信仰の証し「利尻島の虹」
土田慶子
北海道の稚内(わっかない)からフェリーで2時間、利尻島は私の生まれ故郷です。島に着いてホテルの部屋の窓を開けたら、虹(にじ)が出ていました。突然、「恵まれた女よ、おめでとう。わたしはずーっと、あなたと共にいるよ」という声を聞いたんです。涙があふれてきました。
2人の兄の遭難
私は、漁師の家に生まれました。父は戦争から帰ってきたら、漁は息子たちに任せて、よくお酒を飲んでいました。普段はおとなしい父ですが、お酒が入ると人が変わったようになります。母に暴力を振るうので、母と私は父を避けて、海辺の昆布小屋で一夜を過ごすことが何度もありました。
私が中学2年生の冬、12月、長男と五男の、2人の兄が漁に行き、荒波にのまれ船がひっくり返って、遭難してしまいました。北の海はとても冷たく、海に投げ出されたら、数分で死んでしまいます。
毎晩のように、遭難した兄が、「助けてくれー!」と叫んでいる夢を見ました。私は仏壇の所に行って、「どうしてこういうことが起こるんですか」と泣いて祈っていました。
不幸が続くわが家のことをうわさしている、村の人の声に耳をふさぐようにして、いつも道の端を歩いていました。学校の休み時間も、独り体育館の隅で本を読んだりしながら、時間をつぶしていました。
人生の転機
私は中学校を卒業後、利尻島を出て稚内の兄の家に世話になりながら、高校に通っていました。高校3年生の時、兄の友人に誘われて教会に行きました。
その時、賛美歌というのを初めて聞きました。私、ものすごく魂が震えるものがあったの。ああ、私はこういうものに心が渇いていた、と気がついた。それで喜んで帰りました。
それからは日曜日ごとに、朝に夕に一生懸命、教会に行っていたの。魂の渇きが大きかっただけに、求めもまた激しかった。そして、自分の人生は神に捧(ささ)げよう、と思ったのです。
それで高校を卒業した後、親のいない子供たちを育てる児童養護施設で働くことにしました。子供たちが60人くらいいたかな。職員はクリスチャンが多く、とてもいい人たちでした。
やりがいがあって忙しく働いていましたが、ある時、施設の子供が白血病になったのです。当時は、白血病は死に至る病でした。親がいないから、お見舞いに行く人もいない。職員もしょっちゅうは行けない。
死を前にした子供に、私は何もしてあげられない。その時、自分の信仰に力がない、教会の信仰ではだめだ、ということがわかったの。行き詰まってね、一日仕事を休んで、部屋に閉じこもっていました。その晩、夢を見たの。大きい鷲(わし)に乗って人が天から降りてくるんです。直観的に、「あっ、イエス様だ!」と叫んで目が覚めた。そして、次の日も同じ夢を見たんです。
悩んでいる私を見て、同じ施設で働いている人が、私を旭川幕屋の集会に連れていってくれました。
そこでは、沼田功先生という若い方が伝道しておられました。初めての集会で、聖書講義を聴いてもよくわかりませんでした。ところが、集会が終わって沼田先生に、「あなたはどこで働いているの」と聞かれたので、「児童養護施設です。自分の一生を捧げたいと思っています」と言ったら、即座に「それはあなたの一生の使命ではありません」とはっきり言われました。
その時、何てことを言う人だろう、私の気持ちも知らないで、と心の中で悶々(もんもん)として帰りました。
次に幕屋に行ったのが、聖霊降臨節(ペンテコステ)の集会でした。心に悶々としたものがありましたが、信仰的に行き詰まっていたので、必死に祈りました。その集会で沼田先生が私の頭に手を按(お)いて祈ってくださった時、聖霊を注がれたんです。涙は出るし、うれしいし、決定的な回心の体験でした。
亡くなった兄たちの魂も救われる
回心の体験をした後、思い切って児童養護施設を辞めて、旭川幕屋の沼田先生のもとに転がり込んで、信仰を学ぶことになりました。
幕屋で夜、寝ている時でした。布団に入ったら、不思議な霊的な雰囲気が周りを囲むの。天から天使たちの歌うクリスマスの歌が聞こえてくる。
よろこびたたえよ
主イエスは天降(あも)りぬ
そうしたら死んだ2人の兄がパッと現れた。そして、「ぼくたちは生きているよ」と言うんです。
その時、察するものがあったのね。兄たちは突然の事故で亡くなり、特別に信仰をもっていたわけでもない。でも、生きているんだ、と思った。次の朝、「沼田先生、実は兄2人が冬の海で遭難して亡くなったんです。私は、兄たちの魂はどこへ行くのだろう、と思い悩んできたけれど、昨夜、こんな不思議なことがあったんです」と言ったら、「あなたのお兄さんたちの魂は、どこに帰っていいかわからなくて、さまよっていたんでしょう。あなたが地上で祈っていると、その魂は神様のもとに帰ることができるんですよ」って言ってくださった。
この原始福音の信仰は本物だと思ったんです。
贖われた地に帰ると
その後、東京に出て手島郁郎先生のもとで信仰を学び、伝道を志す人と結婚して、浜松、帯広、神奈川……と各地で伝道してきました。大変なこともあったけれど、キリストが導いてくださいました。
最後、主人は病に倒れ、熊本が終焉(しゅうえん)の地でした。お墓を建て、私もそこで生涯を終えるつもりでした。
ところが昨年、自分はこれでいいのだろうか、私は旭川で救われたといっても、神様のために何の役にも立っていません。ほんとうに申し訳ない。そう思ったら矢も盾もたまらなくなって、「神様、北海道に帰ります」と祈って、旭川に移住してきました。
帰ってきたものの、現実は寂しかった。熊本では、多くの信仰の友人に囲まれて、楽しくやっていました。でも、ここは少数でしょう。体も思うように動かない。心燃えるものはありますが、この寂しさと闘っていかなければなりませんね。
でも、うれしいことがあります。私が北海道に帰ってきたので、中学校の時の同級生たちが、クラス会をやろうということになって、60年ぶりに集まりました。そこで私は、どういうところからキリストに導かれてきたかを証ししました。それによって、友人の一人が、『生命の光』の読者になってくださいました。
また、私の甥(おい)に当たる、亡くなった長兄の息子と会うことができました。
「私が聖霊を受けて回心した時、あなたのお父さんが幻のように現れたの。あなたのお父さん、天の世界で生きているのよ」と言ったら、びっくりしていました。そして、いろいろ聞いてくるんです。
久しぶりに故郷に帰ってきました。海を見るとさまざまなことがよみがえってきます。海沿いの道を人目を避けるようにしてつらい気持ちで歩いていた私に、キリストは目を留めて、救い出してくださいました。そして、死んだ兄たちの魂も救ってくださいました。
私の人生、ほんとうに導かれました。利尻島のホテルの窓から虹が見えた時、キリストが、「恵まれた女よ!」と御声をかけてくださって、うれしかった。
贖ってくださったキリストに感謝いたします。
本記事は、月刊誌『生命の光』861号 “Light of Life” に掲載されています。