信仰の証し「身延山でメッセージが」

東京大学名誉教授・農学博士
沢田治雄

※インタビュー動画はページ最下部にあります。

日本の宗教的先人を尊んでいるキリストの幕屋で去年の夏、日蓮上人が開山した身延山の宿坊の一つで行なわれた聖会に、私は参加しました。

祈禱会をするため、早朝にロープウェーで身延山頂に昇った時のこと。司会者が「今日は、普段は見える富士山が、霞(かす)んでいて見えないですね」と言いました。

向こうには、見えないけれども確かに富士山があるんだと思いながら、私は瞑想をしていました。すると、見えないその陰に日蓮上人がおられると思ったのです。私は初めて「赦(ゆる)されている」という感じを受けました。

そして、「頼むぞ」という声なき声を。

私の両親は、ある日蓮宗の道場に通っていました。

私は生まれた時、この子はお坊さんの生まれ変わりだが、そのままでは10歳で死ぬと言われて、仏に捧(ささ)げられた子として道場にもらわれるところでした。

道場の方は引き受けようとしましたが、偶然そこにいた信者の方が、まだ小さいからしばらくは家で育てたほうがいいと言われ、私は両親のもとに戻されました。そのかわり、いずれは私が道場を継ぐことになっていたと知ったのは、ずっと後のことです。

信仰に熱心な家庭で育ち、10歳になった時、ほんとうに原因不明の病になって入院したのです。その病院で、自分のためでなく同室の友達のために祈ったら、自分自身の病が治ってしまうという不思議な体験をしました。それもあってか、私は法華経の祈りが好きで、中高生の時も1日に1~2時間祈っていました。

大学院を出て、当時の農林省の林業試験場で、人工衛星からの画像を解析し、森林の調査をしていた時のこと。そのリモートセンシングという技術が日本ではまだ進んでいなかったので、アメリカ留学に送られることになりました。それでカリフォルニア州のサンタバーバラに住んだのですが、そこに『生命の光』が送られてきました。ちょうどその町で聖会を開くので、幕屋の方たちが在住の日本人に送ったのだそうです。

でも日蓮宗の場合は、ほかの宗教なんて邪教で、とんでもない。私も当然、キリスト教なんて全く知りませんし、聖書など一切、開いたこともありません。

ところが、幼い娘が表紙を破ってしまい、中ページの手島郁郎先生の写真が見えました。なぜか知っている方に思えて、読みはじめたら感動で、最後まで読んでしまいました。

これは本物の宗教だと思いました。

でも私はキリスト教には触れないようにしています。そこに幕屋の方から「伺ってもいいですか」と電話があり、家内が「いいですよ」と答えてしまったのです。

お会いして、感じていた抵抗が少し軽くなりました。聖会の当日は、私は出張でいないのですが、家内は行くことにしたのです。そうしたら、出張が延期になって、車で送っていくつもりが、ひょんなことから私も聖会場に入ることになってしまいました。

集会では皆さんが激しく祈り、それが一つにまとまりだして、天に通じるような祈りになったのには驚きました。それで私も真剣に「南無妙法蓮華経」と祈ったんです。私は、祈りはそれしか知りませんから。

そして、どなたかが私の頭に手を按(お)いて祈られた時、その手が天井に届くような厚みをもってドーンと乗っかってきました。私はその瞬間、「うわーっ、あなたはだれだ! あなたはだれだ!」と叫んでいました。ほんとうにありありとした存在があったんです。怖くもあり、でも涙を滂沱(ぼうだ)と流す、強烈な体験をしました。

翌日の集会の祈りもすごくて、終わっても私はなかなか立ち上がれません。そうしたら皆さんが、「よかったね。ありがとう」と握手をしてくださるのです。

すると、その方々みんなの手から、私は床にたたきつけられるほどの力を感じました。後で、そのうちの一人に聞いてみたら、当人はそれを感じていないと言うのです。私は、愛というものが力となって伝わるのだ、と知りました。

それから1週間の出張に行ったのですが、苦しみました。あの生命は、あの人たちは一体何だったんだと。もう仕事どころじゃないほどです。まず思ったのは、あの愛という力をもって、私は日蓮宗の道場を立て直すんじゃないかということです。しかし、あれは日蓮宗ではない、キリスト教の集まりだった……。

私は出張の帰路にロサンゼルスの幕屋を訪ね、聖会での体験や、思っていることを話しました。その時に、幕屋では3時間ごとに「祈りの時鐘」が鳴るのですが、それが鳴って、皆が手を合わせました。

私もつられて手を合わせたら、体が全く動かせなくなってしまったのです。「助けてください」と言ったら、「キリストの神様、と言いなさい」と。

私が出会った存在は、果たしてキリストなのかどうか、長い葛藤(かっとう)の時間の後で、「神様」と言った時です。太陽のような光がバーンと入ってきました。私は、生まれる前から自分と共におられたのは、この方だ、とわかりました。それで、進むべき道を知りました。

10カ月間の留学が終わり、日本に帰る時、家内に言いました、「これからは幕屋で生きる」と。

私は、道場の先生に一切を話しました。そうしたら、ご自分も若い時に道を求め、出合ったのが日蓮宗だった。だから、ほんとうに出合ったのならその道を進んだらいい、と認めてくださったのです。そのかわり、日蓮宗の道場から破門になりました。

それからほんとうにうれしくて、また素晴らしいことが続きました。でも1年後には、生まれてくるはずの娘が死産で天に召されるという、つらいところを通りました。周囲からは、それ見たことかと言われました。

ちょうど1年前に幕屋の聖会に参加したその日、娘を荼毘(だび)に付すことになり、この矛盾は何だろうと思いながら、持っていた自分の聖書を棺(ひつぎ)の上に置きました。その時、覆ってくる生命がありました。

そして、うれしいことだけではなくて、何があってもこの道なんだと、本当の意味で心が定まったのです。娘の死を通してはっきりとキリストにつながったということが、自分でわかったんですね。

天界というものが近く感じられ、天と会話をするような境地になったのも、そのことを通してです。

そうして今に至るまで、神様のえこひいきが押し寄せるような、もったいない人生を歩んできました。

身延山頂にて瞑想し祈る筆者

去年の夏、身延山での聖会に参加し、山頂で瞑想をしていた時、私は初めて知りました。過去のことだと割り切り、何か無視したようでいて、実は自分の中にずっと引きずってきていたことがあったのだと。

私の内にこれまで、日蓮上人との関係がすっきりとしていなかったことに、気づかされました。

山頂で、見えない富士山の方向に日蓮上人を感じ、「頼むぞ」とメッセージを受けたことは、思いもかけない出来事でした。

日蓮上人を日本の生んだ最大の宗教的偉人と尊敬された手島先生は、かつて身延山の同じ宿坊で聖会を開かれました。そして、宗教を超えて日蓮の精神を嗣ぐ者との自覚に立って、「日蓮の骨よ、生き返って、わがバックボーンとなれよ!」と言われました。

真の霊的実在との出会い。そのような体験は、仏教であろうとキリスト教であろうと、すべての宗教に通ずるものだと思います。

日蓮上人は、何が最も尊い道かと求めに求め、法華経こそが最高の経典であること、そしてそれを奉ぜずして日本は救われないと訴えてやまなかった方です。

輝き昇る朝日(身延山頂へのロープウェーにて)

私たちが、その後の時代に日本に伝来し、これこそ真の信仰と信じるキリストの道を求めに求め、それをもって祖国を興そうと願うこの背中を、日蓮上人が熱く見つめてくださっている。

私にも、そして参加者の皆にも、日蓮上人がすでにバックボーンとなってくださっていたのではないか。

そう、この聖会で知らされました。

プロフィール

東京大学教授や森林研究・整備機構理事長を歴任。現在は、大日本山林会副会長を務めている。
茨城県つくば市在住。72歳。


本記事は、月刊誌『生命の光』862号 “Light of Life” に掲載されています。

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