友を訪ねて「言葉を超えたコミュニケーション」

パソコン画面を真剣に見つめる子供
白濵純(エルサレム在住)

「目もあまり見えず、話すこともできず、一人では体を動かすこともできないほど重度の障害をもつ子供たち。コミュニケーションを取るのは非常に難しいのですが、でも彼らの心の中は、伝えたいことであふれているのですね」
そう語るのは、イスラエルの障害者施設「ケレン・オール」でボランティアとして働く白濵純(しらはま じゅん)さん。
白濵さんと妻の汀(なぎさ)さんが働く施設を訪ねました。(編集部)

私は大手電機メーカーの技術者として、60歳の定年まで働きました。35年間も続けた技術開発や特許にかかわる厳しい仕事から解放されて、定年後は毎日、家でゴロゴロして過ごしていたんですね。

そんな時、「イスラエルの福祉施設でボランティアを募集しています。白濵さんたちは英語もできるし、どうですか」と声をかけてくださる方がありました。

私たち夫婦は若いころから幕屋の信仰をもっていて、聖地イスラエルに行けるなんて願ってもないことです。「何ができるかわからないけれど、行ってみよう」と、思い切って出かけてきました。

「ケレン・オール」の精神

私たちがボランティアをする「ケレン・オール」は、イスラエルの首都エルサレムにある、視覚障害やさまざまな障害をもつ子供たちの訓練施設です。ここには、3歳から21歳までの子供や若者が約80人います。

彼らは、自分の感情や意思を伝える手段をほとんどもたない状態でこの施設に来ます。泣く、叫ぶ、暴れるなどが精いっぱいのコミュニケーション手段なのです。でも、彼らの心には実際、豊かな感情や思いがあります。さまざまな手段を使って、時には気の遠くなるほどの時間をかけて、彼らの内的世界を表現できるようにし、また少しでも社会生活を営めるよう訓練することが、この施設の目的です。

私がここに来て感動したのは、話すこともできず、自分で動くこともできない重度の障害をもつ子供に、一人の人間としてスタッフが本気で相対していることです。普段スタッフはものすごく優しいのですが、作業のルールを守らない子には真剣に叱(しか)って、「理解できないから」と適当には済ませないですね。

「ケレン・オール」とは「光、光線」といった意味です。スタッフには「人はみな、神のかたちに造られている。どんな子でも、神の光がその内側にはある。それを輝かせるお手伝いをしよう」という、聖書の人間観に基づいた精神があると感じています。

愛情が心から突き上げる

私は最初、障害をもつ子供たちの世話がほんとうに自分にできるのか、不安でした。家内も、「あなたに務まるの?」と言っていましたね。

何しろ私は、完全な会社人間でして、自分の子供のおむつを替えたことも、離乳食を食べさせたこともありません。しかも、人間より機械が好きなタイプの技術者でしたから。ですが、その不安はボランティアに来た最初の日に、見事に吹き飛びました。

私はその日、小頭症でほとんど体が動かない男の子のお手伝いをしました。運動機能の訓練をするために粘土細工をするのですが、一人では何もできないので、初めは私がその子の両手を持って動かしてあげながら、粘土をこねていました。

ところが、何度か一緒にやっているうちに、その子がゆっくり手を動かし、自分の意思でこねはじめたのです。私はそれに気がつかずに手伝おうとしたら、隣にいて観察していたスタッフが、「ちょっと待って。彼がやろうとしている」と言うのです。スタッフは、子供のちょっとした変化も見逃さないのですね。

そこで私が手を離すと、彼が何分もかけてゆっくりと手を動かして、粘土を一生懸命こねたのです。最後に私が、でき上がったお皿を手に取って「ほら、こんなに上手にできたよ」と見せてあげると、彼がほんとうにうれしそうに、ニコーッと笑ったのです。

その笑顔を見た瞬間、思ってもみなかった喜びが私の心から突き上げてきました。「ああ、この子は精いっぱい生きているんだ。かわいい!」という感情がわいてきたのです。それは、私にとって大きな驚きでした。

その時以来、最初の不安は消し飛んでしまいました。どの子供の訓練に参加しても、わずかな成長を見るたびに、同じ感動と喜びが繰り返しわいてくるのです。

子供たちの心はとてもきれいで、こちらがいやされます。私の声を覚えてくれていて、朝、私が教室に入って子供たちに声をかけると、目の見えない子供たちが一斉に私の方を向いて、ニコッと笑うのです。その時は、涙が出るほどうれしいですね。

会社員時代、技術者として多くの課題に挑戦し、克服した時もうれしかったです。でも、ここで子供たちのほんの小さな成長に感じる喜びは、これまで味わったことのないものです。その時、「ああ、きっと神様も、私のこのわずかな心の成長を、跳び上がるようにして喜んでくださっているに違いない」と思いました。

そうして、私の心に子供たちに対する愛情がわくと、話すことのできない子供たちの心に触れられるようなことが次々に起きはじめたのです。

スタッフ全員で大喜び

ここでの私の仕事の一つは、コンピューター・システムを使ってコミュニケーションを助ける訓練をすることです。言葉で意思表示ができない子供のために、コンピューターの画面上のある位置に視線を合わせるだけで意思表示ができる、というソフトを使います。

このシステムでいちばん大変なのは、画面を見ることが意思表示になる、ということを子供たちが認識するまでの訓練です。

一人ひとり訓練の方法は違いますが、ある女の子の場合、特に音楽に反応する子でしたので、まずパソコンから音楽を出して、それを止めることで「もっと聞きたい」という気持ちを起こさせます。画面を見ればもう一度音楽が流れ、それによって「画面を見ると、自分の意思が伝わる」と認識させるのです。

ところがその子は、何度繰り返しても画面を見てくれません。ある日、祈り心地でいたら、「そうだ、教えようという気持ちじゃなく、この子の気持ちになるんだ」と神様から示されたんです。それで、彼女になったつもりで目を閉じ、耳を澄ましてみました。すると、私が流す音楽の音だけでなく、周囲にはたくさんの音があふれていることに気がついたのです。

私たちは自分の聞きたい音を選別して聞いていますが、彼女は耳に入るすべての音に反応していたのです。そこでスタッフに協力してもらい、教室の中の音を一度、完全に消し、私が流す音楽だけに集中させてみたところ、私が音楽を止めた時に、8割以上の確率で画面を見て、「もっと音楽が聞きたい」と意思表示するようになったのです。

その時は、「純、よくやった!」と教室のスタッフ全員が大喜びしてくれました。何しろこのシステムが使えることは、この子が将来、自由に意思表示できるようになる、その大きなきっかけなのですから。

目の動きを感知してシステムが反応し音楽が流れる

愛こそコミュニケーションの基盤

「ケレン・オール」に来ていちばんうれしいのは、子供たちと過ごしていると、神様の愛は全く無条件なのだと実感できることです。

私がこれまで生きてきたのは、「能力があり、効率がよい者が尊ばれる」という世界でした。そのような基準で測られたら、ここの子供たちは何かができるわけではありません。でも、その子供たちに対して私の内側からあふれる、愛の情動を感じた時、「私自身も、キリストから、また信仰の先輩たちから、この愛で愛されてきたんだ」と初めて気がつきました。

自分に何かがあるから、愛されたのではない。人間の存在自体がもう、神様にとって愛の対象なのですね。こうして子供たちと触れ合ってみて、「存在すること自体が祝福であり、生きていること自体が聖である」という、現代のユダヤの賢者といわれたアブラハム・へシェルの言葉をかみしめています。

ここでは、いろいろな道具を使って、子供たちとのコミュニケーションを取ろうと努力します。でも、何よりもコミュニケーションにとって大切なのは、愛の心ですね。テクニックやマニュアルではなく、愛をもって接しつづけるうちに、子供の心に触れる。その時、喜びがわいてきます。

今では一日じゅう、考えることといえば「ケレン・オール」の子供たちのことです。一人ひとりがより健康に、元気に過ごせるために「神様、私に知恵を与えてください」と毎日、具体的に祈りがわきます。そして、神様から声なき声で教えられることは必ず驚くような結果を生み出すことを、日々学ばされています。

70歳を過ぎた私ですが、聖地エルサレムの特別な日々の中で、新しい心、またその喜びが開かれつつあることがうれしくて、感謝でなりません。


本記事は、月刊誌『生命の光』847号 “Light of Life” に掲載されています。