隠された宝
わたしは、神に生きるために律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に、十字架につけられた。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわが内に在りて生きたもうのである。
ガラテヤ人への手紙2章19~20節 私訳
キリストを自分の外に求め、外側に礼拝している間は、まだ初歩的な信者でありまして、真に信仰の力がわき上がってはきません。自分自身の内に、キリストという神の聖霊(みたま)を受け入れてこそ、信仰の自由をもつに至ります。これが信仰の奥義であるとパウロも行って、「あなたがたの中にいますキリストこそ、栄光の富であり希望である」(コロサイ人への手紙1章27節 私訳)と述べています。
身は神社(やしろ) 心に神をもちながら
外(よそ)を問うこそ 愚かなりけり
と昔の歌がありますが、自分自身のうちに潜む内部神性・神の性質が目覚め、内なる霊魂が覚醒してこそ、神の霊の囁(ささや)きに耳を傾けて行動しはじめることができます。これがキリスト信仰の奥義であり、信仰生活上はかりがたい栄光の富を現してくるのであります。
原始福音の信仰は、キリストを外に拝せず、わが内なる魂の至聖所に斎(いつ)きまつるにあります。そのためには、まず自分の心に霊的な回心・コンバージョンが起こらねばなりません。
イエス・キリストはルカによる福音書15章に、有名な『放蕩息子の回帰』の物語を述べておられますが、富める父親から大金をもらって、父親のもとを離れてその息子はさすらい、酒色に身をすりつぶして、貧乏な臭い乞食のように落ちぶれましたが、もう一度父のもとに帰ろうという心が起こりまして、帰ってきますと、百万長者の父親が飛んできて歓迎し、最上の着物を着せ、最高のご馳走を作って、値高き指輪をはめさせて迎えられた、という神の国の物語が説いてあります。
隠された宝の発見
法華経の中にも『五百弟子受記品』の内に、フルナという聖者の物語があります。
日本人にはこのような物語で、聖書の比喩をお話ししたほうが分かりやすいかもしれませんが、仏様の前でフルナは、「ほんとうにあなたは、素晴らしい宗教的人物だ。あなたのように優れた予言者は、古今稀(まれ)に見るものだ。今後、500年たっても出るか出ないかのような大人物だ。いよいよ神通力が増し加わって神秘な力が与えられ、素晴らしいお働きをなさるだろう」と申されました。
すると、多くの弟子たちが「なぜ、あんな下道に対してほめたり、仏様はなさるのだろうか」とぼやきました。するとその聖者フルナは、このような話をしました。
「ある所に、とても貧乏な人がおりました。働いても働いても暮らしが楽にならず、苦しんでおりますと、昔の親しい友人のことを思い出し、その友人が今は成功して、億万長者になっておりますので、訪ねて行こうと思いました。
その友人は大変に喜んで、心から歓迎してくれました。あんまりご馳走になり、ふるまい酒を急に飲み過ぎましたため、すっかり泥酔して、前後不覚になって寝込んでしまいました。
それを見て、その富める友人は『このまま帰してはかわいそうだ。せっかく頼って来たんだから何か土産物をやりたいが、しかしお金をやったら、すぐ酒代にして飲んでしまうだろうし……そうだ、ここに素晴らしい宝石がある。これをこの男の着物の襟に縫い込んでおいてやろう。そうすれば、まさかの場合に役立つだろうから』と言って、無限に価値のある宝石を、その汚い着物の襟に縫い込んでやりました。
急用ができて、その友人は翌朝、二日酔いして寝ているままの友人を置いたまま旅に出かけました。
さて、その後数年、この貧乏に身をもちくずした男は処々方々さまよい歩き、酒に女におぼれて過ごし、依然として卑しい暮らしが続いておりました。
あちこち放浪をしまして再び困り果てると、例の成功した友人のことを思い出し、『あの男は、ああやって成功し億万長者として暮らしているのに、この自分は何というみじめなんだろう。しかしあの一夜、あの男を訪ねて行った時にはうれしかったなあ。お酒も充分飲ましてもらった。うれしかった――もう一ぺん訪ねてみたい』といって、訪ねて行きました。
この人生に敗北した男は、その友人に『あなたは何と恵まれた人でしょう。どうか少しお恵みにあずからしてくれませんか』と申しますので、億万長者の友人は変な顔をしました。
『私はあなたに、百億万円出しても買えぬほど値高い、宝石・ダイヤを差し上げたはずだ。あの宝石があったら、一生楽に暮らせるはずだのに、どうしたんだ?』『いいえ、そんなものはもらっていません』『もらっておらん? けれどもあなたは、あの時と同じ汚い服装をしているではないか。その服の襟には、宝石が縫い込んであるはずだのに』と言いますので、疑いながら襟をほどいて開けてみますと、その中から光まばゆい宝石の珠(たま)が出てきました。無限に価値のある最高のダイヤモンドにも勝る大きな宝珠でした。
これを見て、その男は『アッ、私は何という愚かな人間だったんだろう! こんな宝物が襟の中に隠して縫い込まれてありながら、知らなかったとは!』と申したという話あるが、実は私もそんな卑しい者でして、どれだけ人生焦って努めてみても恵まれず、すっかり行き詰まった時に、この襟の宝石、驚くべき神の霊の知恵を悟り、神の力に生きるようになった次第です。その日から人々は、私を神の王子のように申し、自分でもその自覚に入ったが、だれしも心にこの無限の富ともいうべき神の性質が開けると、私同様になりますよ」と申しました。
信仰の奥義
この話を聞きながら、500人の修行者たちが一斉に「アーッ」と内部神性が開けて、魂が目覚めたといいます。
これは、ルカによる福音書15章にあります放蕩息子が回心して、父のもとに帰ったら、神のもとに帰ったら、立派な服を着せられ、値高き指輪をはめさせられ、立派な靴をはかされて、毎日、神のもとで最上のご馳走を食べながら晩餐(ばんさん)を受けた物語と同一であります。
神は人生に破産した者たちを救おうとして、待ちつつありたまいます。
目覚めぬ魂には、そのありがたみが分からないでしょうが、しかし目覚めた者にとっては、キリストの霊こそ驚くべき神の切り札、オールマイティーの力であります。キリストこそは私たちの心の奥底に隠れた永遠の生命を、無限の富を縫い込み、それを十字架の血汐(ちしお)で証印されたのでありました。
身は神社(やしろ) 心に神をもちながら
外(よそ)を問うこそ 愚かなりけり
という古い歌があるように、私たちは外なる神の神社や教会、寺院に参ることが信仰ではなく、この身そのままが神の宮であり、心の中に神を発見することが信仰の奥義であることを忘れてはなりません。
私たちは、この光まばゆいキリストの栄光の御霊を心の内に発見する時に、自分自身に驚くべき神の子たる自覚が沸き起こってきます。神の生命が自分に受肉し、神の栄光が外に現れだし、自分の人生を賛美せずにはおれなくなるものです。これがキリストの福音です。このためにキリストはご自分の血を流しても、私たち信ずる者どもに、永遠の生命・無量寿を注ごうとされたのでした。
イエス・キリストは、「わが言葉がなんじらの内に宿るならば、何でも望むままに求めよ。さらば、すべてかなえられる」と申されましたが、この神の霊の力を悟ることこそ新生の産声であり、回心の経験であります。