信仰講話「地上に天を見いだす目」
―キリスト教の瞑想について―

私たちが生きている世界は、日々、労苦やつらい出来事が絶えません。そんな地上にありながらも、天国にいるような心地で生きられたらなんとよいでしょう。霊の目が開け、現在生きている環境の中で神ご自身に触れることこそ、聖書の説くところです。そのために必要なことは……。
今回は、手島郁郎が霊性の開眼にとって大事な「瞑想(めいそう)の祈り」について語っている講話です。(編集部)

主イエスは荒野で四十日四十夜、食を忘れて瞑想なさり、しばしばガリラヤの山地で、独り夜を徹しても祈り、瞑想し、神の声を聴かれました。瞑想の山野に、露けき朝の滴りを汲む人は幸いです。祈りというと、大声で雄たけびして心を集中し、我を忘れて祈るのもよい。しかし、それでは自分が一方的に祈るだけで、神の声を聴くことができません。真に神の声を魂の内奥に聴くには、もっと静かな、深い瞑想の祈りが必要なのです。

ラッシュアワーで人込みにもまれて、泡のように生きなければならぬのが現代人ですが、忙しく目まぐるしい現代文明に生きる私たちこそ、時に静かに心を憩わしめ、自分自身(魂)を回復させねばならないと思います。人間が新生するために必要なことは、瞑想の時間をもつことです。瞑想とは、神の懐に帰ることです。この夏は大自然に囲まれた環境で聖会がありますが、瞑想するのにちょうどよい機会だと思います。

キリストの瞑想

瞑想というと、仏教の「禅の瞑想」を瞑想のように、人は思いがちです。座禅しながら無念無想になるということが禅の極致ですけれども、ただ座禅を組むことが瞑想ではありません。そこに、キリスト教の瞑想(メディテーション)と、仏教やヨガの瞑想との違いがあります。

一般のクリスチャンは、瞑想ということをよく知っていません。これは今のキリスト教の大きな欠陥だと思います。ただ目をつぶっておることが瞑想ではない。また、エクスタシー状態になることを瞑想と思うならば、これも間違いです。

イエス・キリストは、空飛ぶ鳥や野の花を指さして、「空の鳥を見よ、野の百合(ゆり)を見よ。そこに神の姿、神の心を見よ」と説きたまいました。大自然は神の黙示です。神の創造したもうた天然のすべてを通して、神の声なき奥義を悟り、神の量りがたき叡智(えいち)を知ることができます。空の鳥に、野の花に、見えざる御手を見ることができる。この見える力が、「瞑想」ということです。

私たちは瞑想の境地が開けるにつれて、自分の住んでいる環境がいよいよわかってこなければ駄目です。人間は、この地球上で大自然に囲まれて生きているが、「我らは神の中に生き、動き、在(あ)るなり」(使徒行伝17章28節)とパウロが言ったように、神の中に在る。

しかし、「神の中にいるのかなあ? 物質の中にいるじゃないか」と思う人があるならば、これはものを見る力がないからです。物は見えるけれども、もっと大事なインサイト(洞察力)が開けないから、物質の外側だけを見る。自然の美しさは見える。しかし、その美しさの奥にあるもの、神の御手がわかるようにならなければ、本当のキリストの瞑想ではない。これは、今のクリスチャンに足りない点であります。

しかし優れた霊的な先人たちは、大自然を見て、神の懐にいることができました。たとえば、アッシジの聖フランシスコは晩年、盲目の目を白昼の太陽に向けて、「おお、わが兄弟よ」と言って、声なき温かい声を聴きました。人の美しい愛を見ても、そこに最も尊いものを見いだしました。

人間と自然と聖書

私たちは、瞑想する力を失いますと、環境の奴隷となります。地上の物質界しか見えず、物質にしがみつきます。そして、非常に焦ります。

人間とは何でしょうか。神の子である尊さ、日々感謝と感激に生きて「ああ、なんと私は神の懐にいるだろうか」と思う人は、物質の中にあっても物質の中にいると思いません。

一般のキリスト教では、とかく物質をはかないものとして卑しめます。宗教と物質は違うのか。否、そうではない。一切の物質――山川草木、花あり、動物あり、森羅万象、一切は神の造りたもうたものである以上、そのすべてに神の御姿を見る心を養うことが大事です。イエス・キリストは、「空を飛ぶ雀(すずめ)でさえ、父なる神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることがない」と言って、信仰を養うことを教えられました。

また、「あなたがたは、刈り入れ時が来るまでには、まだ4カ月あると言っているが、目を上げて畑を見よ。麦は、はや色づいて刈り入れを待っている」と言って、青い畑を見ながら、すでに実りの秋を見ることができたのが、イエス・キリストです。

このように、人間である自分と自然と聖書、この3つが1つに合わせられて学び読まれるときに、信仰は正しいですね。私の聖書の読み方がどうも普通のクリスチャンと違うと言われるのも、それは根本的にこの3つを基調にしているからです。私たちの置かれた環境(大自然)、自分、イスラエルの歴史を通して書かれた聖書、ここから学ぶことを会得なさいますと、もっと信仰の高嶺(たかね)に上ってゆかれると思うのです。

環境の主人公であれ

私は以前、「霊想の七曜経」という文章を発表したことがあります。日月火水木金土と、それぞれの曜日に合わせて、日や月、また火や水について、それにちなんだ聖書の言葉を引用しつつ瞑想することを通して、聖書が言おうとする奥義を体得するためです。

今日は日曜日である。
「天の父はその日を悪しき者にも、善き者の上にも昇らせ、義(ただ)しき者にも義しからぬ者にも雨を降らせたもう」(マタイ福音書5章45節)。太陽が生きとし生けるものに光と熱を放射し、地上の万物を育成し生存せしめるように、霊界では、キリストが義の日輪として、在りとしあらゆる霊魂に光明と熱い愛を注いで、一視同仁に化育(けいく)したもうのである。……
内村鑑三は、逗子(ずし)の丘に立って、太平洋に没しゆく荘厳な落日に感嘆して、手を振りつつ、「おお、わが太陽よ! Good-bye! Good-bye!」と幾度も叫んで、両頰(りょうほほ)に涙をたたえた。
また、太平洋上に躍り昇る太陽を見ては漁夫の子、日蓮は、大日如来(だいにちにょらい)を懐胎する経験に入った。彼らは大自然に神の衣裳(いしょう)を見たのである。森羅万象、宇宙の万物、これ創造の神霊が造り織り成すものであるからには、万物に主の面影を認めうるはずである。卑しい私すら、主の作品である以上、主の面影を映す鏡とならねばならぬ義務がある。……

太平洋に昇る朝日

それで、私たちの置かれたこの環境をどう見るか? 人は、物質界は神と関係のないものだと思う。しかし、詩篇19篇に、

 もろもろの天は神の栄光をあらわし、
 大空はみ手のわざをしめす。

とあるように、聖書は、この大宇宙は神の作品である、とうたっています。

たとえば、ロダンの造った「考える人」という有名な銅像がありますが、それを見ながら「ああ、美しいなあ」と感動しつつ、作者であるロダンの芸術家としての素晴らしさを思いますね。それと同様に私たちは、自分の置かれたこの世界を見ながら、造り主を拝さなければならない。しかしまた一方、この造り主の創造したもうた世界を、現代の文明がいかに蝕(むしば)みつつあるかということも、恐れねばならない。ここに、私たちが瞑想の工夫をする必要があると思います。

都会生活にただもまれていると、あまりにひどい雑踏のため、瞑想ということができなくなる。息つく暇もないラッシュの中で、くたくたに疲労し、自分を擦り減らしてしまう。こんな姿が神の子の姿であるはずがない。現代文明は焦心地獄であって、この濁流に押し流されて憔悴(しょうすい)したら、ついに人間は自分の置かれた環境を見失います。機械の奴隷のようになって目まぐるしく追われて暮らしている。一生それだったら牛馬と変わりません。

大事なことは、人間が環境の主人公であるということです。「随処(ずいしょ)に主となれば、立処みな真」、人間は神の子である。私たちが置かれている場を、もう一度自分の目で見ることです。主の子らしく、運命の主人公として、運命をも支配して生きうるんです。

しかし、自分で見るといっても、なかなか自分で見ることはできません。今の世の中の思想で見たり、いろいろと人から入れ知恵された知恵で見たりしがちです。私たちは、神の目をもって見ることが大切です。

大自然から学ぶ

私たちは、聖書だけが神の御心を書いたものだと思いやすい。けれどもパウロは、「神の見えざる永遠の能力(ちから)と神性(神のご性質)とは、被造物の中に、世界の創造以来、悟りえて明らかに見うるものだ」(ローマ人への手紙1章20節)と言っております。こういう言葉は、いわゆる教理神学者は読みたくないんです。それで、「ここはパウロの何かの間違いではなかったろうか」などといろいろ批判します。しかし、私はそう思いません。

イエス・キリストは、パウロ以上にもっと自然を見て学ばれました。

内村鑑三先生も、「神の著せし書物に2つある。聖書と自然界(全宇宙)である。両者を知りて、初めて神を知るにおいて全し。神の探求と称して、いたずらに悩中に思索を繰り返すは、労して効なき業(わざ)である。むしろ神の作物について直接に神を学ぶべきである」と言いました。また二宮尊徳(にのみやそんとく)も言いました、「目を開いて、天地の経文を読むべし」と。

私はよく質問を受けます、「手島さん、あなたは伝道者や主だった信者の養成をどこでしていますか? どこに神学校がありますか?」と。

「そんなものはない。日本じゅうが、山、川、町、この裏通り、すべてが私の神学校です」

「何も、そりゃそうだけれども、しかし、どこかに建物はないんですか?」

何もありませんよ。イエス・キリストは、そんなものをもっておられましたか? 現代の大学のような立派な校舎や講堂も図書館も、何一つ有しておられたわけではなかった。山上で道を説きたもうたイエス。砂漠を教室とし、ガリラヤの海辺で舟の上を教壇代わりにして道を説きたもうたイエス。大講堂は、日暮れても五千人の聴講を許す果てなき荒野でした。教授する者も、聴講する者も、聖書一冊すら持ち合わせていませんでした。いつも大自然を聖書にして神の国を教え、説きたまいました。

すべての鳥も木も山も海も、宇宙の一切が神を物語っている中にありながら、図書館に行って学ぶなんていうのは、おかしな話ですね。勉強するのはよいことです。しかし、いちばん大事なものが、図書館でわかる、大学に行ったらわかると思ったら大間違いです。殊に若い時は、そういう誘惑に駆られやすいですね。

自分の発見こそが宗教

私の所にいるY君が、もう24になるというのに、急に今から大学に行きたいと言います。「今ごろからどうして大学に行くんだ?」と聞くと、「同級生がみんな大学を卒業して、いい会社に就職しているからです」と言う。「人を羨(うらや)むけれど、それは外側のことじゃないか。君はもっと尊いことを学びつつあるのに、どうしてそれがわからないのか」と言って叱(しか)ったわけです。学歴とか社会的地位とか、これは外側のことですよ。

ところがもう一人、K君という青年が今日訪ねてきました。彼は、ある私立大学で電子工学を修めて、一流会社に高い給料で入った。有名大学出の仲間と一緒にやりだしたが、仕事は彼がトップに立って、会社から見込まれ、若い身ながら、東北の出張所長に抜擢(ばってき)されることになった。そんな地位に就けば大変な給料がもらえる。しかし、彼は私の聖書ゼミナールに出たいので、転勤を断った。会社の人事部長が驚いて、「それでは、君は赴任するか、会社を辞めるか、どちらかにしろ」と言った。すると「ハイ、辞めます」と言って辞めてきたといいます。私はここに、人間に2つのタイプを見るんです。

普通の人は、一流の会社に高給で就職できているのですから、これこそこの世の幸福だと思います。しかし、それは借り物です、着物です。先ほど私は浴衣を着ていたけれども、今は別の格好をしています。これは着物であって、私は次々と脱ぎ替え脱ぎ替えができます。会社でのポジションとか月給とか、置かれた環境も、着物と同様なのです。

人間には、もっと大事なものがあります。それは、自分自身です。これが宗教の発見です。自分というものが発見されなければ、神はわかりません。大自然と自分と聖書を前に置いて、深く瞑想する人間、こういう人間が出現することを次の時代も求めています。

多くの人が自分を見失っています。だから、Y君のように受験期が近くなって秋風が吹くころになると、そわそわするんですね。これは受験ノイローゼに罹(かか)った者の共通心理です。心の病気です。人間の大事な魂を、何がこのように蝕んでしまうのか。

私はそんなところを見ると、H君なんかに感心するんです。「大学なんておかしくて行くもんじゃない。私はコックになる」と言って、フランスに行って洋食コックの腕を磨いている。そのほうがどれだけ強みになるかわからない。今は、昔よりも大学の数が多いし、卒業生が多いのですから、もう大卒の学歴だけで飯を食う時代は過ぎましたよ。一流の大学ならともかく、飾りにもならないです。

神は真実を見たもう

ゲーテは『ファウスト』の中で言いました、自然はすべて「神の生きた衣裳」であると。英国の思想家トーマス・カーライルも、同様のことを『衣裳哲学』の中で言っています。人は、神様にあやかろうとせずに、神の着物にあやかろうとします。

旧約聖書の創世記に、楽園喪失の物語があります。アダムとエバは、どうしてパラダイスを失ったか。アダムは、知恵の木の実を食べた結果、どう思ったか、何をしたか?

「私は裸でいるのが恥ずかしい」と言って、無花果(いちじく)の葉をつづり合わせて腰に巻いた。「アダムよ、おまえはどこにいるのか」と神様が呼びかけられたが、アダムとエバは木の間に隠れた。アダムは、神の前に赤裸々でいられなくなった。隠すもののない真実の世界にあって、実存的なものに触れようとせず、外側の衣に触れようとする。それでまず着物を着ようとした。恥ずかしいから、神様の前に出るのに美しく見せようとする心理、これがエデンの園を失った者の心理です。隠しきれないものを隠そうとする。これは人間の悲劇ですね。こういうことをやっている人たちに、宗教をどれだけ説いたって駄目です。

私が幕屋の姉妹たちを尊敬しているのは、化粧一つなさらないからです。ありのままの自分の真実だけでいいじゃありませんか。神様は真実を見たもうのに、化粧したって、そんな上っ面なんかを見たまいません。

人間はいろいろな着物を着ようとします。学歴という衣を着ようと努力します。私の友人にも東大の学位を取ったといって、何か箔(はく)がついたようにしているのがいるが、そんなものは外側の衣裳にすぎないですね。人は実相を見ないで、着物ばかり見ます。しかし私たちは、すべての物の外側を見ながら内なるものを見る。そうでないならば、宗教ではありません。
何も着物が悪いというのではありません。だが、一切は神の衣裳です。万物が神の造られたものならば、その奥を見る目をもつことが大切なのです。

小さな物の中にも

私たちは、置かれた環境を通して、もっと神の心に触れることが必要です。聖書はそれを説いたものですから、聖書をほんとうにわかろうと思う者は、こういう態度を取らなければわかりません。自然界の一木一草、すべてが神の片鱗(へんりん)を語っています。

 わづかなる庭の小草(こぐさ)の白露(しらつゆ)をもとめて宿る秋の夜の月

と、西行法師は歌いました。小さな草葉の白露一滴にも、大きな月が影を宿しています。そのように、大きな神様を小さな物の中にも見ることができるんです。このようなタイプの信仰を身につけて歩きだしたら、ああ、居ながらにして、地上が天です。

この文明の悪から救われるためには、どうすればいいのか。また、どうしたら宗教がこの文明を救うことができるのか。これはお互いでほんとうに考えるべき問題ですし、そのためにも瞑想ということは、会得しなければならない信仰上の秘訣(ひけつ)だと思います。

「霊想の七曜経」のように、日曜日ならば「今日は日曜日である。太陽の日である」と思うだけでも、深く太陽について瞑想することができます。仏教の祖師たちも日想観(※注)ということをしました。

どうか、ただ目をつぶって瞑想するのではありません。目を開けてでもいいから、深くじっと心を静めて、太陽を瞑想する。または木について瞑想する。草について、大地について、星について、月について、金銀について瞑想する。この秘訣を自分で会得なさいますと、あなたの霊性に驚くべき開眼があることと思います。

(1971年)

(※注)日想観(にっそうかん)

沈みゆく太陽を見つつ、阿弥陀仏のいる西方浄土を観想すること。


本記事は、月刊誌『生命の光』859号 “Light of Life” に掲載されています。