聖書講話「復活の生命(後編)」マルコ福音書16章2~6節

キリスト教は、イエス・キリストの十字架による死と復活が、大前提となっています。そしてそれは、ただ静かに教義を信じたり、儀式を繰り返したりすることではありません。キリストの内にあった、死人がよみがえる奇跡を起こすほどのダイナミックな生命に生かされることです。
前回に続いて、復活節の集会で語られたマルコ福音書16章の講話を掲載いたします。(編集部)

そして週の初めの日に、(マグダラのマリヤたちは)早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない」

マルコ福音書16章2~6節

このマルコ福音書の箇所には、「イエスはよみがえって」とあります。この「よみがえる」とは、「εγειρω エゲイロー 起き上がる」というギリシア語ですが、立ち上がるような、ダイナミックな驚くべき力がわき上がってくる、これが復活の原動力となります。同様の生命が私たちに脈々とみなぎってくる時に、本当の意味で救われるのであります。

キリスト教では「救い」といいますが、「救われる」とは、イエス・キリストが十字架にかかってくださったから私たちが罪から救われた、といった教義を信じることではない。救ってやまない生命、イエス・キリストに宿ったあの血汐(ちしお)が、私たちにもたぎってくることをいうのです。それでキリストは、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、永遠に死を見ない!」とまで言われるのです。

死人をもよみがえらせるような、ダイナミックなあふれる生命、悲しみに打ちしおれている者を揺り動かして生かしめる力、この生命が注がれることをキリストの宗教というのです。

復活節を祝うとは

私たちは置かれた環境に影響されながら生きています。暑いとグンニャリとなり、寒いと縮こまってしまう。けれども生命力がみなぎっている時には、寒さにもめげず、暑さも物ともせず、幅広い行動を起こすことができます。死ぬような悲しい状況に至っても、「どっこい死ぬものか」といってはね返します。そのような抵抗力が私たちにみなぎってくる。

復活節を迎えましたが、これはただイエス・キリストがよみがえったという奇跡を信じるのではない。イエスをよみがえらせた生命は今も満ちあふれているのであって、この生命を信じる者は、たとい死んでも生きる。どんなに行き詰まった境遇に陥っても、どんな病気にかかっても、逆境をはね返して生き返ることができる。この復活の生命を受け取るところに、復活節を祝う本当の意味があります。「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」と聖書にあるように、イエス・キリストは、ただご自分だけが復活してみせるために生き返られたのではない。すべて信じる者の初穂となって、よみがえりたもうたのです。植物でも、一つの蕾(つぼみ)が出て花が開くと、次々と多くの花が咲きはじめるように、私たちにもキリストに似た復活の花が開き、しぼんだ心も体も生き返ることができるのです。

花が咲き乱れるハツォルの丘(イスラエル北部)

そのためには、どうしたらよいのか。まず自分に、イエス・キリストのような生き生きとした生命がみなぎっているかどうかを問うてください。「ノー」と思われるかもしれないが、それぞれ今までを振り返ってみると、皆さんも多少、経験があられると思います、「あの時の自分は、はち切れるような生命で活動できたなあ。しかしそれも瞬間的、一時的だったという気がする」。ではどうしたら、いつでも自分を生き生きと保てるのか。イエスは、「わたしが地上に来たのは、人々にあふれるような愛の生命を与えるためである」と言われた。もしこの生命がないと思われるならば、「神様、私は生き生きとした人間でありたい。生命がみなぎっている人間でありたい」と願わなければなりません。

信仰とはこの生命に生きること

イエスは、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言われました。イエスが与えようとする生命は、捨てても捨てても突き上げてくるような生命。そして、人に尽くしても尽くしても尽くしきれないと思うほどの愛の生命。私たち人間の生物学的な命とは、質的に違うタイプの生命です。

その生命が欠けているから、すべてのことに行き詰まり、すべてが灰色に見える。人生に何も希望がもてないのです。そして、「生きるとは、こんなに墓場のようにつらいことだろうか」と嘆く。私たちがほんとうに生き生きとした人生を送ろうと思うなら、生まれながらもっている生物的な、すぐ擦り減ってしまう命では駄目です。もう一つの天の生命が圧倒するように臨んでくる時に、自分でも驚くような生涯を繰り広げてゆくことができる。だれでも、この生命がみなぎってくるならば、ただならぬことをなしうるのです。

私は自分のことについても時々、不思議に思うことがある。夏に聖会をする時、3~4日の間、講師は私ただ一人。そして炎天の真夏、だれでもグンニャリとなってしまうような時に、朝から夜遅くまで立て続けに聖書を語って語ってやまない、あのわき上がる生命はどういうところから自分に来たんだろう、と。神様が私を支えてくださったのでなければ、こんなことができるだろうか。これは、人間が生まれつきもっているのとは違うもう一つの生命、流しても流してもあふれてくるような生命があるからです。

この生命には、悲しみに打ちひしがれ、人生に悩み苦しんでいる者を不思議にいやす力があります。ですから、この生命を伝えることを伝道といい、この生命に生きることを信仰というのです。これこそ、キリストが「我を信ずる者は死ぬとも生きん」と言われるような、死からも、病からも、人生の逆境からも救う力です。パウロは「わたしは福音を恥としない。それは、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」(ローマ人への手紙1章16節)と申しました。私たちに必要なのは、それです。

ダイナミックなキリストの生命

この生命は、自分のものではありません。したがって、自分に閉じこもる人にはやって来ません。新しい生命がやって来る時、蝉(せみ)が古い殻を脱いで新しい羽を広げるように、自分を脱ぐことをしない人には与えられないのです。

自分の殻を破ると自分がなくなるのではないかと思って、自分に閉じこもる。それでは、復活の生命はやって来ません。先日行なった生駒山(いこまやま)での伝道者のゼミナールでも、終わった後はみんな意気揚々として帰っていったが、そうでない人たちもいました。彼らは自分の殻に閉じこもって、大きな驚くべき生命の補給が全然行なわれないから、気息奄々(きそくえんえん)として伝道している。だが、そのような小さな自分を圧倒する生命があるのです。

多くの人は、「復活の生命」という言葉は知っていても、その実体が何であるかを知りません。しかし、イエス・キリストのご生涯を見てみると、よくわかる。この圧倒するように臨んでくる復活の生命が大事なのです。これに生かされた時、どんな人にも尋常ならぬ生き方が始まります。だから福音なのです。

大事なことは、銘々が「自分にはイエス・キリストのような生き生きとした生命があるかしら? 奇跡を引き起こすような生命があるかしら?」と問うことです。たとえそのような生命がなくとも、イエスを信じたいと思うかどうかです。多くの人が、嵐を一言で鎮(しず)めるような、ダイナミックなイエス・キリストを信ぜずに、キリストを神学や議論のことにしている。また、十字架にかかって悲しそうにしている女性的なキリストを思い描いて、それをイエス様だと思っている。結局それは、人間の心が作り出した信仰です。

ところが、聖書に書いてあるイエス・キリストは、違います。男性的で、野性的です。弾力があり、不屈で行き詰まることを知りません。そして死ぬような、絶望的で真っ暗な時でも、光と生命に満ちている。これがイエス・キリストです。こういう信仰から生命が来る。これを欠いでは、信仰の根本が違うから、どんなにやっても駄目です。

古い自分を叩き割って

どうぞ、今までの自分の殻を破って、一歩踏み出すことです。「神様、自分を捨てて、われを忘れてやらせてください。危険をも顧みずにやってみます」と願いはじめる時に、このような生命がやって来ます。しかし、自分を温存している者には、この生命は来ない!

フランスの哲学者ベルクソン(注1)が、「エラン・ヴィタール(生命の飛躍)」ということを言っています。創造的な人間、霊的な神秘な人間は皆、このエラン・ヴィタールをもっている。しかし、生命が飛躍するためには、いつでも自分を脱ぎ捨てる覚悟がなければならない。蝶(ちょう)が、さなぎの殻を着たまま蝶になりたいと言ったって、蝶にはなれぬのと同様です。

創造的な進化はどのように行なわれるのか。一つには、内側からの新しい生命の突き上げが必要です。もう一つは、いつでも自分を捨てることができるということ、すなわち、”開かれた魂”であるときに起こります。開かれた魂は、いつでも自分を開け放していますから生命が突き上げてくる。しかし、閉ざされた魂には突き上げてこない。保守的に、自分に閉じこもる者には、ダイナミックなエラン・ヴィタール、創造的進化は経験できません。

それで、宗教にも二通りあります。向上一路、進化してやまないダイナミック(動的)な宗教と、儀式、教理、神学をこととするスタティック(静的)で現状維持的な宗教です。
イエス・キリストの宗教は、今のキリスト教のように静かなものではない。ダイナミックな生命が突き上げてくる宗教です。いつでも自分を叩(たた)き割ってひたぶるに前進してやまない生命、もし隣に打ちしおれている者がいるならば、その人をも抱き上げて、さあ一緒に行こうではないか! という激しい愛のたぎる宗教です。

ですから私は、「この愛がない者は、原始福音の伝道者になるな」と言うのです。自分が復活の生命に満ちていないで、どうして生けるキリストの生命の香りを伝えることができるというのか。

数日前、ある伝道者が、「先生、私の愛する人が危篤です。どうか死なないように祈ってください」と電話をかけてきました。その人が普通の人なら、私はとがめません。しかし私は、「君も伝道者なら、君が祈ったらいいじゃないか。遠隔祈禱をお願いしますなどと、くだらないことをなぜぼくに言ってくるか。なぜ君が、本気になって愛する者のために祈らないのか」と、電話で叱(しか)りつけました。

そもそも、神でない私に頼ろうとすることが間違いのもとです。なぜ自分がキリストを見上げて、神から流れてくる生命に満たされて、その人のために祈ろうとしないのか。

イエスが「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言われるように、自己保存では駄目です。愛する者のために自分を捨てようと思う者に、復活の生命が内側からわき上がってくる。これこそイエス・キリストが病める者をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、盲人の目を開き、そしてご自身が十字架に磔(はりつけ)にされてもよみがえられた秘訣(ひけつ)であります。

(注1)アンリ・ベルクソン(1859~1941年)

フランスの哲学者。1907年に発表した『創造的進化』の中で、生物の進化には、生をより高める根源的な力である「エラン・ヴィタール(生命の飛躍)」が働き、突然変異が起きることを説く。

現在を生かしてやまないもの

私たちにこの生命が欠けてきますと、宗教が未来のこととなります。そして、「死んであの世に行ったら、幸福になるでしょう」などと言う。しかし、この世で真の幸福を知らない者が、また宗教の糸口も知らぬ者が、あの世に行ってもどうにかなるものですか。

イエス・キリストは、「明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われた。宗教を明日のこととすべきではありません。現在に生きることが、私たちの宗教です。

私はこのたび、アメリカを訪ねました時に、霊的リバイバル運動のフルゴスペル(注2)の中心人物ジェームズ・ブラウン牧師の教会に行きました。その教会堂は町外れの墓場の横にありましたが、公園のように美しい所でした。その場で私は思わず、少年時代から愛誦(あいしょう)していた、米国の詩人H・W・ロングフェローの「人生の詩篇」を、始めから終わりまで暗誦しましたら、ブラウン牧師はびっくりしていました。その中に、こんな言葉があります。

 Trust no Future, howe’er pleasant!
 Let the dead Past bury its dead!
 Act,— act in the living Present!
 Heart within, and God o’erhead!

 「未来」に頼るなかれ、いかに愉(たの)しくあっても!
 死んだ「過去」をして、その死者を葬らしめよ!
 行動せよ、行動せよ、生ける「現在」に!
 内には心(ハート)、頭上には神!

(手島郁郎訳)

互いに、「現在に生きよう。私たちの宗教は死後のことではなく、現在、悩み苦しみ、悲しんでいる人たちの友となることだ」と言いながら話が弾み、楽しい時を過ごしました。

私たちが生き生きとした生命を失いますと、宗教が未来のこととなる。しかし、復活の生命がやって来て信仰がリバイバルしてくると、「今、生きよう。今日やろう」と、現在が生き返ってくる。現在、役に立たない宗教は無用です。現在を生かしてやまないのが、キリストの宗教です。

(注2)フルゴスペル

正式には国際フルゴスペル実業家親交会。聖霊の注ぎを重んじるペンテコステ主義を基調とした、クリスチャンの実業家や信徒男性のための親交会。カリフォルニア州の酪農家でアルメニア系2世のデモス・シャカリアンが1952年に創立。

信仰を揺り動かす

私たちは時として、信仰が低迷し、生活が行き詰まって滅入(めい)ることがあります。そこで、もうしかたないといってあきらめたら、それはキリストが与えようとされる復活の生命がない証拠です。そんな時に、どうしたら息吹き返すことができるか。

生き生きとした復活の生命、冬枯れのような墓場をもひっくり返して目覚めてくる生命を息吹き返すには、一度でもその生命を経験した人は、それをもっていた時のことを思い出してみる。すると生命がよみがえってくる。またそうでない人は、教友のうちの霊的な人、他の人の信仰を揺り動かしてやまないような人の話を聞くとよい。そうするうちにその生命が息吹いてきます。多くの人が、『生命の光』を読むだけで救われるというのも、そういうわけです。元来、皆に信仰があるんです。それを呼び覚ますために、霊感的な人物に出会う、霊感的な本を読む、また霊感を揺するような賛美歌をうたいながら、自分の魂を揺り動かすことが大事です。

私たちには、自分自身にあふれるような生命が、燃ゆるような愛が沸騰しているかどうかが問題です。もしそうでないなら、「主様、その生命を与えてください」と率直に祈ることが必要です。復活の生命がみなぎってさえくれば、若々しく新鮮になる。そして、子供のように目を輝かせながら、何事にも関心をもちだして、一切合財が自分の向上発展のために役立つように思えてしかたがなくなる。これは、老いぼれることを知らない若い生命がみなぎっている証拠です。私たちに必要なのは、これです。このキリストの生命に刺激され、霊感されることです。キリストは、今も十字架上より血を流しながら、この生命を与えようとしておられる。

今日は、全世界の多くのクリスチャンによって復活節が記念されておりますが、私たちの記念はほかと違わなければなりません。私たちは、キリストが与えようとしておられる驚くべきダイナミックな生命を吸収し、その生命を実生活に活用させながら、積極的な信仰生涯を送りたいと願います。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』858号 “Light of Life” に掲載されています。