エネルギーの転換

有名なベルクソンという哲学者は『道徳と宗教の二源泉』という本を書いていますが、非常に読むべき価値の高い本であります。

その言うところは、なぜ宗教にはダイナミック(動的)なタイプとスタティック(静か)なタイプの2つがあるのか。何も2つの宗教形式があるわけではなかったのだが、最初は新鮮溌剌として活動的な宗教であっても、やがてその生命が衰えると、静かな儀式事や観想的なものに変わってゆく、ということを問題にして論じています。静かな宗教は美しく見えても、力に欠けています。

例えば山の上の湖に水が満々と湛えられていると、「やあ、美しい富士の五湖だ」などと、人々は湖の美しさを賛美します。

湖の水は、ただ湛えられたままでは、美しいだけですが、しかしひとたび、この静かな水をパイプに導いて逆落としに落としますと、その流動エネルギーは凄い力をもっていて、水車をグルグルと回させたら、ものすごい電気エネルギーに転換し、やがて工場や電車のモーターを動かし、各家庭に電燈をともし、光となすことができます。

水の落差が大きければ大きいほど、落ちてきた水のもっているエネルギーは大きくなる。これ「ベルヌーイの原理」という流体力学の法則であります。この水の落差の力を「ポテンシャル・ヘッド」といいます。それと同様に、私たちはただ、自分の胸の中に美しい信仰をもっているだけでは、「美しい信仰である」というだけのことに終わります。

長い間、日本の山奥の湖はただ水を湛えているだけでしたけれども、戦後には山奥の各地に大きいダムが作られ、この水力を電気として開発することがどんどん行なわれるようになりまして、電気文明の恵みにうるおされて、われわれの生活は便利なものとなりました。同様に信仰というものが、長い間、美しく私たちの胸の中にただ溜められている、ポテンシャルな(潜在的な)状況で存在していましても、宗教改革が起こるたびに、クリスチャンの胸の中にも堰(せき)をきったように、神の力が流れ出し、Put into action, 活動的な状況に切り換えられるような信仰のリバイバル運動が起こるものであります。静かに止(とど)まっていた信心を動的な状態に変換しますと、だれしも信仰の力の素晴らしさに驚くものであります。

2種類の信仰

すなわち、物理学では「力」に2種類があるといいます。1つは不活動の力(位置のエネルギー)であり、もう1つは活動する力(運動のエネルギー)です。例えば、東京の霞が関の36階ビルの窓から鉄材か1つの石を手放してみますと、その瞬間、潜在エネルギーは転換して、何か活動する力となってしまい、道ゆく人を殺してしまうほどにもなります。上下の落差があればあるほど力は大きくあります。

同じく信仰でも、2つの種類――潜在的な信仰と能動的な信仰――とがありまして、私たちの信仰心も潜在したエネルギー状態から発動させて、アクティブな能動エネルギーに転換せしめない限り、いつまでも善いことは始まるものでありません。問題は2つでなく、ただ1つです。いかにして変換するか、ということです。主イエスは弟子たちに「もしこれらのことを知り、そして行なうならば、幸いである」と言われました。

信仰はまず、聞いて知ることから始まりますが、それをいかにして霊的エネルギーとして発動するか? が、私たちの課題なのです。その答えは、手っ取り早く申すならば、われわれに困難でとてもできそうにないけれども、しかし、なすべき善い事だと思っていることを、思い切ってやってみなさることです。信じて行動してみなければ、神の力はわからないんですよ。

まことに信心は力です。超エネルギーです。「人もしこの山に『移りて海に入れ』と言うとも、その言うところ必ず成るべしと信じて、心に疑わないならば、そのごとくに成るべし」(マルコ福音書11章23節)とイエスも言われました。

山ならずとも、この世のあらゆる困難な問題の解決は、私たちがひとたび心の内に潜在する信仰の力で、神のエネルギーを発動させて、行動エネルギーに変換し始めることからなのです。

「神が愛である」「神が全能である」と多くの人々は知っています。神は奇跡を引き起こしてでも、不思議に御力を働かせ、人を救おうとなさる事実も、いろいろ他人から証しを聞いて知っておられるでしょう。けれども自分自身が同じように神の力で救われるということができるのだ、となると、「いや、自分は信仰がないから」と他人事(ひとごと)として止(とど)めてしまいます。知識としては、神の愛も力も知っていますのに、それを自分で味わわないままに、いつまでも見過ごしてゆく。知ってはいるが、信仰の力を活用するすべを知らないでいるのではないでしょうか。これではいけません。

信心を発揮せよ

神に信ずる心は、あらゆる人間に備わっています。「どうも自分は鈍根でして、信仰というものがうすくって」などと言う人があります。しかし、それは間違いです。ある人が、インドの聖者スンダル・シングに、「世の中には宗教的天才とも言うべき特別な人がいる。あなたはそれです」と言った時に、彼は「そうではない。むしろ私は”神に飢え渇く人間”だ。だからこそ、神の御霊をもちたいと切に願って、ついに得たのです。人間はだれでも信仰の心をもっているが、神の霊と力を受けずに、それを使わないままに過ごしているので、自分を不信人のように考えるのだ」と申しています。

嵐が吹くガリラヤ湖で舟が今にも沈みそうになると、弟子たちが、スヤスヤ眠っているイエス・キリストを揺り動かして「先生、先生、私たちは危ない、もう死にそうです」と言いましたら、キリストはすっくと立ち上がって嵐を一言で叱(しか)りつけ、静めてしまわれ、また、弟子たちに振り返って、「お前たちの信仰はどこにあるのか」(ルカ福音書8章23~25節)と言われました。「お前たちは信仰をもっていない」とは言われずに、「お前たちの信仰はどこに隠れてしまったのか。どこに潜んでしまったのか」と叱られたのでした。これは昔の弟子たちにだけでありません。今日のわれら、弟子に対しても同様に向けられる問いかけではないでしょうか?

信仰を切り換えると

聖書に「我は福音を恥とせず、それはすべて信ずる者に救いを得させる神の力だからだ」とありますが、福音的信仰とは、神の力を受けて、人生苦から救われる体験なのです。

大阪で電気部品を製作して販売している人に、亀田耕平さんというクリスチャンがあります。両親の代から熱心にキリスト教を信仰しておられる家族ですのに、何ら魂に喜びもなく習慣的に教会にただ通っておられるだけでした。しかし14~15年前のこと、極度に事業が行き詰まり、借金に苦しみ、毎日の生活にも事欠ぐほどの不安な状況になられました時に、そのころ私の宗教雑誌『生命の光』をお読みになると、もうじっとしておれなくなって、改めてキリストの道を求めて私のもとにおいでになりました。そこで、「今までの消極的信仰から、積極的な信仰態度に切り換えてお進みになるように」と申し上げましたが、たちまち信仰が変わると、ガラリ物事の見方が変わって、心に浮かぶ電気部品の発明のアイデアを次々企業化することを思い切ってなさると、各メーカーから非常に歓迎されて、今、事業は繁栄に繁栄されるようになって、同じ信仰の仲間同士で経営しておられます。信仰と事業・生活は、決して2つではなく、信仰を能動的に生活に、事業に生かすかどうか、その一つにあります。

どうぞ思い切って、神の力を信じて前進(ステップ・アウト)なさるよう、私は祈っております。

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『生命の光』791号