友を訪ねて「涙が出るほど嬉しい山」
松雄マリア
自然に囲まれた山の中にある松雄さん夫妻のお宅には、多くの人が訪れます。大自然は人をいやす、といいますが、ここの魅力はそれだけではありません。人々がいやされる、その秘密をお聞きしました。(編集部)
鳥の鳴く声を聞き、何を言っているんだろうと耳を澄ますと、ただ鳴いているんじゃなくて、「神様ありがとう」と言っているように聞こえるんです。
埼玉県ときがわ町の堂平山(どうだいらさん)の中腹にある山林と空き家を、夫が9年前に買いました。そして、東京や各地の幕屋の皆さんが祈りに来られる場になればと、木造の古い家を自分でリフォームしました。
コロナ禍が始まって、それまでは東京にいた私たち夫婦は、高齢の父母、それに風太(ふうた)という犬と一緒に、ここに住むことにしました。ところが最近、心のバランスを崩した甥(おい)がやって来たことで、若い人が続々とこの場所を訪ねてくるようになったのです。
甥が自然の中で見る見る元気を取り戻し、ここでの生活をSNSで発信すると、同じように都会で疲れた友人が次々と、いやしを求めて来はじめました。森の整備や大工仕事を手伝ってくれる人、一晩泊まって夜更けまで賛美歌をうたい祈る人たち、バーベキューや瞑想など、それぞれのアイデアで過ごしていかれます。
時には、私の知らない人たちを連れてこられることもあるんです。そんな人たちも「毎朝祈っているから、座っていって」と言うと、一緒に朝の祈禱会に出て、手を合わせて祈るんですよ。その姿を見ると、ほーっと思いますね。
今は宗教離れの世の中ですけれど、神様を見上げることは自然な気持ちなんだな、と感じます。
回心する人たちと自分
一緒に住む両親は若い時から高齢になるまで、各地でキリストを伝えてきました。私が小さいころ、わが家は信仰を求める人が大勢出入りしていました。
父は伝道のために出かけることが多かったのですが、体が弱かった母はいつも家にいて、救いを求めて来られる方々の話を聞いていました。その人たちは、悩みをもって来るわけですから、母はとにかく一方的に聞くんですね。ずっと話を聞いて、その後ひと言ぐらい何か言ったようですけれど、最後は祈るんです。
何か話をしてあげたり、教えたりするのではなくて、聞くことが伝道だと、私はそのころから聞かされていました。そうやって人の心に寄り添い、祈りをもって魂を神様に結びつけていくことを、知らず知らずのうちに父母の姿から教えられたように思います。
当時、わが家に来られる人々の多くは、キリストに触れて回心を体験し、喜びいっぱい生きておられました。その姿を見ながら、私も一緒に喜んでいました。
でも私自身はというと、信仰で生きるということがまだよくわかっていませんでした。キリストに触れ、回心して感激を語る同年代の友達と比べては、私は次第に落ち込むことが多くなっていったのです。
キリストは私を愛しておられる
ある日の集会で、いつも下を向いている私に、少し年上の方が「イエス・キリストと思っただけで涙が出てくるような、そういう魂になってほしい」と言われました。その一言が後々まで私の心に残ったのです。イエス様を名前では知っていましたが、感謝があふれて涙が出てくるようなことはありませんでした。
そんな私がその数カ月後、キリストと思っただけで涙する回心を経験したのです。それは、手島郁郎先生が十字架の血汐(ちしお)について語られた聖書講話の一文を集会で読み、祈った時のことです。信じられない光景が私の目の前に現れました。
それは、十字架にかかられ、血を流されるキリストのお姿でした。それを見た時、「イエス・キリストは私を愛しておられる」と、ハッとわかったんです。その途端、それまで感じたことがない、天を慕う感情がぶわーっと込み上げてきて、涙が止まりませんでした。
キリストは血を流してまでこの私を愛してくださり、守り、導きつづけておられた。詩篇に「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」(8篇4節)とありますが、この時初めて、聞いて知ったのではなく、目に見えるように私のキリストにお出会いしたのです。
それからというもの、私は「イエス・キリスト」と思うだけで涙があふれる者に変わりました。そして、私もキリストを伝えたい、と願うようになったのです。
ですから、この山の家に悩みや苦しみをもって来られる方々が、喜んで元気になるためなら何でもしたい。そして、神様につながってほしいと思っています。
魂がいやされる場に
昨年、うつ病を患ったある方と、数カ月間ここで共に暮らしました。最初来た時は表情が硬く、私はどう顔を合わせたらいいか、どう言葉をかければいいかと迷いました。でも何日か生活を共にしながら、ぽつりぽつりとご自分のことを話しはじめたのです。
話をずっと聞いていると、その方は時に笑顔を見せ、やがて朝の祈禱会にも出るようになりました。賛美歌を小さな声でうたいはじめた時は、うれしかったですね。
介護の仕事をされていた方なので、一緒に暮らす高齢の父母を見た時、体が自然に動いたのでしょう。ご自分は心も体もどん底の状態なのに、父に一口一口、ご飯を食べさせてくださるんですね。そうしているうち、閉ざされていたその方の心が次第に開かれていき、体も日ごとに回復して、やがて帰っていかれました。
大自然の中で一緒に祈り、生活していると、神様の愛とあわれみが覆ってきて魂が回復する。自然だけではなく、この山の家が人々のそのようないやしの場になってきていることが、感謝なんです。
この山では、都会では感じられない思いがわいてきます。夜、満天の星を見上げると涙が出てくるんです。小さな星一つひとつも輝いて、精いっぱい生きている。これを創造された神様ってなんてすごいんだろう、と。
私たちも、小さい一粒かもしれないけれど、神様に生かされている。ここでは、それが実感なのです。
本記事は、月刊誌『生命の光』842号 “Light of Life” に掲載されています。