聖書講話「天にたくわえられた希望」コロサイ人への手紙1章1~5節

新しい年が明けました。この1年がよりよい年となるように、とだれしも思われるでしょう。でも、人間が思う以上に神様が与えようとされる最善があります。それを発見すれば、有意義な1年を、また人生を歩むことができるのです。
今回は、新年の特別集会において手島郁郎が語った、新約聖書「コロサイ人への手紙」の講話を掲載いたします。(編集部)

年頭に当たって何がいいかと思いましたが、今日はコロサイ人への手紙をお読みしたいと思います。小アジア(現在のトルコ)の南西部に位置するコロサイは、使徒パウロが直接伝道した地ではありませんが、そこの聖徒たちに宛ててパウロが手紙を書いています。

神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、 キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基づくものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。

コロサイ人への手紙1章1~5節

「聖徒たち αγιοι ハギオイ」とは、聖霊の注ぎによって肉なる人から聖(きよ)め別たれた者たち、という意味です。聖霊のバプテスマ(聖霊に浸されること)に一新された人々に対する呼び名として、好ましい表現であります。

4節に「あなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである」と言って、パウロは神に感謝しています。

私たちは新しい年の初め、世の人々が家庭の楽しみや単なる挨拶ごとに過ごしている時に、何かたまらぬようにすべてをほうり出して、遠くから近くから、ひしめくようにこの場に集まってきています。これは同窓会や県人会、普通の社交的な親しみのためではありません。また、ご馳走が食べられるわけでもありません。ただ一つ、聖霊の兄弟たち、聖徒たちに一目会いたいという、強烈な愛が引き寄せ合っているからにほかなりません。このような愛のわき起こるところに「聖徒」があり、キリストの国は広まってゆくのです。

愛は天国における引力です。全宇宙が万有引力に支えられて、物質が互いに引き合っているように、霊界は愛の力に支えられ、また引き合っております。

私たち聖徒――聖霊を注がれた者たちが、なんと互いに激しく愛し合い、支え合っているかを見聞きする時に、この世ならぬ光景を見る思いです。私は不徳な人間です。それなのに、こんなに皆様から大事にされ、愛されるかと思うと、「神様! もったいないことです。ありがたいことです」と、神の愛に泣きくずれることしばしばです。

これはひとり私だけでない。皆さんがいかに激しく愛し合い、喜び合っていなさるか。肉親にもまさる”霊身同志”が愛し合うさま――しかし、この愛の喜びは人間業(にんげんわざ)でできるものではありません。愛は、愛さねばならないから愛するというような倫理的な義理ではなく、おのずと内にわき起こる情動です。この激しく働く愛は私たちにとっては現実ですが、一体どうしてわき起こるのか? パウロは5節以下にそれを申しております。

天に貯蔵されている大希望

「この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基づくものである」(5節)

コロサイに、激しい信仰と熱い愛とをわかせたぎらす聖徒たちの群れが誕生したということ、パウロがそれを聞いて感謝の涙に暮れている。これらすべては一体どこから来ているのであろうか? パウロは、それは「天にたくわえられている希望に由来する」と申すのであります。「δια την ελπιδα ディア テーン エルピダ 希望に由来する」とあるが、「δια ディア」はギリシア語で原因を表します。すなわち原因は地上にはない、天上に原因があり由来がある、と言うのです。

「天にたくわえられている希望」とは、不思議な言い方です。希望は、どこかにたくわえられたりするものではないでしょう。「私は希望します。私は望みます」というように、人間が自分の心の中で希望するのだ、とだれしも思います。

しかし、パウロがここで言っている希望とは、人間が「こうしたい」と欲するような、動詞としての希望ではないのです。銀行に金が貯金してあるように、天に希望が貯蔵されているというような、名詞としての、実体としての希望です。だから、人間が勝手に希望して、成るか成らぬかわからないような不確かな、空想的な希望ではない。

しかも、ここでは「την ελπιδα テーン エルピダ」と冠詞付きですから、単なる抽象的な希望ではない、「希望というもの」です。時来たって地上界に実現するため、天上界、神の世界に確実に貯蔵されている、確固たる実体としての希望です。

ガリラヤ湖(イスラエル)

旧約の預言者ヨエルは、このように預言しています。

 「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。
  あなたがたのむすこ、娘は預言をし、
  あなたがたの老人たちは夢を見、
  あなたがたの若者たちは幻を見る。
  その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」(ヨエル書2章28~29節)

神の霊が卑しい人間に注がれること――ヨエルはこの大希望を、はるか旧約時代の昔に高らかに預言していました。長いイスラエルの歴史を通じて、モーセや預言者たち、また民が、どんなにかそのような出来事を思い描き、願い、待望してきたことでしょう。しかし、どんなにか望んでみたけれども、はかない望みのように思っていた。天にたくわえられている希望は、人類にとって長い間、高嶺(たかね)の花でありました。

福音の真言の中で

「その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって(原文では「福音の真の言葉の中で」)聞いている」(5節)

その大希望は、私たちには高嶺の花として終わるのであろうか? 否! パウロは、その大希望はすでに天上界より天降(あまくだ)って、コロサイのあなたがたのところにまで、福音の真の言葉の中にあって到達したのである、と言っているのです。

長い間、多くの人々に高嶺の花であったものが、時来たって、一陣の風に花びらが一斉にヒラヒラと降り敷くように、あなたがたの上に舞い降りてきたのである。神の霊がすべての肉なる者の上に注がれるという大いなる希望、高い天の貯水池にたくわえられていた希望の実体が、今や洪水のごとくに集中豪雨のごとくに、地上に押し寄せ降り注いでいるのである。その現れこそ、今、目の前に見ているように、聖霊の注ぎによって信仰と愛がわきたぎる聖徒たちの群れの発生なのである、とパウロは言うのです。

しかもここで大事なことは、「福音の真の言葉の中で聞いている」とあるように、希望の実体は「言葉の中にあって」到達した、という事実です。神の霊がすべての肉なる者に注がれ、老いも若きも夢、幻を見、預言をなすような大きな出来事が、言葉の中にあって伝わってくる。思想や意思ではなく、不思議な言葉を通して、ある実体が伝わってくる。そのような言葉は到底、普通の言葉でありえないことは明らかです。ここに、特に「福音の真の言葉」と特記されねばならぬ理由があります。

「福音の真の言葉」、また「神の言葉」というと、多くのクリスチャンは聖書の言葉のことだと考えます。それで、聖書の文字の表面にとらわれ、浅い字句解釈をして、それで神の言葉がわかったと思ったり、一字一句を金科玉条のように暗誦(あんしょう)して、戒律として守り、それで信仰だと思う。あるいは、聖書の言葉を自分の論理的な頭で組み立て直し、教理や信条の形にして、それを信奉したりする人たちがいます。

だが、聖書自身の言う「神の言」とは、文字や論理の言葉ではなく、ヨハネ福音書の初めに、「言(ギリシア語でλογος ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(1章14節)とあるとおり、人となりたもうたロゴス――生けるキリストの囁(ささや)きにほかなりません。

真言によって伝わる福音

パウロの言う「真の言(ロゴス)」とは、神学や文字のロゴスではなく、受肉のロゴスです。すなわち「天上にたくわえられている真の言(ロゴス)が、ついにあなたがたのところに来たのだ」とありますが、この地上の肉なる者の中に、天上の言葉が入り来たり臨んで、この肉を通して語らせるような状況に至ることをいうのです。

神の言が完全に受肉して地上に現れたもうたのがイエス・キリストですが、やがてそれは弟子たちにも及んだ。使徒行伝2章に記された、120人の者たちが聖霊を注がれて、異言や預言(※注)を語りだした聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事こそは、神の言(ロゴス)が天上界から降って、肉なる者に宿った事件であり、ヨエルの預言の成就にほかなりません。

人間という肉なる者に、天上界にたくわえられている真の言が、堰(せき)を切って落ちるように地上に注がれる時に、人々は新しい言葉を語りはじめる。もはや間違いだらけ、うわすべり、うそっぱち、表現不十分な人間の言葉ではなく、天上の天使たちが語るような真理の言葉、神秘な生命ある霊的な意味――預言や異言で語りだす。語りだすだけではなく、そこに不思議な、天的な喜びと愛がわき起こり、奇跡的な恵み(カリスマタ)が次々と現れる。コロサイ人への手紙は、実にそのことを述べているのであります。

創世記の初めに、「神、光あれと言いたまいければ、光ありき」とあるように、神の言(ロゴス)によって世界は創造されました。そのように一切万物を存在せしめている創造のロゴスが、ナザレのイエスとなって受肉した。すると、この神のロゴスは創造の生命となって噴出し、盲人の目を開き、足のなえた者を立たせ、死人をも生き返らせ、運命の牢獄に打ちひしがれた魂を神の自由の生命に奪還するような大きなしるしを表しました。まさにイエスが「わが汝(なんじ)らに語りし言は、霊なり、生命なり」(ヨハネ福音書6章63節)と言われたとおりでした。

この神のロゴスが、ペンテコステの時、120人の者に注がれ、受肉すると、弟子たちの中にも同様の生命が噴出して、周囲に恵みの奇跡が続出しました。そして、神の霊言は次々と人から人へ、肉なる者から肉なる者へと、受肉しつづけていったのです。

多くのクリスチャンは、「福音の真理の言葉」がコロサイにまで伝わったというと、何か神学や教理の説教によって伝道がなされていったかのように誤解します。

しかし、使徒行伝を読めばわかるように、ペテロやパウロが語っている間に、あるいは按手(あんしゅ)している間に聴いている者たちに聖霊が降り、彼らの口からペンテコステの時と同様な異言や霊言が噴出したという。ペンテコステの時に注がれた天上の霊言の飛び火、それに伴う奇跡的な恵みの展開、これがパウロの言う「福音の真言」の伝播(でんぱ)なのでした。

(※注)異言、預言

神の霊を注がれた人間に起こる霊的な言語活動。通常の人間の言葉とは異なる言葉で語ることを、新約聖書では「異言 グローサ」と呼び、パウロによれば、神と語る言葉とされる。一方、預言は神のメッセージが預言者を通して伝えられるもので、聖書ではイスラエルの民や初代教会に対する言葉である場合が多い。

宇宙の背後に満ちる神の呼びかけ

天にたくわえられている言葉の地上への降臨は、驚くべき神秘な力ある現象です。

同様のことを説いた人に、古代ギリシアの大哲学者プラトンがおります。彼は神秘な人物でした。彼の思想の中心はイデアの思想でした。多くの人々は、このプラトンのイデアを単なる「観念(アイデア)、理想(アイデアル)」と解釈して、プラトンを観念論哲学の元祖のように見なしてきました。しかしそれは、はなはだ浅い解釈でして、プラトンのイデアはそんな架空な観念などではない、もっと力のある神秘な実在であります。

プラトンは、目に見える現象世界のさまざまの不完全な事象の背後に、それらを存在せしめているような完全な実在、イデアの世界を直観したのです。そしてこのイデアの世界こそ、最も根源的な、神的な実在の世界だと直観しました。プラトンはまた、このイデアの直観は、芸術的直観、預言者的予感であると述べています。

イスラエルの宗教哲学者マルチン・ブーバーも、その著書の中で、「一つの”かたち”が一人の人間の前に立ち現れ、この人を通して作品となろうと欲する。これが芸術の永遠の源である。この”かたち”は彼の心の産物ではなく、外から彼の心に入り込み、自らを作品に実現してくれるように要求する幻なのである。これは、芸術家に全存在をかけて従ってくれることを要求する。もし彼がそれにこたえて、その”かたち”に向かって全存在をかけて〈我―汝〉の根源語を発するならば、すなわち芸術家の中より強力な制作力が流れ出て、作品が産み出される」と語っています。
芸術上の”かたち”だけでない、宇宙はあらゆる種類の”かたち”、イメージに満ちています。「永遠の汝」(神)の呼びかけに満ちております。物質現象の背後に、「永遠の汝」の呼びかけに聴き入っている者には、それがありありとわかる、と申します。

詩篇19篇に、

 「もろもろの天は神の栄光をあらわし、
  大空はみ手のわざをしめす。……
  話すことなく、語ることなく、
  その声も聞えないのに、
  その響きは全地にあまねく、
  その言葉は世界のはてにまで及ぶ」(1~4節)

とあるように、全宇宙が神の御言葉のリズムと、その意味のあふるる思想でぶるぶる打ち震え、鳴り響き、鳴りとどろいている。それに私たちも共鳴し、胸打ち震わせつつ感応して生きる。これが聖書の宗教なのです。

天上の完成図を現像せよ

「あなたがたのために天にたくわえられている希望……それをあなたがたはすでに……福音の真の言の中で聞いている」(コロサイ人への手紙1章5節 私訳)

新しい年の初めに、私たちは銘々、この年にかける希望で胸がいっぱいに膨らみます。しかし私たちの希望は、単に人間が「ああしてみたい、こうしてみたい」と勝手に描く理想なのではありません。神秘な異言、霊言の祈りに魂をひそめる時、その「真言の中にあって」聞こえてくるものがある。それこそ、「わたしたちのために天にたくわえられている希望」――福音にほかなりません。

地上の私たちが、現在まだどんなに未完成でボロボロであっても、天上の神の世界では、すでに私たちのあるべき完成された尊い姿が成っている。天の意図(デザイン)が霊言の祈りの中に響き、聞こえてくる、「おまえはかくあれよ、かくあるのだ」と。

そして、私たちが地上のボロな体から目を上げて、この天上の像(イメージ)に、「そうだ、そうあるのだ、アーメン!」と唱和し、それにすべての思想、感情、行動を投入し、全生活をもってそれに波長を合わせて従ってゆく時に、ついに天上の意図(デザイン)が地上に現像し、定着してまいります。

このような希望は、天上においてすでに成っている像(イメージ)なのですから、人間が自分で目標を立てて、自分の力だけで努力して実現してゆくのとは違います。むしろ天界のほうから、実現しよう、実現しようとして働きかけてくるのですから、それをキャッチして天の働きかけに協調し、協働してゆくならば、おのずと成ってゆくのです。人間の力だけでなく、天の万軍が加勢して、不思議に道を備え、助けを与えてくれます。

「真言」はわれらの内に囁きます。正月には、多くの人がお宮や社(やしろ)に初詣(はつもう)でに参ります。しかしわれらは、心底に響く内なる助け主の霊に聞く。

 身はやしろ心の神を持ちながらよそを問ふこそ愚かなりけれ   (古歌)

とあるように、神は心の内なる至聖所に拝せられるべきであって、それを外におがみに行くのは愚かなことです。宗教はどこまでも内的な心事であって、内に心が開かれずして神がわかるものではありません。天の言葉、真の言(ロゴス)が、わが心の内に聞かれるところに福音があります。神の言(ロゴス)が内に聞かれるようになった時、驚くべき人生が展開します。

神の示しがわが内に響く時、私たちはしばしば戸惑うことがあります。「どうしてそんなことをせねばならぬか?」、また「どうしたらそんなにできるのか?」と、人間の思いでは解(げ)しかねることもあります。

しかし、信仰の父アブラハムは、理由も行く先も知らずして、神の示しにただ「ハイ」といって従って出ていった時に、地のもろもろの民にとって、大きな祝福の基となりました。また彼が99歳の時、「おまえにサラが子を生むであろう」と告げられて、いぶかしくも思いましたが、従順に信じました時、妻サラは高齢にもかかわらず、玉のような男の子イサクを生みました。(創世記12~21章)

神が人間に、あることを示される時、人間は「どうしようか?」と思い煩う必要はない。神のほうから先にそれを実現しようとしておられるのですから、人間はただその示しに乗って従いさえすれば、神は次々と必要な手を打ってくださる、という真理の経験です。

「まず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」(マタイ福音書6章33節)とあるとおりで、神の御声に従って一歩踏み出すと、すべてが備えられています。

(1965年1月3日 逗子(ずし)新年聖会講話「秘密真言」より抜粋)


本記事は、月刊誌『生命の光』862号 “Light of Life” に掲載されています。

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