信仰随想「未生以前の父」

闇の夜に鳴かぬ鴉(からす)の声きけば
生まれぬ前(さき)の父ぞ恋しき

アヒルの卵も、鶏の卵も、よく似ています。それで鶏は、アヒルの卵も一緒に自分の翼の下で温め、孵(かえ)したりするといいます。

そのようなアヒルの卵はひよことなって、しばらくは鶏の母鳥やひなたちと遊んでいますが、日がたつにつれて、鶏のひよことは違った育ち方をして、何かしら川の畔(ほとり)や池の水辺を恋い慕いはじめます。

そしてある時、ざんぶと川の中に飛び込み、泳いで向こう岸に渡ってしまいます。それっきり、育てた鶏の所には帰ってきません。向こう岸には同類のアヒルたちがいるからです。もし、鶏が水の中に入ったら、泳げずにおぼれ死にますが、アヒルは水の中を泳ぎ喜びます。

聖書には「シャコは、おのれの産まざる卵をいだく」(エレミヤ書17章11節)とありますが、シャコという鳥は、母鳥になりたい本能からか、分別がつかないためなのか、ほかの鳥の卵を孵したりするものもいるといいます。

しかしその卵がひなとなり、成長するにつれて、育てられた巣を離れて、自分が産み落とされた巣を探し出して、ついに生みの親鳥のもとに帰ってしまい、そこに居着いて、もう元の巣には戻ろうとはしないのだそうです。

これは珍しい習性ですが、卵の殻の中からは見えないはずですのに、どうして未生以前の父母を知る感性があるのでしょうか? 不思議でなりません。

鮭(さけ)という魚は、川で卵から孵って、海で大きく育ちます。もう40年も前の初秋のこと、南サハリン(樺太)の川に鮭の大群が上ってくるのを見たことがあります。まことにすさまじいものでして、どんどん上流の浅瀬まで上ってきまして、川底に水が流れているのか、鮭が泳いで底を掘るのか、水の流れるようすもわからぬぐらい、いっぱい川に上ってきて、頭や尻尾で小石の穴を掘っては、赤い玉のような卵を産みつけていました。

それが孵化(ふか)して稚魚となり、海に下り、4年がかりで北部太平洋を一周して、自分が生まれた川へ必ず帰ってきて、そこで産卵して死ぬのだと聞きました。これを「鮭の里帰り」というのだそうですが、生物にはこんな不思議な”帰郷”本能があります。

霊魂の郷愁

旧約の預言者イザヤやエレミヤは、詩篇の作者のごとく、「母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。わたしを遠く離れないでください」(詩篇22篇10~11節)と、「未生以前の父」を神として発見した自覚が、彼らをして大預言者たらしめております。

私たちも、この”うつせみの世”に肉の父母に育てられ、憂欝(ゆううつ)で不安な社会をねぐらにして、日々過ごしております。しかし、魂に物心がつきはじめますと、私たちにはやみがたい霊魂の郷愁(ホームシック)が起こります。どうにも落ち着けず、ついに決心してざんぶとヨルダン川に投げ身し、大死一番、バプテスマの禊(みそぎ)をして、魂の父の待つ彼岸を恋い慕いつつ、魂は永遠のホームに帰ろうと願います。これこそ、宗教心の芽生えです。

聖アウグスチヌスは「神よ! あなたはわれらを、あなたに向かって造りたまいました。それで、われらの心は神の懐に憩うまでは平安(やすき)を得ません」と、有名な『告白』に書いております。

一休禅師ゆかりの琵琶湖畔の浮御堂

一休禅師も宗教的に悩み抜いて、琵琶湖上の舟の上で一夜を明かしつつあった時、闇夜(やみよ)にカラスが一声鳴くのを聞いて大悟しました。

「闇の夜に鳴かぬ鴉の声きけば生まれぬ前の父ぞ恋しき」という道歌のごとくでした。

闇の夜に黒いカラスがいても見えませんが、それが鳴かぬカラスなら、その声を聞きようもありません。しかし、宗教的真理は逆説的でして、非合理な矛盾を超えてこそ、神や仏は悟れるのです。この「闇の夜に鳴かぬ鴉の声」を聞くことが、生まれぬ前の父を恋い慕う宗教心となってゆくのです。

隠れたところで見たもう父

まことに、この天地を造られた神は全宇宙の創造者であるばかりでなく、いと小さき私たちの霊魂の生みの父ともいうべきお方です。

私自身も幼いころ、父母の愛に渇いて、うら寂しい気持ちでおります時、イエス・キリストが「隠れたるに見たもう天の父は、生きて私たちを愛し育てたもう」と言っておられる聖書の箇所を読んでうれし泣きに泣けてたまりませんでした。

イエス・キリストは、弟子たちが「祈ることを教えてください」と願いますと、「天にましますわれらの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ、御国を来たらせたまえ」と祈れ、と言われました。この「天にまします父」が、私たちの霊魂に、「地球に生まれてこい」とお命じになったので、生まれ出たのである、と知りました。

それで、人間は地上で勝手気ままな生活を送ってはならぬ。私たちを地上に送り込まれた天の父の御意(みこころ)を考えつつ、神を拝してゆく時にこそ、ほんとうに尊く、意義ある生活が送れるのであります。

宗教生活は神を拝みつつ一生を送ることですが、その目的は「神の栄光を現すこと」にあります。まことに、神様が私たちを栄光の飾りにでもしていただけるほどに、神の喜びとなり、少しでもご満足いただける境涯に入りたいものだ、と思うようになりました。

神は全宇宙の創造者であり、絶対者であるばかりでなく、私たちの魂の父です。ですから、主イエスは「お父様、アバ、父よ」(「アバ」は、「お父さん」という意味のアラム語)と言って、子供が父親に頼るように神に頼り祈られました。また、神が人を愛されること、「父がその子供を憐れむように、主はおのれを畏れる者を憐れまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらの塵(ちり)であることを覚えていられるからである」(詩篇103篇)との聖句そのままです。

私たちが、どのように泥まみれ、ごみ塵の中に埋もれている身であっても、神は人間を顧み、ご自分の栄光の飾りにしようとさえ思われて、慈(いつく)しまれるのです。

父と子、水入らずで

イエス・キリストが叫ばれた原始福音は、まことに単純で、どんな幼な子でも信じることができます。

この単純な信仰を、難しい宗教哲学のようにしてわからなくするのが神学者たちです。まことに神と私たちとの関係は、親子のような親しい関係です。

ただ神に対して、子供が父に対してもつような信頼と愛があれば、それで十分ですし、父なる神もまた私たちを、立派に、幸福になってほしいと願って、いろいろと愛し導き、憐れみ、霊感して力づけてくださるのです。

私たちは、修養して立派に道徳を身につけ、完全にならなければ、神の御前に出られないと思いがちですが、それよりも、元来が神と人間との関係は父子(おやこ)なのですから、父子水入らずで、親しく交わり、他人行儀でなく、じかに神様にまみえて、直接に神に言葉を申し上げるのがよいのです。これが祈りです。

何も、神と人との間に、神父や牧師、坊さんみたいな職業宗教家が立ちはだかって中継ぎし、もったいぶった儀式を通さなければ神を拝めない、というようなものではありません。

鳥類のアヒルでも、シャコでも、魚の鮭でも未生以前の故郷を慕い、生まれ出る前の父母の居場所を知って、帰ってゆくのを見ますと、私たち万物の霊長たる人間が、自分たちを造られた神の御許(みもと)に帰らずにおれましょうか!

十字架の愛

諺(ことわざ)に「焼け野の雉子(きぎす)、夜の鶴」といいます。私が子供のころは、冬枯れの野原に火をつけて、野焼きしたものでした。草むらの中に巣びなを育てている雉子(きじ)が火事に驚いて飛び立ちますが、またすぐ戻ってきて、自分が焼かれるのもかまわず、翼の下にひなを抱いたまま、逃げずに死んでいるのを見たものでした。また、鶴は冬の雪降る寒い夜には、自分の羽で巣びなを覆って温めつづけます。

このように鳥獣でさえ親が子を思う心は切ないもので、どんなに自分の身が危険であろうと、どんなに苦しかろうと、わが子のためには自分を犠牲にしても厭(いと)わない心があります。

イエス・キリストの内にあった、父なる神の御霊は、十字架にかかって死んでも人類を魂の死である罪から救おうと、苦心しておられます。

欠陥のある病弱な子ほど、親の心には不憫(ふびん)でならず、特別に愛(いと)おしむといいます。そのように、いくたびか私が人生苦に泣き悲しんだ時、いつも見えない神の御手の保護下に守られ、救われてきたことを想うと、神の御愛に涙がとめどなく私のほほを伝ってやみません。

雉子鳴く焼け野の小野の古小道(ふるおみち)
もとの心を知る人ぞなき

良寛

(1973年)


本記事は、月刊誌『生命の光』855号 “Light of Life” に掲載されています。