読者を訪ねて「キリストとの出会いを伝えたい」

脇田眞一

 私たち幕屋では教派を超えて、キリスト教の純化を願っています。『生命の光』誌の熱心な読者である日本基督(キリスト)教団東大阪教会の脇田眞一(わきた しんいち)牧師にお話を伺いました。(聞き手・『生命の光』誌編集員 青木偉作)

青木 脇田さんは、元々は企業戦士でいらっしゃったそうですね。

脇田 はい、私は大手の電器製品会社の社員でした。昭和35年(1960年)に入社し、定年まで勤めました。家電製品の特許に関する仕事です。日本も高度成長期でしたから、特許取得競争が激しくなり、特に海外の企業とバチバチ火花を散らしてやっていました。

その間、私は大阪のキリスト教会の集まりなどにいろいろと顔を出していました。その姿が牧師さんたちの目に留まり、勧められて、50歳を過ぎてから試験を受けて、牧師の資格を取りました。

死の問題の解決を求めて

私は子供のころから、死ぬことをとても恐れていたんです。私は徳島の田舎の出身ですが、昔の棺(ひつぎ)は桶形(おけがた)で、人が亡くなると手を合わせさせ、膝組(ひざぐ)みをさせて桶に入れます。そして棺桶を担いで村の寂しい所へ野辺送りしますが、私はそれが怖くてね。

高校生のころから、「人はどうせ死ぬんだ」という思いに取りつかれて、つらくて勉強も手につかなくなり、帰宅すると毎日『徒然草(つれづれぐさ)』を読みふけっていました。この本は仏教の無常観で貫かれていますから、それですっかり生きる気力がなくなってしまったんです。

厭世観(えんせいかん)から華厳滝(けごんのたき)に飛び降り自殺したエリート学生の、藤村操(みさお)なんかにも非常に共鳴しましてね。一時期、真剣に自殺を考えたこともありました。

それで、出家して僧にでもなったら死の問題を解決できるのではないかと思い、近くのお寺に行ったんです。とにかく死の問題を解決したい一心で、「出家させてほしい」と言ったのですが、高校生だったので親の許可がいるということで、それはかないませんでした。

青木 出家まで考えられた方が、なぜ牧師に?

脇田 はい、大学時代、近くに教会があり、何かひかれて行ってみました。そして洗礼も受けたのですが、「お釈迦(しゃか)様の言うこととキリストの言うことと、どっちが本当なんだ?」などと考えているような私でした。

でも、28歳の時に、中野琳三(りんぞう)先生という平信徒の方とお出会いしたんです。その方が私のために10年間、毎週土曜日に2時間ぐらい、信仰の対話をしてくださいました。

私は、大学を出て就職したのですが、実は会社では人格を否定されるような、ほんとうにつらいところを通っていました。罵倒(ばとう)されることは、日常茶飯事です。四六時中どなられっぱなしで、それがつらくて、ずっと慢性胃炎でした。定年退職してピタッと治りましたが。私の同僚が2人、その上司や会社からのプレッシャーで、心身を壊して亡くなったりもしました。

そのような、妻にもだれにも話せない悩みを中野先生にお話しすると、先生は「仕事の中でも神の言葉で生きているか?」と、時には涙を流しながら語りかけ、めげそうになる私の心を奮い立たせてくださいました。そして、亡くなる直前まで関西各地で伝道されました。私はそのお姿に、「やはり本物だ」と思ったんです。

それは幕屋の集会に出た時にも感じました、「ここは本物だ」と。『生命の光』誌などの手島郁郎先生のご講義を読めば読むほど、「手島先生の信仰は本物だ」と感じますね。実は、中野先生の所にも『生命の光』誌の特集号が届いていて、今思えば、先生の書棚には幕屋の本が数冊あり、幕屋をご存じでした。

「強く雄々しくあれ」

青木 脇田さんは、霊的な体験をされたことがおありだと伺いました。

脇田 ええ、実は定年退職後の62歳の時、私は生きるか死ぬかの状況まで追い詰められたことがあるんです。肉腫(にくしゅ)という珍しいがんが見つかり、手術をすることになりました。

手術の前日、医師から、「非常に難しい手術になるので、死も覚悟してください」と言われたんです。それで、遺言を書こうとしましたが、「これがこの世に残す最後の言葉だ」と思った瞬間、感情がワーッと込み上げてきて、一文字も書けないんです。

ベッドの真ん中で正座すると、「いちばん下の子供はまだ学校に行っているし、どうなるんだろうか」など、いろいろと家族の心配事が込み上げてきて、心は乱れに乱れました。

それで祈りに追い込まれ、思わず手を合わせて、無我夢中で御名を呼びました。そして、最後に絞り出すように、「天のお父様、一切のことをあなたにおゆだねいたします……」と言い切った、その瞬間です。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか! 恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの主は共におる!」という声が響いてきました。そして、「ああ、私は死んでいく。でも、その横に神がいてくださる」という思いと共に、喜びと感謝があふれてきて、不安と恐怖が消えてしまったんです。

それが私にとっての、初めての霊的な体験です。

それから家内と5人の子供に、それぞれ遺言を書きました。「キリストの道に歩むことが大事である」ということだけを6通書いて、枕許(まくらもと)に置きました。

翌日、起きても、昨日の平安がそのまま続いているんです。そして手術台に乗せられ、「いよいよ死ぬかもしれない」と思いましたが、平安そのものでした。

「おかしいな」と思ってですね。あれほど気が小さくて、死を恐れていた人間が、死が怖くない。理屈じゃないんですね。なぜだかわからない、でも平安そのものなんです。そして、7時間にわたる手術が終わりました。それから2週間ぐらいで退院できました。

そのような体験をしてからは、教会でも人の前でも、永遠の生命や復活ということを話しだしたら、体全体から力がバッと出てくるんですね。

それまで、頭で学んできたいろいろな理屈などに縛られていましたが、それ以来、吹き飛んでしまって、主イエス・キリスト、これさえつかんでいたら大丈夫なんだ! と確信をもって語れる者に変えられました。

最期の一息まで

青木 生けるキリストとの、素晴らしい出会いの体験ですね。今は時々、幕屋の集会にもいらっしゃっていますが、どのような感想をおもちでしょうか。

脇田 私は、先に幕屋を知った弟の熱心な勧めで集会に参加しました。幕屋には全身全霊で、腹から祈る祈りがありますね。その祈りに、私が手術前に経験した、霊的体験に通じるものを感じたんです。

数年前、私が初めて参加した大阪幕屋の集会には、肺がんの末期の、若いお母さんが来ておられました。幼い2人の子供を残して死ぬかもしれないということで、大阪幕屋挙げて、必死で祈っておられました。あの時の祈りはすごかった。

その後、見事にがんがいやされましたけれど、あの祈りなら奇跡も起きるだろうなと感じました。

青木 私もその場にいまして、同じように感じました。

脇田 私は今、87歳ですが、いろいろな教会の活動を担っています。「こころの友伝道」、これは訪問伝道です。また、賀川豊彦先生の始められた「イエスの友会」という運動もしています。大阪での運動の後継者がいないので、責任者に私が任ぜられています。

それらの活動を通してでも、私は最期の一息まで、キリストをのべ伝えていきたいです。幕屋の皆さんがキリストとの直接の霊的体験を求め、証ししておられるように、私自身も体験したキリストとの出会いを、死ぬまで伝えていきたいと願っているんです。

青木 キリストの御名のため生きることは、お互い感激ですね。今日は、ありがとうございました。


本記事は、月刊誌『生命の光』844号 “Light of Life” に掲載されています。