信仰の証し「ただ主の血に清くせられて」

三塚清子

私たち夫婦は、結婚してから60年、豊かな信仰生活を歩んでくることができました。特に晩年の主人は、とてもあっぱれな姿だったなと思いますし、介護した私にとっても信仰の成長の時となりました。

主人は80歳を前にして、レビー小体型認知症という病を患いました。

病院で検査を受けて、主人の病気についての説明を聞いた時は、私もショックを受けました。その症状の特徴には、幻聴や幻覚があるんですね。

夜中になると、寝ている私を急にたたき起こして、「だれかが外で話している」とか、「天井から鉄の塊が落ちてくるぞ」と何回も叫ぶんです。鉄の塊が恐ろしいからと、家じゅうの壁紙を白く貼(は)り直すこともしました。また、主人は絵描きでしたので、幻覚で見たそのままの光景を描いて、展覧会に出したこともあります。

心の中に宿る「光」の部分と「闇」の部分の葛藤を描く、ご主人の和夫さん。
和夫さんの証しはこちらから

主人が少しでも安心して暮らせるようにと思い介護施設に預けたのですが、監禁されたと勘違いしたのか、「だれか助けてくれ。警察へ訴えに行く」と言います。結局、施設では主人を預かりきれないということで、私が自宅で介護するようになりました。

パラパラとめくった賛美歌集に

そんなある日、幕屋の婦人の集いが近々あるから参加しませんか、と教友に声をかけられました。

実は、主人の介護をするようになってからは、幕屋の集会に参加したいと思っても、すんなりとは行けなくなっていたのです。それでも、この婦人の集いにはどうしても行きたいと願って、申し込みました。

会の日だけは主人を施設に預けようと、段取りしていました。そうしたら、当日になって主人が熱発しましてね。熱があると、どこの施設も預かってくれないんです。その瞬間に、「あー、集会に行けない……」と思い、がく然としてしまいました。

その朝、一人で聖書を開いて読んでも、頭に入ってこない。心が空っぽになってしまって、祈ろうとしても言葉がわいてこないんです。

無気力な状態で賛美歌集をパラパラめくっていた時でした。一つの歌詞が私の魂に響いてきたのです。

 われになにの功績(いさおし)あらん
   ただ主の血にきよくせらる

この言葉を目にした時、突然、涙が込み上げてきて、その場に泣き伏してしまいました。

何の功績もない私は、キリストご自身が働いてよしとされなければ、何もできないんだ。そのことを知らされた時、私の魂はすっかり変えられました。

私は自分の行きたいと願った会であれば、どこにでも参加できて当たり前と思い込んでいたんです。また、主人のことを大事に思って介護していたつもりでも、その月日が長くなると、いつしか心の葛藤(かっとう)を覚えるようになっていたんですね。

神様の御心よりも前に、私の思いや考えが中心になっていたんだな、と気づかされました。

あの時、「わが血によって清められよ」とキリストが私に迫ってくださり、御血汐(おんちしお)を注いでくださらなかったら、今の私はありません。

「天に戻る刻のために」

4年前、キリストを慕いつつ、その生涯を全うした主人を、私は感謝をもって天に送ることができました。
告別式の日、主人が私に内緒で書き残していた手紙があるといって、息子が式の中で読んでくれました。「天に戻る刻(とき)のために」と題したその手紙には、主人の気持ちが込められていました。


神様の祝福に歩ませられた人生は決して敗北の人生ではない。人の目にはいかに見えようとも、素晴らしい人生を主は与えてくださった。
地上で抱いた夢を実現に至らせてくださいました御愛に、心より感謝いたします。数えきれない愛を注いでくださったお方に感謝いたします。地上でお会いできましたすべての皆様に感謝いたします。
弱かった私を、自分の身を顧みることなく支えてくださった清子さん、ありがとう。信仰も、生活も、食べることも頼りきりでした。勲章は私が与えます。
ハレルヤ、ハレルヤ。感謝しきれません。

三塚和夫


主人らしい最後のメッセージに泣けてならなかったです。こうして主人と巡り合い、夫婦で幕屋につながって、生けるキリストに出会わせてくださった。お互いたくさんの病気やケガをしましたし、身内の問題もありました。でもキリストに贖われ、導かれた人生こそ最も素晴らしい芸術だと、そのことを誇りに思って生き抜いた主人は、ほんとうに幸せ者だったと思います。

励ます存在として

最近、岩手県に住むある婦人と、よくメールしたり電話で話したりしています。お父さんが認知症を患い、今は施設から帰されて、その方が自宅でお世話をしているんですね。だから仕事もできず、休職しているようでした。

彼女が電話口で、「おばちゃん、実はこうなんだよ、ああなんだよ」と話してくれるのを、私はただ聞くだけなんです。でも一言、「あなたたちのことを祈っているから。神様の声を聴きながら祈っていこう」と彼女に伝えると、「おばちゃん!」と言ってワーッと泣いちゃうんです。私は、痛いほど彼女の気持ちがわかるから、「いいよ、泣いてもいいから、何でも話してごらん」とこたえる。できることはそれぐらいですが、何とか力になりたいんです。

晩年を迎えても、大変なところはたくさん通ります。けれど、御愛である神様は最善しかなさらない。そのことを体験した私には、それを証しする使命があると思っています。


本記事は、月刊誌『生命の光』864号 “Light of Life” に掲載されています。

日々の祈り

前の記事

3月9日
日々の祈り

次の記事

3月11日