聖書講話「信仰の杖を持つ者」マルコ福音書4章24~25節
イエス・キリストの説かれた福音の言葉は、頭で考えるだけでは、ほんとうにはわかりません。そこに込められた生命を汲(く)み、神の偉大な力を体験するときに、真に御言葉がわかるのです。
では、どのようにしてそこから生命を汲むのか。
手島郁郎はマルコ福音書の言葉を、神学や教義ではなく、禅の言葉や詩歌を通して読み、その中にある生命をつかむことを説いています。(編集部)
今日は、マルコ福音書4章のイエス・キリストの言葉から学んでまいります。
(イエスは)また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
マルコ福音書4章24~25節
主イエスは、ご自分の弟子たちに「あなたがたは聞くことがらに注意しなさい」と言われました。ここで「注意しなさい」と訳してあるギリシア語「βλεπω ブレポー」は、「注視する、観察する」というのがもともとの意味です。ある英語の聖書では「See(スィー) 観(み)よ」と訳しております。それで私は、思い切ってここを「何をあなたがたは聞くかを観よ!」、あるいは「あなたがたは聞くことを観よ!」と訳してみたい。そうすれば皆様も、この言葉の原意がよくおわかりになると思います。
聞くのは音声です。「それを『観よ』とはむちゃな話だ、音が観えるものか」と抗議なさる人もいるでしょう。けれども、ここに宗教的真理の学び方があるのです。聖書を学ぶのに、これができなければ、いくら聖書を研究しても、どんな大聖書学者になってもだめです。言葉が力となり、生命とはならないからです。聖書を学び取るには、それを単なる言葉の研究や字句の意味として理解するのではなく、いつも眼光紙背に徹して読む、言葉に盛られた中身を、生命を汲み取ることが大切です。では、「音を観る」とは何でしょう。
音を眼で観る
仏教で、観音様が尊い菩薩(ぼさつ)として尊崇されているのも、観世音(かんぜおん)菩薩が、世間のあらゆる人々の、救いを求めてその名を唱える音声(おんじょう)を観て取り、直ちに救済するありがたい菩薩だと信じられているからであります。「観音」、それが仏者の悟りの境地です。
禅宗の『無門関(注1)』にも、「もし耳をもって聴かば、まさに会(え)し難かるべし。眼処(げんしょ)に声を聞いて、まさにはじめて親し」という言葉があります。それは、「真理を耳で聴いて理解しようとするのでは、とても悟りは得られない。眼(め)で見て一瞬に状況を把握するように、眼で音を聞くことができるなら、大悟(たいご)は親しいものになる」という意味です。
キリストの言葉にしても、ただあれこれと同意語に言い換えたり、説明したり定義したりして事足れりとしているようでは、現代の聖書学者に力が出ないのも当然です。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず」(マルコ福音書4章12節)とあるごとくです。これでは神様も、「彼らは悔い改めてゆるされることがない」(12節)と言って、匙(さじ)を投げてしまわれるでしょう。
宗教的真理は、「眼処に」すなわち眼の中に声を聞くところにあります。宇宙的な音声の流れを眼で聞く、そこに真理の把握があり、神と人との共鳴共感する境地があるのです。真理が生き生きと心の眼に観えるまで visualization(ヴィジュアライゼーション)―― 映像化されてこなければ、信仰はだめです。これが大切な信仰の奥義なのです。
映像化ということについて、卑近な例を言いますと、
二人行く一人はぬれぬ時雨かな
という俳句があります。皆様は、この句をどう思われますか。
「これは句になっていない」と言う人には、句ではないかもしれません。空から雨がいっぱい降っている時に、1人がぬれて、ほかの1人はぬれないなんておかしい。そう言われれば、そうかもしれません。またある人は、この句を理屈っぽく詮議(せんぎ)して、「傘が小さいから1人ならぬれないのに、2人で行くからぬれるという意味だろう。それにしても、つまらない句だ」と言う。その人には、そうかもしれません。だが一昨日、郊外に住む教友たちを訪ねた時、急に時雨(しぐ)れだしたので、一人の姉妹が私をぬらすまいとして、後ろから傘をさしかけて歩いてくださる。その初々しいしぐさ、情のこもった心遣いに、「二人行く一人はぬれぬ時雨かな」とは、なんというよい句だろう、愛の情景だろうと思いました。
ところが今日、私が湿っぽい夕暮れ時に散歩していると、向こうから若い男女がうつむいて歩いてくる。その後から少女が悲しそうに歩いてくる。よく見るとぬれて泣いている。ああ、乙女心の哀愁。3人の間に、何かトラブルがあったのでしょう。そう思うと、同じ「二人行く一人はぬれぬ時雨かな」の句に、たまらぬように人の心の難しさが見えてきます。
「聞くことを観よ」、作者はこの句で何を言おうとしているのか。このようにこの句が意味する情景を、次から次へと心に描いてみると、かえってわからなくなるかもしれません。しかし、わかりきること以上に楽しいのは、あれこれと詩境に心をのせて味わうことです。
聖書の読み方もそうです。聖書学者のようにではなく、市井に生きる人の心で、あるいは詩人や音楽家のような感動の心をもって読んでゆくことが大切です。
聖書の言葉は人間の頭脳から出たものではなく、人々が聖霊に感動し、神によって語られたものです。私たちに大切なことは、感動ということです。短歌を作るにしても、感動ということなくして歌は生まれるものではありません。歌人として有名な斎藤茂吉(さいとう もきち)もそう言っております。感動して書かれたものは、感動して受け取らねばなりません。
神は、聖霊をもって人々を感化しつつありたもう。それで、私たちの心に感動ということが起こるのです。感動が起きて詩情がわき、思想があふれ、言葉となる。心に映像を生むのです。そうして眼処に声を聞けばこそ、それを造形し、創作してみたくもなるのです。
宗教の世界では、この神と人との共感下に祈り心が生まれます。祈りつつ生活する。生活しつつ祈る。感化するものに感動しながら生きる。そこに信仰生活が実り豊かになってゆく秘訣(ひけつ)があります。
(注1)無門関
13世紀の中国の南宋時代、無門慧開(むもん えかい)によって編まれた禅の公案集。48の節(則)から成り、本文に無門の評唱と頌(じゅ)が付されている。
聖霊による恩化
祈りの生活とは、論理的な対話のことではありません。直指人心(じきしにんしん)、私たちの深い心、魂に、神がじきじきに語りかけ、啓示したもう座であります。そればかりでなく、神霊との交感によって神秘な成長が魂に始まるほどのことです。
それはあたかも、母鳥が卵を翼の下に温めるようなことです。母鳥は黙って十余日を自分の体温で抱いて、温(ぬく)もりを与えているだけです。それが何になろうと思うでしょうが、母鳥の温かみに卵が温化されるときに、卵の内部のどろどろした液体状態は、やがて固体化してゆき、母鳥と同じような嘴(くちばし)が、羽が、足がいつしか生えそろってくるのです。そして、やがて卵の殻が破れる日には、ひなとなっている。ここに生命の原理があります。
人間は神の肖像(にすがた)であります。神はご自分の像(かたち)に似せて、人間を創造したもうた。けれども、私たち人間は罪の下に放置されて、いまだ神に似ても似つかぬどろどろした状態にあります。しかし、聖書に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリント人への第一の手紙3章16節)とあるように、神の温かい愛に孵化(ふか)されるならば、神の肖像たるべく創造された本当の自分に、霊の目覚めが始まるのです。かくして新生の第一歩が始まります。けれども、私たちが神霊の恩化と内住を拒むなら、信仰は実りのない、空(むな)しいことにすぎません。
祈禱とは、聖霊の磁場でこのような変化が霊的に創造されてゆくことなのです。私たちが祈り深く生き、日々に聖霊の恩化を受けるならば、やがては「栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像(すがた)に化す」(コリント人への第二の手紙3章18節)のです。私たちは霊化されて霊界、神の世界に入れられるために、今は地球上で苦しい胎内生活を送っています。これが私たちの人生の現実であり、また尊い意義なのです。
スピノザ(注2)は「神に酔える人」といわれたが、私たちも聖霊に酔える人でありたい。そのときに、この人生がどんなに貧しく苦しくとも、私たちは幸福です。幸福でしかたがない。天国は現に私たちのものです。永遠の生命が、すでに魂の奥底に芽を出しているからです。
聖霊に恩化され、聖霊に酔わされている者の胸には、外側の世界がどんなに木枯らしの吹きすさぶ寒さであっても、内に暖かい希望の春の喜びがわいている。私たちは、つゆだに功(いさお)のあらぬ身であるのに、なんとありがたい恩寵(おんちょう)に浴した者たちなのでしょう。ああ、天のお父様、感謝です。
(注2)バールーフ・デ・スピノザ(1632~1677年)
オランダのユダヤ系哲学者。万物の中に唯一の神が存在することを説いたため、当時のユダヤ人社会から追放された。
自分の量りで量り返される
ところが、キリストの言葉をいいかげんに聞くと、恐ろしい結果を招くことになります。言葉の真意が正しく理解されないと、冒頭の聖句のように「あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられる」からです。それは、おのおのが自分の尺度で御言葉を解釈してしまい、それに従って自ら受け取る、自らを限定してしまう結果となるのです。
けれども、御言葉を生き生きと観るがごとくに聞く者には、「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与える」(詩篇119篇130節)という聖句のごとくになるのです。御言葉が光となり、力となり、生命となるゆえんもここにあります。
「自分にも量り与えられる」とは、「自分に量り返される」という意味です。
たとえば、聖書に「神は愛なり」という言葉がありますが、この一句を皆様はどれだけ知り、信じ、体験しておられるでしょうか。皆様の、神の愛を信じている容量に従って、それだけ神の愛もあなたがたに満ちあふれてきます。逆に、神の愛をいじけて曲解している者には、曲解された神の姿しか映りません。この一句だけについて言っても、「神の愛」は、もしそれを持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、その持っているものをも取られる、という法則が、その人に働きかけてきます。
信仰の杖
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(25節)、それは論理の矛盾ではないか、そんな殺生なことがあるものか、と皆様も訝(いぶか)られることでしょう。持っていない者からどうして取り上げるというのか、否、むしろ持っていない者に与えるのが慈悲ではないか、キリストらしくもない言葉だ、と躓(つまず)かれる方があるかもしれませんね。
また、これは何か逆説的にキリストが言おうとしておられるのだ、と考えてもいけません。文字どおり、これが真理なのです。宗教の世界では、これが原則なのです。ですから「聞くことをよく注視せよ!」と、まず警告されたわけです。逆説ではありません。
この一句がわかるだけでも、皆様は信仰の実力がグーンと上がってくるでしょう。さあ、心してこの一句をよく了解してください。「持っている者は与えられる」とは、何を持つのか。言わんとするのは、御言葉を量る信仰の量り枡(ます)を持っているか、ということです。
先ほどの『無門関』に、「芭蕉拄杖(ばしょうしゅじょう)」という公案があります。
朝鮮の新羅国(しらぎのくに)から遠く支那(シナ)に仏道を求めて悟りを得た人に、芭蕉和尚という偉い禅僧がおりました。この芭蕉がある日、たくさんの門弟の前で言うのに、「おまえが拄杖子(しゅじょうす)を持っているならば、私はおまえに拄杖子を与えよう。おまえが拄杖子を持っていなければ、私はおまえから拄杖子を奪おう」と言って、自分の拄杖を示しました。門弟たちは唖然(あぜん)として、何のことかわかりませんでした。
拄杖というのは、長い杖(つえ)の一種です。これは禅僧が諸所を遍歴しながら修行する時に、杖のようにして使ったものです。芭蕉はこの拄杖に助けられては橋の壊れた河水を渡り、またこれに助けられて月のない暗夜行路を無事に村に帰ることができたのです。
しかしそれは、遠路の巡礼の旅のことばかりではありません。拄杖子は単に見える杖ではなく、仏法の修道についてある一つの真理を把握し、これに救われ、助けられて求道してきたことも指しております。世のどんな険阻(けんそ)な道も、その深さ浅さをすべて掌握できる、天地を支えるほどの杖を、その心に持っていることが大事だというのです。
信仰の人ダビデも、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたの杖はわたしを慰めます」(詩篇23篇4節)と詠(うた)っている、ここに宗教的な心境があるのです。
聖書に流れる生命を持っているか
多くのクリスチャンは、「十字架、十字架」と言って、十字架をもったいながっております。しかし、そんな口先だけの理解が何になりましょう。それでパウロは言いました、「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かである。しかし救われるわれらには、神の力だ!」(コリント人への第一の手紙1章18節)と。
イエスは、またパウロは、十字架に死んで霊に生きていた。果たして現代のクリスチャンは、そのように肉に死んで霊に生ききっているでしょうか。彼らが霊的な恩寵に浴することが少ないのも、実は「教理の十字架」を信じているにすぎないからであります。
大事なことは、そんな神学者的な言葉の説明や論理を信じるのではなく、その内面的な生命を、本質を、用法を把握して、神の力を体認することです。そうでなければ、逆にそれに縛られてしまいます。
十字架の言葉は劇薬のようなものです。用い方次第で人は滅び、または救いの力ともなるものです。「持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」とは、なんと厳(おごそ)かな命令であり、おそるべき言葉ではありませんか。
旧約聖書に現れるモーセは、不思議な神の力を帯びたカリスマ的な人物でした。エジプトで奴隷の苦役に呻(うめ)いていたイスラエルの民を、彼は神の力に満たされ、不思議な奇跡としるしをもって救い出しました。
彼は、信仰の杖ともいうべき神の生命、エジプトのどんな魔術師たちにも劣らない秘術の杖を持っておりました。持っていればこそ、偉大な業を成し遂げることができた。
約束の地に向かって荒野を旅しながら、民の飲む水がなくなった時には、モーセが手に持っている杖で岩を打つと、そこから水がわきいでました。
また、イスラエルの民の行く手をはばむアマレク人との戦いにおいても、彼が丘の頂に神の杖を手に取って立ち、手を上げればイスラエルが勝ち、手を下ろせば負けたほどでした。毒蛇の害に民が悩まされた時も、彼が祈り、神に示されたとおりに青銅の蛇を作り、竿(さお)の上に掲げ、これを仰ぎ見た者は救われたことでした。
真の信仰者とは、モーセのような人物です。神の霊的な支配下に生きる人のことです。「神の国」とは、「神の支配」ということです。もしこの神霊の生命がその人の内にあれば、すでに神の国は彼に臨在し、神の支配が彼の上に及ぶのです。
キリストは愛する弟子たちに、「さいわいなるかな、霊に貧しき者(乞食という意)、天国(神の支配)は彼らのものである」と語られました。これは、霊の乞食をすることの実力を知っている人のみが発言できる言葉です。貧しければこそ、霊の恩寵を仰いで生きてゆく、ここに信仰者の秘義があります。たとえ乏しくあっても、すべてを持つ者、これが霊の子らの姿であり、福音なのであります。
「信仰とは望むところの実体であり、見えぬものを実証していることである」とヘブル人への手紙11章1節にあります。
私たちが見ているのは外側の光景や人物であっても、その内的な実体を見証し、洞察する心が大事なのです。信仰も、ただ信じているだけでなく、現実の苦闘の中で神に寄り頼んで生きようとしはじめるとき、救いとなり、キリストが実際に私たちの内奥に生きて力となりたもうのです。
(1952年)
本記事は、月刊誌『生命の光』842号 “Light of Life” に掲載されています。