが、あなたはどう思いますか?」と質問なさるので、「貿易をやる以外にないと思います」と言いますと、「日本が世界に輸出できる物を造らずして、どうして貿易するんですか」と言われる。そして彼は「今、アメリカから大統領の特使としてドッジ(※注)がやって来ているが、彼がどういう日本経済の再建計画を示すかで、今後のことを決めようと思います」と言って、まだ何も具体的には動きだしておられませんでした。
それからしばらくして、日本にラジオ、テレビ、その他の家庭電気機器などの電化時代が来るのを見通すと、猛烈にやりだされました。やがて皆さんがご存じのように、瞬く間に松下電器産業(現・パナソニック)という世界的な規模の事業を打ち立てられました。
結局、私が思うに、今、栄えている人たちは、考えが違います。大きな考え、大きな志、明白な意識をもっておりました。これは事業でも、伝道でも同じことだと思います。
自分のことを振り返ると、神の召命に従わず、もしあのままずるずると事業をやっていたら、私も経済人として人目には金持ちで、よさそうに見えたかもしれません。だが今は、そのような誘惑も振り切って、こうやって伝道者であることは幸福だなあと思います。
昨年(1963年)11月、高野山で原始福音の聖会を開いた時、全国から千数百の人が集まってこられました。それを見て、『キリスト新聞』の編集局におられる鎌田(かまた)正さんが、「戦後の短い間に、個人でこんなに人を集めたキリスト教はない」と言って大変驚かれた。
私は伝道において成功しつつあるとは思いません。けれども考えてみれば、15年前、私が独立伝道を始めた時は、どこかの教派の援助があるわけではない、孤立無援でした。それに、無教会の先生たちからは「おまえはおかしい。異端だ」と言っていじめられました。けれども私は聖書の水準を、一流を目指していましたから、その非難にくじけませんでした。成功する人とそうでない人とでは、物の考え方、生き方に大きな違いがあります。
それで、成功した偉い人を見ると、ハーッといって見上げるような気持ちになるかもしれません。成功という言葉が悪いなら、実り豊かな生涯を送るということです。それは、ため息をつくような難しいことかというと、決してそうではない。そのコツを知った人には何でもないことです。しかし、皆さんはそれをしようとしない。
私たちは、1年ごとに栄えてゆく自分を見なければうそです。「栄えない、失敗だらけの自分でいい、これは十字架だ」と、そんな信仰ならば、栄えるはずがありません。初めから自分が勝利することを考えていない。潰(つい)え去ることを考えているからです。
ジョゼフ・ドッジ
GHQの経済顧問。第二次大戦後、米国の占領下、日本経済の自立と安定のため進められた財政金融引き締め政策(ドッジ・ライン)を立案、勧告した。
4種類の人間
また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬えがわからないのか。それでは、どうしてすべての譬えがわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのである」
マルコ福音書4章13~20節
キリストは種まきの譬えをもって、4種類の人間について語られました。イスラエルに行きますと、埃(ほこり)っぽい道があります。その道には草すら生えておりません。
また、石ころだらけの所があります。そんな石地に落ちた種は、冬になって雨季が始まると芽生えるけれども、春が過ぎて乾季ともなれば、たちまち枯れてしまう。しかし夏でも枯れない所があります。でも、そこはアザミやイバラといった強い草が繁茂(はんも)しています。そんな所に麦の種をまいても、弱い麦はとても実ることができない。ところが農夫が丹念に耕した水分の多い肥えた所では、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。
このような4種類の土地がありますが、これは単に土地のことでない。イエス様は、ご自分の周りに集まってきたたくさんの群衆の顔を見ながら、そこに4種類の人たちがいると思われたのでしょう。
実り豊かな人は、あふれるような喜びと愛の中で生きて、他をも豊かに潤します。ところが実らない人は、自分一人が生きることに精いっぱいです。
聖霊の実の実る人とは
この間、結核で独り入院している、幕屋の娘さんを見舞いました。だが、ある伝道志願の人たちは、1カ月も見舞いに行かないで平気でいる。親にも捨てられ孤独でいる人に愛がわかないのか、とたまらなくなりました。彼らはこのごろ、教会から来た人たちだが、信仰を何か理屈のことだと思っている。信仰は愛のことです。生命のことです。
先日、平岡幸子さんが召天されました。この方は、ほんとうに愛情の濃(こま)やかな人でした。地上において天使のように多くの人に仕え、愛を流しておられました。そして、小さな事柄においても心を尽くしに尽くされたお姿を忘れることができません。人の小さな愛情に対して倍にも3倍にも感謝し、感激する人でした。彼女の絶筆と思われる手紙を読んでも、大阪の志倉忠子さんから頂いたお見舞いの品々に心からの感謝を述べておられます。
その忠子さんにしても、この間火事で焼け出されて無一文の方です。けれども、その貧しい中から幸子さんを助けておられる。物ではない、真心を尽くしておられるのを見て、あなたはなんと尊いでしょう、と手を合わせました。ほんとうに私はうれしかった。
これは、このようにしなさい、と慈善や道徳を勧めるのではない。聖霊の愛に生きる者たちの交わりとは、こういうものなのです。生命の奥義を学んだ人は、聖霊の愛に生き、世の成功者とは違った意味で、30倍、60倍、100倍にも実り、他を潤してゆきます。
具体的なイメージを描く
信仰とは、ここでキリストが例を引いて言われるように、30倍、60倍、100倍にも、ますます実を結ぶことを目的とするんです。ただ、「神の国、神の国」と漠然と言うこととは違うんです。この1年、お互いどうしたら多くの実を結び、実り豊かな生涯を経験できるだろうか、そのために信仰するんです。
それには、実り豊かな刈り入れの時期、まずこれを心に描く。描いてやりだした人は、ほんとうに実り豊かになります。しかしそれをしないで、でたらめに種をまいていたら実らないのが当たり前です。1年の最後に、「実り多い1年でした」とお互い言って喜び合う、そういう姿を、イメージを、まず自分の心にはっきり具体的に描くことが大事です。
創世記に「神は自分の像(イメージ)に似せて人を創造された」とあります。信仰は天の御心を地上になしてゆくことです。「人間は罪人だ。そんなことはできない」などと思わず、聖書に書いてあるように、神の像(イメージ)のごとくあろうと私は思う。それを、抽象的に考えたらだめです。具体的に自分はこうありたい、こういうことをしたい、と思い描くことです。思いも及ばないような大きな願いを描くことです。それが、素晴らしい生涯に至るコツです。
たとえば昨年、私はイスラエルに若い人を留学生として10人ほど派遣しようと思った。けれども、だれも信じませんでした。しかし1年が過ぎてみると、20人近くがイスラエルへ留学に行きました。難しいと思ったけれども、私が心に描いたからできたのです。
キリストは、「なんじの願いのごとく、なんじになれ」と言われました。信仰とは、願(がん)に生きることです。衝動的に、行き当たりばったりに生きるのでない、神に大きな願を懸けて、それに向かって進んでゆくことです。また、「祈るときは、得たりと信ぜよ」とも言われました。病気が治った時の、うれしいようすを思い浮かべてもよい。得たりと信じて、それを心に抱いて、じーっと温めて、尊んで生きるならば、やがてそのごとくになります。
理想を奪い取られるな!
農夫が種をまくのは、実りの秋を信じているからです。私たちも、願ったことがやがて実る日が来ることを信じて、その目的に向かって一歩一歩、歩いてゆかねばなりません。
ところが、実りの少ない人生を送る人が多いのはなぜでしょうか。15節に「道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである」とあります。種というものは本来、30倍、60倍、100倍に実を結んでゆくものです。そのことを十分に知っておりませんと、私たちの心にまかれた生命の言を、途中でサタンに奪い取られてしまいます。
お互い神にあって、豊かな夢を、願いを、理想をもたねばなりません。けれどもサタンは、すぐあなたの心からよきイメージを取ろうとします。だが、私たちはそれに対して、「ノー!」と言わなければならない。また自分の願いを妨げる者に対して、「去れよ!」と言わなければならない。そのような、あなたの夢を否定したり、理想を引き下げようとする人たちと交わるのをやめなければなりません。そうでないと、いつの間にか、あなたの夢や理想は奪われてしまいます。また、イバラに覆われた種のように、雑草のような、どっちつかずの人たちと一緒に暮らしていても、実りません。
あなたが、神の言とサタンの囁(ささや)きと半分半分の生活をしていたら、ついに実ることはありません。農夫が畑の草を取って麦を育てるように、私たちが願ったことを守るために、絶えず自分の環境を整備し、自分の心を整理することが大切です。
聖なる光に照らされて
それとともに大事なことがあります。4章26節以下には「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる」とあります。
生命というものは、すくすくと伸びようとする。あの難しい地からどうやって芽を出すのかと思うほど、生命には元気があります。けれども、生命がだんだん衰えると病気になります。否、環境が難しくなると、生命は病的になって芽生えません。
宗教も生命があれば元気です。生命を失うと、宗教は融通の利かない、コチコチな形骸となってしまいます。また、生命はおのずと育ってゆくものです。キリストは、「(神の国は)一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」(マルコ福音書4章31~32節)と言われました。
生命は目に見えません。その目に見えないものが小さな種に宿っています。そして、生命は発芽して成長し、花を開いて実を結んでまいります。そして、自分が何であるか、その全貌(ぜんぼう)を現してゆきます。そのように、生命は大きな神の力というか、大自然の力に育てられるのです。
先日、私たちが聖会を行なった高野山を開山した弘法大師は、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」ということを言いました。これは聖なる光が遍く照らし、金剛のように堅固であることをいいますが、植物は太陽の光が注がれなければ育つことがないように、聖なる光、神の光に照らされなければ、私たちの魂は育ちません。大地はおのずと実を結ばしめるのであって、自分であくせくするだけでは実り豊かにはなりません。ですから私たちは、神に聴いて、神の光に導かれてやりさえすればよいのです。そこに祈りの生活があります。
めいめい生活が違い、使命が違うのですから、めいめいがなすべきことを、「神様、どうしましょうか」といって、神に教えられて歩む。神の小さな細き声を聴く、これほど大切なことはありません。何をなすべきかがよくわかります。大事なのは、祈り深い生活をして、日ごとに神の神秘な光を身に受けて、魂が成長してゆくことです。神秘な光を注入され、自分も光を放つような存在になることです。
(1964年)
本記事は、月刊誌『生命の光』841号 “Light of Life” に掲載されています。