聖書講話「カリスマ的信仰」マルコ福音書5章35節~6章13節
イエス・キリストの伝道は、神の霊、聖霊が働き、その権威と力が発動するカリスマ的なものでした。現代ではよく「カリスマ○○」といって、飛び抜けて優れた能力や魅力をもつ人を「カリスマ」と呼ぶ場合が多いです。しかし聖書の中では、「神の恵み」を指します。病をいやす力や預言、不思議な知恵、そして愛――これら神に恵まれた種々の賜物こそが、カリスマなのです。(編集部)
今日は、マルコ福音書を通して、聖霊に加持された信仰とはどのようなものであるか、を学びたいと思います。第5章には、イエス・キリストが会堂司ヤイロの幼い娘を死からよみがえらせた記事が記されております。
愛と最善の神を信ぜよ
ヤイロはイエスの足元にひれ伏し、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」(23節)と言いました。イエスは彼と一緒に出かけられましたが、その途中でのことです。
イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」
マルコ福音書5章35~36節
家人から娘の死を告げられた会堂司に、キリストは「恐れるな、ただ信ぜよ」と言われ、危機的な状況下にも神に信じ抜くように、と励まされました。会堂司の家に着き、多くの人が悲しみに泣き叫ぶ中も「子供は死んだのではない。眠っているだけである」(39節)と言われ、「タリタ、クミ(少女よ、起きよ!)」との一言で少女はよみがえりました。
信仰の反対は恐れることです。神の御力を疑うことから、恐れがわくのです。多くの人にとって死は悲しくつらいことですから、恐れ惑いますが、主イエスには平安がありました。それは主イエスが、神は愛と最善の神であることを体験しておられたからです。
どのような神観をもっているかが、その人の信仰を決定します。イエス様のように、愛と善意と全能の霊なる神を知っている者には恐れがありません。どんな時にも平安です。
恐れる心があったら、祈って病をいやすことはできません。また盲目的に、ただ祈ればよいというのでもない。神は愛と善意と力の神です。祈りを聴きたもう神です。ですから、祈りが聴かれた時のことをありありと心に描いて祈ることです。
病人のためにいやしを祈る場合には、病気の姿よりもいやされた時の姿を心に描いてみることが大切です。それを、得たりと信じて祈り、神癒を仰ぐことです。いやされた姿が霊覚できるならば、不思議にどんな重い病気もいやされるものです。神には決して悪意がないと信じ切れる人には、どんな時もよい姿が心に描かれてくる。たとえその人が死ぬ場合でも、美しい死に顔が浮かんできます。そして死期が予見できます。
いやされてもいやされなくても、神は愛であります。
神は愛であり、善意であり、しかも力ある神であられますから、自分がどんなに失敗しても、泥沼のどん底からでも、悔い改めて神に立ち帰りさえすれば、神はきっと善いことをしてくださるに違いない、と私は信じております。イエス様はいつでもそうでした。
イエスを疑う人々
イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
マルコ福音書6章1~3節
ここに、ナザレの人々は「イエスにつまずいた」と記されています。イエスに対するナザレの人々の態度には、一方に驚きと尊敬がありながら、他方にはイエスに対しての嫉妬(しっと)と偏見がありました。
生来のイエスを知る人々は、「この人はマリヤの子で大工ではないか。このようなカリスマ的な知恵と奇跡的な力を、どこから得たのだろう」と言って、木工職人イエスの不思議な変化に驚嘆するとともに、疑惑をもちました。
先ごろまでイエスは、働きつつ信仰を学び、祈っておられた一介の労働者でした。それが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時、天が裂けて、聖霊が鳩のようにご自分に降(くだ)ってくるのをご覧になりました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マルコ福音書1章11節)という天の声を聴かれました。
それ以来、イエスは驚くべき霊能といやしの力、光まばゆい知恵と愛とをもつ人格になられました。そのように変貌してナザレに帰ってこられた時に、人々はイエスのあまりの変化に、一方では驚きながら、一方では信ぜられなくなったのです。
イエスは、「主の御霊がわたしに宿っている」(イザヤ書61章1節、ルカ福音書4章18節)との預言の成就を、ご自分に自覚されました。神の御霊がイエスに内在する時に、驚くべき超自然的な力がわいてきたのです。私たちはこの聖霊の力が、この生命が欲しいのです。ただ聖霊に浴して、恩寵(おんちょう)の道を進みたいのです。
信仰が神の霊力を発動する
イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。
マルコ福音書6章4~6節
外側のイエスしか知らない人々は皆、つまずきました。その内奥の霊なるキリストに真に触れていないからです。預言者は自分の郷里や親族には尊ばれない。偉大な人でも、あまり近寄って見ますと、肉的なものが目について霊的な偉さがわからないものです。それで故郷のナザレでは、イエスは何の奇跡もなさることができませんでした。ただ少数の病める者に手を按(お)いていやされただけでした。信仰のない所では神癒の業(わざ)もあまり成功しません。
ノーベル賞を受賞した大医学者アレキシス・カレル博士(※注)は、「神癒が成功する場合は、第一に祈る人が全く自己を放擲(ほうてき)して、自分の肉体性を忘れるほどに、エクスタシーの状態になって祈ること。第二は病人に信仰がなくても、傍らにいる親類、友人などが確かな信仰をもって奇跡的な治癒を念願していること。この二つの条件が必要である」と言っております。それは、私の小さい経験に照らしてみても確かにそうです。
祈る人たちの信仰が、神の霊力の発動を促すのです。イエスといえども、不信な人々の中では神癒ができなかった。否、なさりたくなかったのです。「彼らの不信仰を驚き怪しまれた」とあるとおりです。
名ばかりのクリスチャンなら、善き果(み)は結びません。けれども、真の信仰がある人たちには、不思議にいやしがなされます。これは信仰の秘密、神癒の秘密です。霊的な信仰に反感を抱く人には、神癒の祈りも避けたほうがよい。
(※注)アレキシス・カレル(1873~1944年)
フランスの外科医、生理学者。聖母マリヤが出現したといわれるルルドで見た、病のいやしの奇跡を報告した。血管縫合術や臓器移植を研究、ノーベル生理・医学賞を受賞。
自分を捨てて神なるわれに生きる
それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与えられた。
マルコ福音書6章6~7節
イエスは弟子たちを2人ずつ伝道に遣わされました。不信な人たちの中に2人で行くならば、お互いに励まし合えて力になるからでしょう。私たちも伝道に出かける時、2人で行くのは確かによいことのように思います。
またイエスは、汚れた霊を制する権威をも与えて、遣わされました。それでわかるように、キリストの伝道の目的は、言葉で真理を伝えるだけでなく、悪鬼を追い出し、病をいやし、不思議な力をもって神の国を伝えるにありました。
「神の国は言葉ではなく、力である」(コリント人への第一の手紙4章20節)と使徒パウロが言うように、神の国の本質は、聖霊の力が臨在する場にあるのです。議論ではない、実力です。私たちも汚れた霊を制するようなことをしなければなりません。
そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。
マルコ福音書6章12~13節
「悔い改める」というのは、単に道徳的な反省や後悔、懺悔(ざんげ)をすることではありません。ここでいう「悔い改め」とは、「贖われる」ということです。自縄自縛(じじょうじばく)、どうにもならない罪の枷(かせ)から聖霊によって解放されることです。古い自我を追い出して聖霊を内住せしめ、神意を行なう人間となるため、神の国の霊が私たちを支配することなのです。
それで、どうしても聖霊に触れなければ、私たちは贖われないわけです。
キリストはすっかり己を空(むな)しくし、天の父に心を任せておられました。その身に神が内住しておられたのです。パウロは、「私には善をしようとする心はあるが、それをする力がない。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっている」と言って、罪の自我の二律背反を嘆いております。それが、キリストの霊の御力によって罪から解放されるようになったと言って、歓喜しております(ローマ人への手紙7~8章)。
魂が新しく生まれ変わると、心も変わります。神なるわれ、大いなるわれが私たちの胸に誕生することこそ大事です。心魂をひっくり返す、力あるキリストの霊が到来する時に、私たちは救われるのです。そして、私たちがイエスの名を持ち運ぶ器となるならば、力ある聖霊の恩化が多くの人に及んで、福音の歴史は前進してゆくのです。
聖霊の感化力
皆さんが聖霊に満たされて進まれるならば、人々は霊的影響を受けて変わります。
先日、Mさんが「幕屋に集うKさんを一目見て、天使のような清い姿に打たれ、入信した」と感話されました。黙って座っているだけで人を感化することができたとは、ただならないことです。Kさんのように、信仰が燃えてさえいれば、かくも霊的な感動を他に与えることができるのです。聖霊の驚くべき感化が魂に及ぶ時、自我もひっくり返る。神の霊は目には見えなくても、力をもって表現されます。
夜光塗料は日中、太陽の光を吸収しているから、夜になると光を放つのです。私たちも祈り深くキリストと交わり、キリストの光を身に受けて、他に影響を与えてゆかねばなりません。ここに、霊的な福音の伝道の秘訣(ひけつ)があります。キリストの栄光の輝きを周囲に反射してゆくのです。そのようなキリストの芳香(かおり)を放つ人間となるためには、いつも謙虚に祈り深くあらねばなりません。私たちは、すっかり自分に空しくなって、徹底的に肉に死ななければなりません。それに比例してキリストが内住なさるからです。
十二弟子はイエスを見て、この先生こそメシア(救世主・キリスト)であると思って付き従ってきましたが、そのキリストが十字架にかかられた。すっかりわけがわからなくなって、世にも自分にも絶望してしまったのです。自分に死んだのです。
しかしその時、主イエスは復活して、霊なるキリストとして彼らに来臨したまいました。弟子たちは大きな喜びと力に満たされました。
私たちが自分にもこの世にも絶望した時に、今も生ける、御霊なるキリストはまざまざと来たりたもうのです。絶望感が信仰と結びつくのです。私たちは自分で自分を脱することはできませんが、失敗とか、誤解に苦しむといった逆境の時こそ、身心脱落、古い自我を脱ぎ捨て、新しくキリストを着る、よき機会となすことができます。
超自然的な権威
キリストは弟子たちに「汚れた霊を制する権威を与えられた」とありますが、権威とは、ギリシア語で「εξουσια エクスーシア」といい、「権力、より大きい支配力」という意味です。権威や支配力というものは必然的に、命令、服従の関係を人々に及ぼします。
有名な社会学者のマックス・ウェーバーは、この「支配」という社会的概念を、次の3つの型に区分しています。
1、法的支配 2、伝統的支配 3、カリスマ的支配
近代社会は、主として法律によって支配関係が規定されています。封建的な時代には、伝統的な因習制度が重大な力をもちます。しかし、カリスマ的権威をもつ偉人が出現する時に、それまでの法的支配、伝統的支配といったものをひっくり返してしまいます。
「イエスがこれらの言(ことば)を語り終えられると、群衆はその教えにひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マタイ福音書7章28~29節)とあるように、聖霊の人イエスの出現は、永いユダヤの因習を覆す力がありました。大衆の魂を揺り動かす魅力がありました。
「χαρισμα カリスマ」とは、新約聖書の中の「χαρις カリス 恩恵(めぐみ)」という語から派生していて、「恩寵の力、天賦の霊的な賜物」という意味です。現代のクリスチャンは、「恩恵」という語を抽象的に考えていますが、聖書においては、キリストの恩恵(カリス)に浴することはやがて天的な知恵、いやしの賜物、力ある業、異言、預言といった、具体的な霊的賜物として体験されるべきものでした。
激情的なまでにカリスマ的体験を重んじ、これを伝えつづけたのが、古代イスラエルの預言者たちでした。また主イエスの権威を帯びて、神の国の臨在を顕(あらわ)し示した者こそ、十二使徒であり、また使徒パウロやバルナバ、ステパノたちでした。
社会を変える人物の出現
近代社会においても、法制的ないしは伝統的に固められた社会構造が、一人の非凡な天賦の力をもつ者の出現によって、すっかりひっくり返ってしまいました。
わずか17~18歳の田舎娘ジャンヌ・ダルクによって、百年戦争で敗色の濃いフランスも救われました。青年将校ナポレオンによって、また百姓の子・羽柴秀吉によって、天下が変わったではありませんか。同様にバッハやベートーベンによって音楽の世界も変わり、ニュートンやアインシュタインによって自然科学は変化しました。短歌の世界でも、若い石川啄木が出て、歌の調子が全く変わるではありませんか。彼は26歳の若さで死んだのです。70年生きた人が、夭折(ようせつ)した一青年詩人に及ばないのはなぜでしょうか。何か彼らには、天賦の力が加持していたのではないでしょうか。
宗教も社会の因習も、カリスマ的な権威の発動によってひっくり返ってしまうのです。ここに宗教革命の原動力があります。宗教革命は思想的なことである前に、霊的な人間の発生に始まるのです。古代イスラエルの預言者たちは、ひたすら宗教的な霊力、神の恩恵(カリス)を仰ぎ祈りました。そして不思議なカリスマ的力を経験し、これによって民を治め、民を警(いまし)めていました。
モーセ、ヨシュアに始まり、預言者のすべてが神の霊的権威に押し出されて立ったのです。それで素晴らしかったのです。このカリスマ力を余すところなくもっておられたのが、イエス・キリストでした。「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恩恵(めぐみ)とまこととに満ちていた」(ヨハネ福音書1章14節)とあるとおりです。
私たちも、このキリストの恩恵の力を証ししてゆかなければなりません。この霊的な恩寵の力が自分を救い、他を救うのです。神の霊以外に何ものも要しない、というのが私たちの信念です。そのためにはどうしたらよいのか。心を乏しくして、キリストの霊が住みたもうような状態にさえすればよいのです。全く神に信頼して聖霊の人となることです。
このカリスマ的力を売り物にすれば新興宗教のように儲(もう)かる、と言う人がいます。しかし、私たちは貧しくともキリストの弟子です。地上的に貧しければこそ、霊的に豊かであります。預言者がカリスマ的な力で立ったのは、奇跡を誇示するためではなく、奇跡的な現象をもって民の惰眠を覚醒せしめ、人々の惰性的な生き方を打破するためです。ここが、預言者のカリスマ的な力の信仰と、民間の御利益的な新興宗教との違いです。
私たちは、ますますカリスマ的な力に満たされるように、自分を空しくして聖霊だけを帯する人にならなければなりません。聖霊は神の御旨、神の愛に従順に歩もうとする者にのみ与えられます。イエス・キリストも、己を空しくして神の道に従い、父の愛に生かされ、ただ御霊の法則に従って生き死にされたればこそ、墓を蹴破って復活されたのです。
私たちも己を空しくして、すなわち己(おの)が肉を十字架につけて、神の道に従うことによってのみ、霊に満たされるのです。これは難しいことではありません。肉なるものが聖霊に圧倒されてきて、おのずと神に従わせられるからです。
(1953年)
本記事は、月刊誌『生命の光』843号 “Light of Life” に掲載されています。