エッセイ「祈りは国の柱 ―神武天皇の御足跡をたどる―」
松雄良実
きびしい戦いのさなかに、人はその真の姿を現すといいます。
第1代天皇・神武天皇は、日向(ひゅうが)を出帆されて数年、1度も戦火を交えることなく、神を祀(まつ)るという宗教的な方法で諸部族を治められました。ところが浪速(なみはや)から大和の国に入ろうとされたとき、生駒山中で長髄彦(ながすねひこ)が率いる部族の頑強な抵抗にあわれます……。
建国という大使命を担われる神武天皇の前には、数々の障害が立ちはだかります。それをどのように越えて、建国を果たされたのでしょうか。
神武天皇の御足跡を『日本書紀』に照らしながら、生駒山からたどってみました。
生駒山中
生駒山のふもとまで続く民家がとだえた所に、「日下山(くさかやま)直越乃道(ただごえのみち)」と書かれた石碑があります。ここから先は細い山道で、進むにつれ険しくなり、やがて崖(がけ)が迫ってきます。上から敵に狙われたら、ひとたまりもありません。
突然、頭上の岩陰から鋭い陽光が射したとき、私は立ち止まりました。今、目の当たりにしている状況は、「敵に矢を放つのは、太陽に射るにひとしい」との描写そのまま! 思わず『日本書紀』を開きました。神話が事実として読めるではありませんか。
この先の山中で五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を受けて劣勢になると、神武天皇は退却して、盾を置かれました。そして弱さを隠しもせず、この山、この空を揺るがすように祈られたのです。
退き還(かへ)りて弱きことを示して、神祇(あまつかみくにつかみ)を禮(うやま)ひ祭(いは)ひて、日神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひまつりて、影(みかげ)の随(まにま)に圧(おそ)ひ踏まむに若(し)かず。
高見山
奈良と三重の県境にそびえる高見山(1249m)は、大和入りを目前に、神武天皇が登られたと伝えられる山です。
山頂に立つと、ウグイスの声がはるか下から聞こえ、遠く南方を望むと、台高(だいこう)の険しい山々がかすんでいます。熊野から続くこの山脈を、神武天皇の一行は越えてきたのです。ようやくここまでたどり着かれた神武天皇は、希望に満ち溢れていたことでしょう。
ところが、ここから西、大和への道には、至るところの要衝に待ち構える敵軍の姿が見えたのです。
山の中嶮絶(さか)しくして復(また)行く可(べ)き路(みち)無し。乃(すなは)ち棲遑(しじま)ひて其(そ)の跋渉(ふみゆ)かむ所を知らず。
丹生川上(にうのかわかみ)
夢の淵(ふち)といわれるこの川辺は、最後の戦いを前に、神武天皇が建国の成否を天に問われ、祈りに祈られた地です。
透き通った瑠璃色(るりいろ)の川水に手を浸してみました。稚魚がたくさん泳いでいます。見とれていると、ここで起きた奇跡と徴(しるし)が蘇ってきました。
神武天皇が祈りをこめて御神酒瓶(おみきがめ)を川に沈めると、「魚が酒に酔ったように水面に浮き、木の葉のように流れる」という奇跡が起きました。この徴に励まされた神武天皇は、神と全く1つになって歩むために、尚(なお)ここで祈り抜かれました。
又祈(うけ)ひて曰(のたま)はく、吾(あれ)今當(いままさ)に厳瓮を以て丹生川に沈めむ。如(も)し魚(うを)、大(おほき)小(ちひさき)と無く、悉(ことごと)く酔ひて流れむこと、譬へば猶(な)ほ、まきの葉の浮流(う)くが如くならば、吾(あれ)必ず能(よ)く此(こ)の国を定めてむ。
橿原(かしはら)神宮
どこまでも青く高い橿原の空。参道の大鳥居が生きているように輝いています。天の扶(たす)けによって、ついに大和入りを果たされた神武天皇は、この地に国の基を置かれました。
畝傍(うねび)の橿原に、底磐之根(そこついはのね)に宮柱太しき立て、高天之原(たかまのはら)に摶風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と曰(まを)す。
玉砂利を踏んで歩いていると、内に響く声がありました。「宮柱太しき」とは、目に見える柱ではない。天に繋がる霊の柱、祈りの柱なのだ! この柱こそわが国の基、日本民族のバックボーンである! と。常に天つ神を仰ぎつつ、日本の国を導かれた神武天皇。私も天に繋がる祈りをもって、日本の永遠を祈り、行動するキリスト者でありたい。