わが神キリスト
※音声は1972年10月1日にラジオ放送されたものです。以下の文章はラジオ講話の原稿として書かれたものですが、一部音声と異なる点がありますので、ご了承ください。(編集部)
一人の聖書学者がイエスに尋ねた、「どの掟(おきて)が、すべてのうちで第一ですか」。イエスは答えられた、「第一はこれである。“聞け、イスラエルよ、われわれの神なる主は、ただ一人の主である。心の限り、精神の限り、思いの限り、力の限り、あなたの神なる主を愛せよ”」
マルコ福音書12章29節 塚本訳聖書
戦後の日本は精神的にスッカリ荒れすたれてしまいまして、凶悪な犯罪が、日々あい次いで起こり、世の人情も紙のように薄く、また冷たくなりました。この精神的な荒廃から日本が立ち直るために、最も大切なことは、何よりも宗教の力が復興することだと存じます。それには、人類がもつ最も古い不朽な聖典であるバイブル、この66巻を通して宗教心を培うことこそ、第一だと思います。
私は、12歳の時にキリストを知って以来、信仰生活50年、この聖書の神に導かれ、この神によって幾たびか人生の危機を乗り過ごしてまいりました。この50年間、私を贖い、教え、諭し、導き、愛したもうたキリストの神について語るならば、どれだけお話ししつづけても、しつづけても、尽きることのない話題を、私はもっております。
キリストは「心の限り、精神の限り、思いの限り、力の限り、あなたの神、主を愛せよ」と言われました。私は自分の神、主キリスト以外に他に神を知りません。ただ、夢中になって私の神、主キリストを愛しまつっている者であります。
昔、中国の宋の時代に、無門禅師は、
「他の弓を挽(ひ)くなかれ。他の馬に騎(の)るなかれ。他の非を弁ずるなかれ。他の事を知るなかれ」 と宗教の心得を説きましたが、私も他の神を知りません。他の宗教の非を弁じたてたり、他の教派の弓を用いたり、他のキリスト教の尻馬に乗ったり、いたしたくありません。
「宗教だけは、他の借り物では役に立たぬ」と、賀川豊彦先生も言われましたが、キリスト・イエスも、「おまえの神、主を、ただ愛せよ」と言われたのであります。
アメリカ軍政官に抵抗して
ちょうど私が37歳、信仰して25年目の時でしたが、戦後の日本について、神はこんなに黙示されたことがあります。
「我は、この国に飢饉を送る。それはパンの乏しきにあらず、水に渇くにもあらず、主エホバの言葉を聴くことの飢饉である」と。このアモスの預言どおりに、ひどい霊的飢饉の暗い時代がやって来る、それが戦後の日本の特徴だとお示しでした。人間が人らしく生きられるのはパンによらず、実に神の言葉による、とイエス・キリストも言いました。それからというもの、神の召命が私に迫ってなりませず、いろいろ経営しておりました事業もうち捨てて、ただひとり、独立伝道に立つこととしました。
当時、私は内村鑑三先生や塚本虎二先生について聖書を学んだ、無教会主義者でありましたから、伝道をするといっても、孤立無援。何か教会の援助とか、どこかのミッションの後援とか、何もあるわけではありません。また、信者と称する人々がいたわけでもありません。
しかし神は、「飢え渇く霊魂に、神の言葉を告げるように」と言って、私を促したまいました。
私は、神の御声に聴き従おうとしながらも、乏しい自分の身のほどを顧みては、決心が鈍り、心もたついておりました。ところが、はしなくも、神は私からシャバッ気な心を抜きとり、煩悩を清めようとして、危ない目に遭わされたことがあります。そのショックで、私は目覚めたのでありました。
その当時、私は熊本市に住んでおりましたが、子供が通学している慶徳小学校が、急に閉鎖される、というので子供たちは泣いておりました。これはピーターゼンという軍政官の命令であって、占領下の日本だから、涙をのんで廃校に同意せざるをえない、ということでした。私は、日本の事情を無視した占領行政のやり方、それを見るに忍びず、父兄の一人として、アメリカ軍政府にかけあい、いろいろ交渉しましたが、どうにもラチが明きませんでした。それで、「アメリカ軍政官の非を正そう」と、町の人々の先頭に立って、私はレジスタンス・抵抗運動をやりはじめました。
この頑強な抵抗が功を奏しまして、米軍政府は慶徳小学校を取りつぶす企てを、ついに中止するのをやむなきに至りましたが、そのために私は軍政府に睨まれて「要注意人物」となってしまいました。
私の家に突然、警官がやって来まして、「手島はアメリカの軍政に有害な人物であるから、何か罪状を探し出して、禁錮2カ月の刑に処せよ」という命令状をつきつけ、家宅捜索をしはじめました。
「罪になるような事を何か調べ出して、捕らえて投獄せよ」というムチャクチャな命令でした。この事件は、熊本地方裁判所における、アメリカの三大不法事件の一つと呼ばれた弾圧事件でしたが、事情を知る警察署長は私に同情しまして、「どこかに早く身を隠せ」と忠告してくれました(このピーターゼン軍政官の悪態ぶりは、福田令寿先生が『百年史の証言』中に書いておられます)。とにかく、私は阿蘇山の、人なき山奥に逃げ込みました。
阿蘇の山奥で召命
幾日も幾日も潜伏中、おびえながらご飯もノドを通らず、必死になって神に祈り、禁錮の処分から助かるように、と願いました。そのある日、阿蘇の地獄高原の山懐で、突如としてキリストは光まばゆいまでに霊の御姿をあらわされましたので、私は打ちふるえ、ひれ伏してしまいました。すると、心の内に囁く声がしました。
「主は今後、おまえに貧しい糧と、苦い水を与えたもうであろうが、しかし、今後、おまえを教えるキリストは再び隠れることなく、いつもおまえの眼はキリストを師として仰ぎ見るであろう。右に行くにも、左に行くにも、おまえの耳に、『これが道だ、こっちを歩け』と、背後から語りかける声を聞くであろう」と、イザヤ書30章の聖句をもって、私を励ましたまいました。
もし今後、キリストがありありと私の身近に迫ってお導きであるのならば、どんなに貧乏しても甘んじよう。神が行けとおっしゃる所には、どこにでも伝道に出かけてゆこう、と決心しました。
すると、どうでしょう。神は、さしもの大権力をもつ軍政官の憎しみから私を救ってくださり、不思議に事なきを得ました。こうして、このキリストの神に導かれて伝道すること25年、いろいろ危ない迫害や中傷を受けましたが、今や全国に数千数万の同信の方々と共に、教会の外にあって、同じ神の道を喜び歩くに至ったのであります。
ただ一人、ションボリと始めた伝道が、このように多くの共鳴を呼ぼうとは、思いもよりませんでしたが、これこそ、私たちの背後に今も生きてキリストがいましたもう証拠ではないでしょうか。
このキリストを守護神として、もしあなたがお歩きになるならば、なんと幸いであろうかと、私は念じております。